硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

食と現代人。

2022-03-13 20:38:59 | 日記
今日は朝から田んぼの溝掃除。
これは春の恒例行事で、田植えをする為の準備の一つで、水は田んぼの面倒を見ている者にとっては共有財産であるから、水の流れが留まらないようにみんなで水路を清掃する。
農業に携わっていない人にはピンとこないかもしれませんが、田んぼに引く水はとても大切で、戦前に起こった干ばつの時には、水の取り合いで殺人事件になったほどです。現在では、ポンプなどの整備もされて、それほど揉めなくなりましたが、気候変動によって大干ばつが起こってしまったら、人々は、また、水の権利で争いあうかもしれません。

閑話休題。

集まった人々の顔触れは、この地区の高齢化を顕著に表していて、数年前まではしゃんとしていたおじいちゃんおばあちゃんも、背が曲がり、よろよろ歩いている。
水利を管理する代表の人が、清掃前に皆に向けて挨拶をする。集まった人々は耳を傾ける。

例年は、怪我無ないようにとか、水路に泥や落ち葉がたまっている個所など、水利を円滑に利用するためのお話をされるのですが、今年は、トラクターで田んぼを起こした後、泥を道路に落としてゆくので困るという苦情が来ましたという話が追加されていた。

農村部だから、農機具の使用は日常であり、田んぼに入れば泥も付くし、泥が付いた足で道に出れば泥は落ちる。
それはごくごく当たり前の情景であり事象なのだけれど、ついに、その風物詩ともいえる情景を否定する人が出てきた。

道路は整備され、便利になったおかげで車の往来は増えたけれど、その道はもともと農作業に行く人々の道だったので、おじいちゃんたちは我が物顔で道を行き、車の列ができていてもペースは変えない。
おそらく、それも苦情につながる原因の一つになっているのではと思うけれど、本質は道路に残された泥によって車が汚れるのが許せないからだろう。

食べるものがなければ人は生きてゆけない。それは至極当然の事である。
しかし、現在の食料は、過剰なほどに供給されているので、現代人にとっての食は、お金との交換物として考えられてしまい、その結果、食と生活とが、頭の中で切り離されてしまったのではないかと思う。

泥の苦情は、その事象を如実に表しているのではないだろうか。