硝子戸の外へ。

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老いと死について。

2018-08-29 21:49:47 | 日記
病院のエアコンが故障した為、入院中の高齢者が亡くなったというニュースが報じられていた。
病院の対応に問題がなかったか、警察は殺人事件として、事実確認を進めているという。

病院は「病気を治すところ」でもあるが、「治る見込みのない病を、残りの人生において。医療行為を含む、生きる為の最低限のケアを、対価を払うことで保障される」場所でもある。
したがって、エアコンの故障で命を縮めてしまったことは、最低限のケアの確保を怠ったといえ、エアコンの不調はずいぶん前からあったことも推測できることから、対応を先延ばしにしていたのではないかという疑念も否めませんが、責任追及の果てにその病院が機能停止してしまった時、入院中の患者さんたちの「人生」はどうなってしまうのだろうかと考えてしまいます。

しかし、一昔前のようにまだエアコンがない時代であれば、今年のような暑さでは、体力のない高齢者が生きてゆけないのは、自然の摂理の範疇であるようにも思います。

食生活が豊かになり、科学技術や医療技術や化学薬品が飛躍的に進歩し、多くの病を治すことが出来るようになっても、身体が老い不自由になった時、それでも人は幸せを感じることが出来るだろうか。

家族がいるのであれば、家族に囲まれ自身が生きてきた自宅でその人生を終えたいと願っている人さえも、病院や施設で亡くならなければならない社会構造になってしまった現在、次にそのような形で人生を終えなければならない世代の人達は、このような状況を不平不満を言わずに受け入れることが出来るのであろうか。

老いて、歩けなくなり、臥床する時間が長くなり、その先の死を受け入れるのは、死を迎える本人の問題なのである。家族であっても、親戚であっても、友人であっても、死は死を迎える本人の問題であることを、他者は本人に代わって受け入れることが出来ません。

この事件、事故は、設備投資を渋る個人病院に向けての警鐘であり、私達にとっても避けて通る事の出来ない、「老いと死について」を問いかけているのかもしれません。

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