今日一日だけ生きてみよう

卯月タラの日々のつぶやき

楓を聴きながら。

2017-12-31 18:08:25 | タラの日記
最近好きなUruを聴きながらの更新です。
彼女のカバーする「楓」と「ハッピーエンド」が好きです。

さて、大晦日。
年々ズボラになってゆく、年末の私。
昨日も今日も、怠くて何も手につかず。
結局、掃除もできずに今日この時間。
買い出しも、ほとんどネットスーパーから持ってきてもらい。
年賀状も半分くらいしか出せていない。
おせちは、近年はもうほぼ買ったもので小さなお重を埋めるのだけど、その準備も全然まだ。

ひと言で言うなら、だらだらです。
それでも年は越せる。

今日、ネットで、保育士国家試験の受験手引きの請求をした。
4月、受けようかと思っている。
9科目一発合格は無理だと思うけど、受けてみようかと。
それで何が変わるのか、何が見えてくるのか、わからないけど。
勉強する気力、体力、エネルギー、それらがあるのかどうかも危ぶまれるけど。

2018年、どんな年になるかな。
良い年になりますように。
まだ年越しの実感がわかないけどね。
では、みなさんも、良いお年をお迎えください。

元気の湧かないイヴ。

2017-12-24 18:27:39 | タラの日記
メリークリスマス!
って、1日早いか。
明日は仕事だし遅番だから、多分ヘロヘロになってる予想。

先週は月曜日は休んじゃったけど、シフトどおり水曜と金曜は出勤できた。

金曜は夕方から職員会議、その後、忘年会。
気おくれしつつ参加したけど、みんな気持ちよく仲間に入れてくれた。
行ってよかったかも。

さて、クリスマスという実感はないが、とりあえずチキンとケーキを買いに出る。
寝ている息子を起こしてケーキを食べるという、なんだかムードも何もない感じ。
なんとなく、息子も私も元気が出ないので仕方ないかな。

今年は、友達にカードもメールも何も送らなかったな。
ずっと鬱々としていて、そういう気持ちになれなかったのだ。

ちっちゃいぬいぐるみとバッグを自分へのプレゼントに買ったけど、今ひとつ嬉しくならない。

仕事は、年内あと2回。
年末らしいことを、今年も多分ほとんどやらずに年を越すのだろうな。
あ、年賀状は書こうと思って用意したけど、今やメールやLINEで済ませる人も多いから、去年より枚数は少ない。

ではまた。
なんとなく、盛り上がらない今年のクリスマスなのだった。

休んでる。

2017-12-18 13:08:00 | タラの日記
おとといで、いつものクリニックは年内は終わり(来週土曜日が祝日だからね)、次の予約は年明けになる。
3週間、先生に会えなくて大丈夫なのかなと、不安でたまらない。

細かなあれこれが気になり、頭がおかしくなりそうだと思って、自分を追い詰めないために、今日は仕事を休んだ。
別に、仕事で追い詰められてるわけではないのだけど、仕事に付随するあれやこれやから、少し自分を離したほうがいいと思った。

午前中ずっと寝ていた。

お昼頃、近くの郵便局とクリーニング屋さんに、ぶらぶら歩いていった。
遺族年金がおりたので、いろいろ支払いをして、それと、母にクリスマスカード、受験生のお子さんを持つ友達に小さな御守りを送った。
クリーニングも、ずっと後回しにしてたのをやっと出せた。

用事をいろいろ済ませたことで、自分の中のごちゃごちゃが、少し片づいた。

あとは、少しゆっくりしようと思う。
のんびり、というのが、今の私には多分、足りないのだと思う。

明後日はちゃんと出勤しよう。

今週金曜は職員会議が夕方からあって、夜は職場の忘年会。
飲み会みたいなの自体あまりない職場だし、これまであまりそういうの出ないでいたのだけど、今回は出ようかなと思っている。
なんとなく、行かないと寂しいかもしれないと思って。
親睦も大事よ、と自分に言ってみる。
行っても寂しいかもしれないけど、そうなったらそれは仕方ない。
楽しくなることを期待する。

今年もあと僅か、でも実感が全くない。
師走だというのに、のんびりとか言ってちゃダメか。
走るべき?
いや、いつも走ってるから。いいか。

解離。

2017-12-11 17:37:00 | タラの日記
先月の終わりに、いつものクリニックで解離を起こしてから、なんとなくそれを引きずって、元気が出ないでいる。

解離(乖離?)というと、昔で言う「多重人格」のイメージがあるかもしれないけど、重症だとそういう症状が出る人もいるけど、私の場合は明確な人格の交代があるわけではない(と思う)。
ただ、目の前の現実がキャパを超えると、意識を失う、という症状が、若い頃はしばしば、その後もたまに、あった。

でも、その先月の終わりの解離は、意識を失って倒れるという、いつものパターンと違っていた。
記憶は飛び飛びだけど、私は倒れてはいなかった。
小さい子みたいになっていた、と主治医の先生は言っていた。
そのあたりを、私は覚えていない。

がーん。
なんだそれ。

とにかく、無理をしないように、と言ってもらい、薬を足してもらって帰った。

倒れる時は、自分でわかる。
あ、ダメだ、と思う。
でも、今回のは想定外で。

自分が想定外の状態に陥った、ということもショックだった。
そして、ほぼ寛解と勝手に思っていた自分が、まだまだなんだということに、打ちのめされた。

先週、クリニックに行った時、そのことについて話した。
解離というものについてまるで知らないわけではなかったけど、後天的な要因で起こりやすい、そしてやはり虐待を受けて育った人に起こりやすい、ということを先生の口から聞くことができた。

やっぱりなぁ、と思った。
わかっていた。
確認したかっただけなのだ。

子ども時代のことを、親を、私は許しているつもりだった。
でも、先生の「被害者が加害者を許せるはずがないでしょう。それはもう、宗教の話だ」という言葉を聞いて、親を許さなくていいのか、と思って救われる自分がいたのも確か。

人を憎んだり恨んだりして生きていくのは醜い、と思ってきた。
心をきれいにしておきたかった。
優しくない自分は自分じゃない、認めたくないと思っていた。

親を恨んでいるのかな、私はまだ。
そういう、汚いと思ってきた感情を排除して無いものとしてきたから、解離が起きるのかな。

きれいな世界に住んでいたい。
私が、きれいなものやかわいいものをひたすら追い求めたり集めたりしているのは、本当は、現実から目を逸らしたいからなのかもしれない。

汚い自分を許すか。
どこまでもそれを排除したい自分を許すか。
よくわからない。

楽をして生きていきましょう、と先生は言ってくれたけど、どうするのが楽なのか、わからない。