こんばんは、卯月です。
今日は週に1度のカウンセリングの日でした。
このところ、鬱でしんどいのになぜかイライラしてしまう、と私は訴えました。
私の話をひととおり聞いていた先生は、「この天気ではイライラしても仕方ないですよね、もう2週間もこんな天気で、おまけに誰も『明日は晴れる』と言ってくれない」と言いました。そして、いろんなことを我慢しすぎているんじゃありませんか?と私にたずねました。たとえば、子どもたちはもう大きいのだから、24時間お母さんをやっている必要はないんですよ、と先生は続けて言いました。「母親である前に人間なんだから、一人になりたい時があって当たり前でしょう。一人にしといて、話しかけないで、と子どもたちに言ってもいいはず。理解してくれるはず。もうちょっと子どもたちを信用してあげてもいいんじゃないでしょうか」。
私は考えました。私が子どもたちを信用していないというより、信用されていないんじゃないかと不安なんだ。
たとえば私が一人になりたいと言ったとしたら、子どもたちは私に拒絶された、自分たちは邪魔な存在なんだ、と思って、私に見捨てられたと感じてしまうんじゃないか。
そう思うと、私は自分の部屋にはこもれないし(いや、私の部屋は物置状態だから物理的に無理なんだけどさ)、今、話しかけられたくないんだなどとは言えない、いや、思ってもいけないんじゃないか。
そう思ってしまうんだ。
子どもたちが「自分たちは捨てられるかもしれない」と感じてしまうことが私はこわい。
それはつまり、裏を返せば、私が子どもたちを実は捨てたいからやましいのかもしれない。
「お子さんたちはあなたにわがままを言うでしょう、捨てられるとは思っていない証拠じゃないですか」と先生は言いました。
そうかもしれないけど、私は不安になる。
親に捨てられるこわさが、どれほどのものか。私は幼い頃に、それを感じたように思う。いつからか、なぜなのかはわからないけど、私は「自分は邪魔者だ」と思って育った。母親が自分を置いて出かけると、「今度こそもう帰ってこないんじゃないか」と本気で思った。
だからいつも母にくっついていき、よけいに疎ましがられていた。
私は子どもたちに、あんな不安な思いをしてほしくない。
ここにいる、そばにいるよ、一緒にいるよ、といつでも言ってあげたい。
と、これを書きながら、私はふとおかしくなった。子どもたちはもう22歳と17歳。万が一にも私が捨てても、自分たちでなんとか生きていける歳なのだ。
それなのになぜこんなに、私は不安なのだろう?
さて、ケータイの話です。
今日、機種変更をするべくソフトバンクショップに寄ったら、さんざん待たされた挙句に、私のほしい機種は品切れで、あさって取り寄せてもらううことになりました。しゅん。
あさっては朝から晩まで薬局の仕事なので、帰りに受け取りに行くことにしました。
待ち遠しいよおおお。
まあ、それならあさっての仕事に行く楽しみがあるじゃん、と自分をなだめていますが。
ああ、今日も帰りにドーナツを買っちゃった。ミスドのホットチキンパイがおいしいよ。
ではまた明日ね。おやすみなさい。