硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

与党の選挙対策委員会の考えはどうでしょう?

2024-05-03 20:12:49 | 日記
経団連会長の十倉さんが、「なぜ首相の支持率が上がらないのか分からない」というようなコメントを出されていた。

世論と感じ方が乖離しているなぁと思い、暇に任せていろいろ考えてみる。

そして、そこで思い浮かんだ根拠のない考えを、個人的にすっきりさせたいのでだらだらと述べておきたい。

戦後以降、農業などの第一次産業に支えられていた市町村の各町には土建屋さんがあった。
小さな農村の土建屋さんは農村の公共事業を担っていて、米作りに関わる、水路、河川、耕地整理も引き受けていた。小さな農村での産業の主が米作りであるから土建屋さんとは共同体であった。
そして、作られたお米はすべて農協に収めていたので、農協さんとも共同体であった。

土建屋さんは公共事業をいただくために、農協さんは農業を守るために、選挙が行われる度に与党である自民党を推した。米作りを主とする小さな農村に暮らす人々は、ほぼその意向に従った。それが共同体を維持する一つの手段でもあった。

しかし、時代は変わり、離農者は増え続け、土建屋さんや農協とも縁遠くなった。
そして、これまで無条件に自民党を支持してきた人たちも鬼籍に入り始めた。

その代わりに会社勤めの人が増え、会社員の人は組合や会社の推す議員さんへ、選挙に興味のない人は投票を放棄し、選挙に興味のある人は自由意志で票を投じるようになった。

また、都市でなどで大きなビルや公共の工事現場を見ると、海外の労働者を見かける事が多くなったように思う。
おそらく彼らには投票権がない。

これは点のみの視点であるが、もし、同じような状況が日本中で起こっていたとしたらどうだろう。それだけでも、かなりの票数にならないだろうか。
そして、この事象は戦後から自民党をけん引してきた人々の意思が引き継がれずに断絶し始めているといえるのではないか。

だとすれば、支持率が上がらないのは、共同体を壊してしまった、資本主義と新自由主義が生み出した一つの事象といえるのではないだろうか。

古代ローマ時代の詩人ユウェナリスが当時のローマ社会を批判したように、「パンとサーカス」を与えられることによって人々の多くは政治的無関心になりはしたが、それと同時に戦後、世の中をよくしようと熱心に自民党を支持してきた人々もこの世から去りだしたのであるから、そこを見落としてしまっていると、十倉さんのような乖離が生まれてしまうのではないかと思った。

この推論、どうでしょう?



言葉を軽んじてはいませんか?

2024-04-29 15:53:22 | 日記
今更と、
今更と、人は言うかもしれない。しかし、何故かどこかで「私達には知る由もない大きな仕事を成すために敢えてそのような立ち居振る舞いをしているのかもしれない」と思っていた。

国家の存亡に関わる様な事を成す為には、何かを犠牲にせねばならないのは歴史が語っている。
だからこそ、人より多く勉強し、優秀は成績を収め、いい会社や官公庁に就職し、議員や官僚になったその集団なのだから、より良き世を構築してくれるであろうと思っていた。

(Ⅹ)を観ていたら、首相のポストが流れてきて、読んでみると島根県の議員さんを応援している内容であった。

が、その文章を何度も読み返してみるけれども、何も伝わってこなかった。
僕の頭がひどく悪くなったのかもしれないが、何度読み返しても選挙に関わる事は何も伝わってこない。

その代わり、その文章からわかったことは、自己肯定、希望的観測、隷属を増やしたいのだという願望が伝わってきた。

とりあえず問題提起をリポストして、その反応からまた考えようと思っていたが、何も反応はなかった。

短いメッセージくらいで自国の首相に絶望してしまう僕の狭量な心が駄目なのだろうか。

もしそうだとしても、言葉を生業にする職業についているのであれば、言葉を軽んじると、いずれ誰もついてこなくなるのではないかと思います。

報道しない理由を教えてくれないか。

2024-04-15 20:27:29 | 日記
(Ⅹ)で知った、東京都内で行われたパンデミック条約デモ。詳しい事はテレビのニュースで教えてくれるだろうと待ち望んでいたが、一度も目にする事は無かった。ラジオのニュースでも然り。

「国民の声」を拾い上げる事が報道の役割であるはずなのに、どのような原因で報道を控えることになったのだろうか。
「パンとサーカス」に満足している関心のない人には知られてはいけないことがあるからであろうか。
それはどのような不都合なのだろうか。

もし、意図的に言論統制がなされているのだとしたら、近い将来「憲法第9条改正反対」「核兵器廃絶」などの集会やデモ行進も報道されなくなるのかもしれない。

そして、かつての日本のように、外交に失敗し、法改正がなされ、全体主義になり、責任の所在も不明瞭なままに、戦争に巻き込まれてゆくのかもしれない。

しかし、それは戦争を体験した先人の望んだ未来ではないはずである。

斜陽。

2024-04-14 17:36:09 | 日記
散歩していると、手付かずになっていた田んぼに重機が入り整地作業をしていた。
空き家だった家も取り壊され、その後にはソーラーパネルが設置された。
その近くに立っている小学校も廃校に向けて市が動き出した。
廃校になった小学校の周りの田んぼは、いつかソーラーパネル群に変わってしまうのだろう。

明治時代の終わり頃、この地区に線路が引かれる構想が持ち上がった。
一見、利便性が上がり誰もが喜ぶと思われるが、当時の住人は「危険」と猛反対。
その働きで、線路はこの街の手前で大きくカーブし、山間を抜けていった。

バブル期の頃、ゴルフ場の誘致の話が持ち上がった。まずは山を削り、畑にしたのち、ゴルフ場にするという予定だったが、住民は「環境破壊になる」と猛反発。
推進派と反対派が存在したが、ほどなくバブルがはじけ、計画はとん挫した。
そして現在。人口は減少し、空き家が増え、山や田畑、特に山の斜面や山間になるところは荒れ果てて、再び自然の姿に回帰している。

そして、野菜や稲の代わりにソーラーパネルが増えている。

ソーラーパネルには鉛、カドミウム、セレンなどの有害物質が含まれていて、破損すれば土壌汚染につながり、また、パネル耐用年数は30年くらいなので、廃棄処理問題は次世代の人達に丸投げする形になる。

鉄道を歓迎していれば、立地的には人口を維持できたかもしれないし、市もこの地におけるインフラ計画も全く違っていただろう。

議員の人達と上手く交渉していれば市街化調整区域にならなかったかもしれない。

もし、ゴルフ場設置を歓迎し整地後、計画がとん挫しても、後に近くを通る国道のバイパスを考えると、団地を誘致できたかもしれない。

そうすれば小学校も廃校に追い込まれなかったかもしれないし、ソーラーパネル誘致も起こらなかったかもしれない。

日が昇ると同時に田畑に出て、作業をし、隣人と語らい、日没と同時に帰宅する。
収穫を競い、喜び、盆と正月、村祭り、運動会等の慣習行事を楽しみ、年齢と共に、子供会、青年団、消防団、婦人会、老人会という組織に所属し、冠婚葬祭は隣人と協力し合い、変化を求めない共助を身体にしみこませてゆくことが、先人たちの当たり前であり、それを護る事がこの町を護る事になり、受け継がれてゆくことになると思ったのだと思う。

維持できなかったことは時代のせいだとしても、選択してきた結果でもある。しかし、今の状態につながっていることを誰も認めない。
行政やこの街を出てゆく人に、責任を転嫁している。
先人が守ろうとしたものは、いったいなんだったのだろう。

部屋から外を見る。山の木々がセピア色に変わってゆく。この街も、もう斜陽の時なのかもしれない。

念願の「モーターサイクルショウ」

2024-04-06 21:00:33 | 日記
1980年代後半、一つの夢があった。
それは「レーシングライダー。」
そんな時期があった。(絵を描くこともこの頃夢中になっていたが、早々と才能の無さに気づいていた)
4年ほど夢中になって夢を追いかけていたが、何回目かの鈴鹿サーキットの130Rと呼ばれるカーブで、曲がり切れずダートを走った数秒の間、初めて「怖い」「明日の仕事を休むわけにはいかない」という思いが生まれ、その後「いろいろ考えてしまい」それを気にバイクを下りてしまった。

でも、バイクを見るたびに乗ってみたいなという思いどこかにあった。

それから、数十年。モーターサイクルショウというイベントを知る。
それ以来、ずっと行きたかった「モーターサイクルショウ」
しかし、週末はいつも仕事で詰まっていた。
今年の3月、立ち寄ったローソンでチケットが販売されているのを知り、しかも今年、その日は休日。

「これは行くしかないだろう」と、その勢いでチケットを購入した。

電車を乗り継ぎ2時間かけて中部国際空港にある国際展示場へ向かう。
車で行った方がよいかなとも考えたが、名古屋鉄道に乗る機会なんてなかなかないと思い電車を選択。
名鉄のホームからセントレア行に乗る。初めての名鉄、並び方に焦る。しかし、初めて乗る路線の風景はとても新鮮で子供のように車窓から外を見てしまった。

しばらくすると「大江」という駅名を耳にした。
現在は工業地帯であるが想い出すのは戦闘機や爆撃機。
ジブリの「風立ちぬ」という映画で登場人物が勤めていたのもこの辺りである。
以前、「風立ちぬ」の二次作品の物語を紡ぐにあたっていろいろと調べたので、この話をしだすと長くなってしまいそうであるから、話を元に戻す。

無事セントレアにつき、国際展示場を目指す。とにかく歩く。駅からビックリするほど遠い。
キャリーバッグを持ったトラベラーを横目に競歩の如く歩いてゆくと、左側に大きな建物と広い駐車場が見えた。
「なんで、スペースジェットではないんだろう」とぼやきながら、ボーイングの飛行機を横目に施設を通過するといよいよ会場が迫ってきた。

駐車場にはたくさんのバイクが止まっている。ついに来てしまった。

チケットを見せて、リストバンドを腕に巻く。いまや貼り付ける使用になっていて驚く。

会場にはライダースジャケットを着た人が大勢いて、全体が黒い。時々若い男女も見かけるが多くは、同じ世代のおじさん。
1980年後半から1990年代前半のバイクブームが青春時代だった人たちである。
僕もその中の一人であるが、バイクには乗っていないし、所有もしていない。
だから、「カムバックライダー」ではないが、最新のオートバイには興味津々。

まずは無料の案内地図を手に取り、全体像をチェック。
「モビリティショウ」ほど規模は大きくなく、これならば、2時間もあれば回れるかなと思いつつ、ワクワクしながらホンダブースへ。

バイクにまたがり記念撮影をしている人が沢山いる。なるほど、そういう風に楽しむのかと僕も気になるバイクにまたがってみる。
全体的に見てトレンドは「ネオクラシック」なようである。1970年くらいのオートバイらしいデザインが流行っているようであるが、そこはあまり響かない。

どちらかというと、最先端のレーサーが好き。そして今一番気になるCBR600RR。
カラーリングといいデザインといい、心もときめく。

ドキドキしながら左手でステアリングを握り、固くなった股関節に戸惑いながら、右手で右足の足首をもってまたぎ、右のステアリングを握ると、自然に人差し指と中指がレバーに伸びる。そして、ステップに両足が載ると、腰を上げて、しっくりくるポジションに腰を下ろした。
かつて、行っていたルーティン。身体が覚えていたのには驚いた。

しかし、ここからが問題であった。まず、腕が引っ張られる感じがする。背筋がかちかちで背中が張る。軽い腰痛があるので、腰に違和感を覚える。

完全なる老化を知る。

現代のレーサーがよくやるコーナーに入る前に内側の足をステップから外すという動作をしてみる。リアタイヤにトラクションをかけるためだという理由だそうであるが、その動作をすると、身体のあちこちが軋む。

値段が高いという理由で諦めてはいたけれど、やはりと言うべきか、スポーツタイプには乗れない身体になってしまっていた。

ヤマハブースでのYZF スズキブースでのGSX カワサキブースでのninja どれも身体がバイクにフィットしなかった。もう無理なようである。
ではどんなバイクがフィットするのだろうかとハーレーなども座ってみたのであるが、一番しっくり来たのがsuzuki GSX―8Rであった。

腕が張ることも背筋に違和感を覚える事も無いし、刀のように、腰が立ってしまいすぎるという訳でもなく、取り回しもよさそうで、ツーリングでも通勤でもサーキットでも楽しんで乗れそうという気持ちをかき立ててくれる。そして価格も頑張って貯めればなんとかなりそうな値段である。それでも、

「いやあ、でも無理だろうなぁ」とすぐにあきらめてしまう自分がいた。

パーツメーカーさんも出店しているで、パーツブースもじっくりと見てゆく。
一度離れてしまうともうわからないかなと思っていたのであるが、そんな事もなかった。
スリップオンマフラーが展示してあるブースに立ち寄る。様々なマフラー。
ああ覚えている。懐かしい名前ばかりである。しばし立ち止まり感動。
スリップオンマフラーといえば、「overが今度新しく出したマフラーがあるよ」とショップの店長に教えてもらって、峠では、いち早く装着した思い出がある。
しかし今では標準になってしまっているようである。

昔の色々なことを思い出しながら、最新のバイク、パーツ、バイクギアを観てゆく。
当たり前ではあるが、あらゆるものが、格段に良くなっている。どのブースでも感動してしまう。
よくわからないパーツなどはじっくり見て、その用途を想像してみる。その様子を見てか、時々ブースの人が話しかけてくれているので、少しばかり質問して、解を得る。

SHOEIのブースでは、懐かしいデザインのヘルメットに出会う。ガードレールを蹴飛ばしてクラッシュを未然に防ぐ天才高校生ライダーのレプリカ。
あの頃は「走りが速くなければカッコ悪い」と頑なに拒んでいたのを思い出す。
いくらするのだろうと老眼鏡をかけて価格を見る。確かにオジサンの心をくすぐるが、リッチになる事から降りた僕には無理である。

「あきらめる事が多いなぁ」と思いながら、今、何とかして購入しようとしているカワサキKDXを観に行く。紹介文をみると販売は秋ごろとある。当初の予定は今春の予定だったような・・・。
オフ車はヤマハスズキとも生産を止めてしまったので、現在ではホンダのみ。したがって中古車価格が上昇しているが、中古車の価格は上げないでほしいと切に願う。新車よりも高くなったら、その価値に納得する人しか購入しなくなる。

CBX400Fが200万円になったことを聞いた時、驚きと共に、1980年頃、やんちゃしていた人達がある程度裕福になって、やんちゃしていた頃のバイクをもう一度乗りたいという思いからプレミアがつくようになったのではと思った。
しかし、バイクの旧車は自動車と違ってアメリカやヨーロッパでそれほど人気がないのだから、狭い日本の市場だけでは、このような高騰は最終的に売れ残りを生み出してしまうのではないか思う。

バイクは小さな趣味の世界である。映画「ワイルドスピード」のような紹介もされないし、雨天では濡れてしまうし、真冬は寒くて乗れないし、真夏は暑くて乗っていられない。もう、自動車とは根本が違うのである。そこは分かってほしいと思う。

KDXを写真に収めた所でお腹が空いてきたので、屋外で販売されているキッチンカーの食事を食べる事にした。
一人飯であるし、がっつり食べなくても良い。軽く手早く済ませばよいかと、ハンバーガーを選択。ハンバーガーを食べるのはおそらく10年ぶりくらいである。

価格は1000円を超える。「うっ」と思いながらも、勢いも大事だと言い聞かせ購入。
用意されている休憩スペースに移動し周りを見てみる。
モーターサイクルショウだけあって、女性と高校生以下の人は無料といえども、やはり一人で来ている人も多く、一人飯の人も沢山見えた。
もし、あのままバイクに乗り続けていたら僕はあんな感じだったのかなと思いながら空いている席に腰を下ろす。
紙に包まれたハンバーガーをしばらく見つめ、「1000円かぁ」と思いながらその味をかみ締める。ふと、中学生の頃、「ドムドムバーガー」を120円で食べたことを思い出す。当時僕にとって120円はとても高かった。そして現在。僕は価格が10倍のハンバーガーを食べている。
えらくなったもんだと感心する。

食事を終え、パンフレットを開いて見忘れてないブースがないか確認。
もう心もお腹もお腹いっぱい。思い切って来てみるものだと改めて思う。

疲労した両足にむち打ち、来た道をガンガン歩く。
空港の時刻表を見ると海外便の行く先の多くは中国。どおりで周りは中国語ばかりなのかと感心。
貧富の差は大きいけれども、経済的には豊かになっていることをあらためて実感する。
帰りは、思い切って「ミュースカイ」に乗ってみる。
初めて乗る「ミュースカイ」。乗り心地は最高である。行きの準急は準急の良さを感じたけれど、ミュースカイは快適のままあっという間に名古屋駅である。これならトラベラーも満足であろう。

名古屋駅ではいつもより沢山の外国の人を目にする。
そうか、鈴鹿はF-1ウィークであった。



そこは約束の地ではない。なぜなら。

2024-03-27 20:54:21 | 日記
ニュースを観ていたら、ガザへのパラシュート落下を用いた支援物資の輸送が上手くいかず、海に落下した物資を回収しにいった市民が溺れてなくなったと報道されていた。

そして、ガザ地区の南部ラファでもすべての支援物資が不足し衛生状況も悪く、「人々の心が壊れかけている」と国連の支援機関の保険局長が述べていた。

イスラエルとハマスの停戦交渉は暗礁に乗り上げていて、イスラエル軍のラファへの地上侵攻の準備が進められているという。

最悪の事態であるが、ニュースを観て、改めて戦争というものはいつも最悪の事態なのだと思い知らされる。

ハマスもイスラエルも引かないのは、多くの人が死に、怒りや恨みという怨念が充満していて双方に引けなくなっているからであると思うが、戦闘に関係のない市民を犠牲にしてまで戦争を続ける理由は理解に苦しむ。

もし、戦争を止めない理由が怒りや恨みという心情意外にあるのだとしたら、それは大東亜戦争末期の日本がそうだったように、国民の幸福よりも、戦争を主導する者達の「自尊心と既得権益」を護るためだけに、戦闘が続けられているのだと思う。

もしそうだとしたら、そこには「神の意志」は皆無だろう。

真実は分らないが。

2024-03-26 08:56:50 | 日記
モスクワ郊外にあるコンサートホールでテロが起こった。
襲撃した4人はすでに逮捕され取り調べを受けたようである。

アメリカ政府は、犯行は「イスラム国」によるものとしてみているが、ロシア政府はウクライナが関与していると述べ、ウクライナはそれを否定している。

イスラム国がロシアを狙った理由は「多くのキリスト教徒を殺傷すること」であるらしいが、何故、ロシアなのだろうという疑問が残る。

その理由の一つとして、シリアの内戦で、ロシアが支援している政府軍に抵抗し続けている反政府軍側に「イスラム国」がいるという図式がある。
だから、テロ攻撃の標的としてロシアという理由も分からないでもないが、キリスト教圏ならほかの国でもよいのではと思う。

本当にイスラムの国を樹立することが活動の主たる目的とするなら、また、活動の動機が歴史観や宗教の起源を理由にするものであるとするなら、一時的にでもハマスと手を組みエルサレム奪還を目指すべきなのではとも思う。

でもそれはしないようである。何故なのだろうか。

もしかしたら、この事象を俯瞰しているプレイヤーは、国の樹立や戦争や紛争、それ自体には意味がないと考えているのかもしれない。

大人になると。

2024-03-21 21:35:10 | 日記
TSUTAYAさんでDVDを物色。アニメコーナーで「ルパン三世vsキャッツアイ」というタイトルを見つける。
「おや、こんな作品があったのか」と驚きつつ、少年時代に両作品とも観ていたのでどんなものかとレンタル。

まず感じたのが、デジタル技術の進歩によって製作可能になったのだろうと思った。
これを、セル画でやろうとすると、予算的に無理なのだろうなとまで考えた。
そして、確かに絵はきれいなのだけれど、何か違和感を覚えた。

鑑賞後もこの違和感は何なのだろうかと気になり布団にもぐり、ぐるぐると思考する。

キャラクターデザインなのか、CGの動きなのか、それともハリウッド映画みたいな演出になのか、キャラクターの声なのか・・・・・・。なぜか当時のようにときめかない・・・・・・。

「好きな二つのアニメが一つの物語の中で観られている。夢のようなことであるのに。なぜ? 」と、その原因を考えていると、ふと一つの結論にたどり着く。

それは、僕が歳をとったことが一番の原因なのだと。

リアルタイムで観ていた当時、ルパン三世もキャッツアイも、純粋にキャラクターに憧れ物語を楽しんで観ていた。ルパン三世には「かっこいいな」という憧れの眼差しを向けていたし、思春期を迎えた頃に観ていた「キャッツアイ」には、同級生と「あの三姉妹の中なら誰がタイプ? 」などと稚拙な話しをしていた記憶がある。

しかし、少し前にも述べたが、その数年後、今で言う「沼にハマりこんで」しまったがために、それからのアニメの観方は大きく変化した。

そして、大人になってからは、読書をするようになった。
それも、観方が変化した大きな要因の一つなのではとも思う。

そんな事であるから今回も「ルパン三世vsキャッツアイ」のエンドロールまでチェックしたために、友達に照れながらタイプだと公言した「来生瞳さん」の声が「戸田恵子さん」だったことを知り衝撃を受けた。(高1の頃はそれほどに作品と制作の間に乖離があった。でも、今思うとそれ位無知の方がよかったのではとも思った)

今観返しても感動する普遍的なアニメ作品もあるけれど、純粋な気持ちを失ってしまうと、少年の時のようには楽しめなくなってしまうのだなと結論付けて、眠りに落ちた。




訃報記事でその名を見るなんて・・・。

2024-03-19 21:28:30 | 日記
僕が10代の頃,その名前を知った。

当時、「キティアニメーションサークル」というファンクラブの会員であり、アニメ版「うる星やつら」のファンだった。
自力でビデオデッキを購入してから毎回ビデオ録画し、必ず二回観るというヘビーユーザーで、社会を拒絶していた大変視野の狭いヲタ時代でもあった。
以前も述べたが「どんな人が制作に関わっているのか」までチェックするほど取り付かれていた。

ある日、脇役で癖のある声が耳に残った。キャラクターから少し浮いた感じもあったが印象深く心に留まった。エンドロールを一時停止で確認すると、「TARAKO」とあった。

「うる星やつら」が終了し、僕もアニメから遠ざかったころ、テレビをつけていると、その声をよく耳にするようになった。

「ちびまる子ちゃん」の話題が日常に出てきたときには「その声優さんはね・・・」と心の中でつぶやいていた。

そして、もう一人。
その人は「うる星やつら」の原画担当の中にいた。
キティアニメーションが手掛けるアニメ「宇宙皇子」で、その人の引く線を初めて知った。
繊細な線から紡ぎ出される特徴のある目の美しいキャラクターと美しい色彩。
こんなにきれいな線を引けたら絵を描くことも面白いのになぁと思いながら、その絵を眺めていた。
その人が描く線は、時代を経ても何度も見る事が出来た。クレジットがなくとも「いのまたむつみさんだ」とわかった。

二人の訃報が届く。

この気持ちを上手く言葉に出来ない。

不適切にもほどがある!

2024-03-15 21:13:42 | 日記
毎週楽しみにしているテレビドラマの一つに「不適切にもほどがある!」がある。

宮藤官九郎さんの作品は、いつもどこかのポイントで「天才じゃないか」とつぶやいてしまう事が多い。そして、やはりいうべきか、「不適切にもほどがある!」もやはり「天才!」とつぶやいてしまった。

主人公が昭和という時代と令和という時代の間を「タイムマシン」で往来し、双方の時代に生きる人達に問題を投げかけるのであるが、昭和の価値観を令和に持ち込むと大きな齟齬が生じてしまう。
両方の時代を体験している僕はいつも笑わせてもらっているが、平成10年以降に生まれた人たちにとっては何が何だか分からないであろうし、時代遅れと思われているかもしれない。
それは仕方のない事であるけれども、だからあえてテレビドラマを通して、世代差の相互理解を深めるというアプローチを試みているようにも見える。

物語をシリアスに展開してしまうと、大きな隔たりが出来てしまうテーマでもあるから、深刻にならないように「ミュージカル調の演出」を用いて、問題提起を柔らかくして落とし込んでいる。

そこを読み取っていくと、昭和と令和の相互理解も深まるのではと思うのであるが、それは難しいのかもしれないし、クドカンさんもそれを承知でストーリーを紡いでいるのだと思う。

主人公の小川一郎さんが教師として生きている1986年という年代は、まだ、どこかに戦後が残っていた。
その年の総理大臣、中曽根康弘さんは戦中、海軍主計士官だった人であるし、国務大臣の金丸信さんは関東軍に所属し、兵役免除後は大政翼賛壮団の世話役人をしていた人である。
経済界も然りで、その時代は戦中派の世代が日本をけん引していたのである。
もちろん、戦中に学校で軍事教育を色濃く受けた人たちが労働者の主力だったこともあり、倫理観はまだ軍国主義から抜け切れてない時代であった。

戦争は終わりました。今日から民主主義です。男女平等です。戦争をした日本が悪いのです。と、突然言われても、スイッチを切り替えるように考え方を変えられるほど人間の頭は良くないのである。

そこで長い時間をかけて教育現場から、新しい倫理観や秩序という思想を啓蒙し、軍国主義に陥らないように国民の思想を洗脳していったのであるが、令和という時代では「昭和の価値観」は理解しがたい価値観になってしまった。
ある意味それは誰かのシナリオ通りなのであるが、戦中に軍国主義に反対する思想があったように、現在でもその反動としてナショナリズムが台頭してきたように思う。

それが、正しいか正しくないかは分からないが、僕が思うに「軍国主義的な全体主義思想を押し付けられる生きづらさはなくなったけれども、個人主義が立ちすぎてしまい、威圧的に支配しようとする個人や小さなコミニュテイが誕生してしまったがために、生きづらくなってしまった」ように思う。

難しい事は分からないけれど、とにかく「不適切にもほどがある!」は間違いなく秀逸なドラマである事は間違いないのである。
そして、このドラマの面白さがよく分からないという20代の人々も後30年したらこのドラマの面白さが分かるのだと思う。

きっとそこも狙って物語を書いていると思うから、宮藤官九郎さんは「天才!」なのである。

今日の朝刊の一面に。

2024-03-09 21:24:25 | 日記
今日の朝刊。天才の名前が大きく載っていた。
ゆっくりと記事を読んでゆく。そして事実なんだと知った。

中学の頃、その天才のイラスト集を見ながら、なんども模写を試みた。
しかし、僕には見たものを正確に紙に書き写すという根本的な技術が欠けていた。
それでも、上手になりたくてなんども挑んだけれど、書けたとしてもどこか歪で、自分でもそれがハッキリと解った。
消しゴムで消しながら、直してみるけれど、どこをどう直してよいのかさえも分からず、模写するのをあきらめてしまった。

あらゆるアングルからでも正確で躍動感のある線が引ける。メカやキャラクターも緻密で独創的。ストーリーも今までにはないもので、面白くてワクワクした。

天才の引く線には、漫画を読まなくなった時期でも憧れは心の中で残り続けていた。

ずいぶん大人になってから、甥っ子と一緒に絵を描く事があった。
「悟空書いて」と言われて、模写してみたがやっぱり上手く書けなかった。

遠い存在であったけれども、名古屋に住む叔母が、「この間、鳥山さんが市役所に来ててねぇ…」というエピソードを聞いた時、「あっ、本当にいるんだ」と、勝手に親近感を覚えた。

それからうん十年。今や世界中にファンがいて、新聞記事にも海外からのコメントが記されていた。

なんといったらいいのか・・・・・・。人類にとって唯一の平等は死であるけれど・・・・・・。
上手く言葉に出来ない。





こう考えると腑に落ちる。

2024-03-05 22:38:31 | 日記
ラジオのニュースで、岸田首相が米連邦議会の上下両院合同会議での演説を依頼された事を知った。

国民から揶揄されようとも、批判されようとも、国民が貧困に苦しんでいようが、その姿勢がゆるがないのは、米連邦議会から認められることこそが、日本の最高権力者であると理解しているからなのだろう。

そう考えると、首相の言動のすべてが腑に落ちるのである。


報道されているニュースを個人的な観点から読んでみる。

2024-02-21 15:51:26 | 日記
朝食を摂りながらテレビを観ていると、ナワリヌイさんの死亡が報じられていた。朝刊にもその記事が載っており不穏な気持ちになった。

その時、「相棒」と「名探偵コナン」を欠かさず観ている妻が「これっ、絶対に殺されたんだ」と口にした。
きっと、誰もがそう思うだろうと思ったので、「じゃあ、誰に殺されたの? 」と問うと、そんな返事が返ってくるとは予想していなかったのだろうか少し沈黙の後、「反対派」とだけ答えた。

漠然とした答えだったので、少し呆れてしまい「海外のこの手のニュースは断片的にしか報じられていないからうのみにしない方がいい」と、返事をすると、その会話はそこで途切れた。

テレビ好きな妻はテレビの報道そのまま受け取ってしまう事が多い。しかし、そういう人の方が多数であると思う。

カール・タッカーさんがおこなったプーチン大統領インタビューは、テレビでも新聞でも取り上げられなかった。それは、そこで語られていることが不明瞭だからであろうとは思うが、その数日後に、トランプ前大統領の北大西洋条約機構への批判が大きく報じられ、その後にナワリヌイさんの死亡が伝えられ、今日、亡命したロシアのパイロットが遺体で発見されたというニュースが報じられていた。

妻の推測から察すると、「プーチン政権に抗う人」は「プーチン政権から粛清される」という意味なのであろう。とすれば、自由を奪うプーチンは悪い人なのだから許してはいけないという感情が芽生える。

だが、世界はそれほどシンプルではないように思う。

(x)のポストを観ていると、偏った情報ではあるが、親露派の意見が散見でき、テレビや新聞での報道とは真逆の意見も見られる。

その情報から察すると、世界を牛耳ろうとしている西側諸国の一部の人々が様々な国の権力を使い、あらゆることを操作し、北大西洋条約機構に逆らう国や地域を孤立、衰退させるために暗躍しているので、プーチン大統領はその組織に抗っていると見えているようである。

真意は分からないが、今回の出来事では、報道は明らかに中立を保ってはいない。

それは、ロシアから発信される情報は真実に値しないという固定観念があるからではないかと思う。
1945年 8月8日。日ソ中立条約を一方的に破棄し、それまで日本領だった満州や樺太に侵攻したことが、今でもロシアという国家を信用できない要因になっているのであろう。

真意は分からないが・・・・・・。

しかし、もし、国家をも動かせ、戦争を意図的に起こさせる組織が存在しているとするならば、戦勝国と戦勝国に寄り添ったエリートにとってのみに都合のいい民主主義をあたえられた戦敗国は、どうあがいても同じ土俵には上がれないのだろうと思う。



桜井のりおさんへ。

2024-02-16 22:20:51 | 日記
昨年ネットで知った「僕の心のヤバいやつ」

アニメ化するので、その宣伝として、漫画の一話が公開されていた。
「からかい上手の高木さん」や「あの着せ替え人形は恋をする」のような物語なのかなと思い、まぁ、とりあえず押さえておくかという位の気持ちで予約録画をした。

実際にアニメを観てみると意外と面白い。
ネガティブな拗らせ男子と、容姿端麗で少し天然でポジティブな女子とのラブコメという、散々使い尽くされた設定なのであるが、これまでの作品群とは何かが違う。

なんだろう。と思いつつ観続けていると、市川君と山田さんの関係の進化を楽しむというよりも、毎回観ていてにやけてしまっている自分に気付く。

これはなんだろう。と思いつつfirst seasonが終わり、その疑問はすぐに忘れ去られた。

しかし、second seasonが始まるのを知り、「これは観なくてはいけない」と、再び予約録画を設定。

観ていると、やはり面白いのである。
そして、ついに原作に手を出してしまう。自分がいい年をしたオジサンであるというのにも関わらずである。

しかし、その甲斐あってようやく気付いた。

登場人物の心理描写が繊細なのである。そこに刺さったのである。観るたびに枯れ果てていた心が潤ってゆくのである。

そして、「桜井のりお」とはいったい何者なのだと、気になり調べてみる。
なるほど。女性だったのか。だから、心理描写が繊細なのだと納得。
チャンピオン系の漫画で、「のりお」という名前だったからすっかり男だと思っていた。

僕の中の女性漫画家のラブコメの最高峰といえば「高橋留美子先生」であった。
しかし、ようやく高橋先生を超える実力者が出てきた。本当にうれしい限りである。

物語についても色々述べたいところであるが、そこはネタバレしないためにやめておく。
だが、一つだけどうしても述べておきたいことがある。

これは「桜井のりお先生」に向けてのメッセージである。

山田さんの父親が市川君にスープのレシピを渡すシーンありましたよね。
あのシーンの伏線回収がなされたとき、きっと僕は泣いてしまうと思う。

楽しみに待ってますね。

セクシー田中さん。

2024-01-31 22:05:34 | 日記
芦原妃名子さんの訃報を新聞で知る。

ドラマの最終話がぎごちなかったのでどうしたのだろうと思っていたら、翌日その事がネットニュースになっていた。
その記事は心に留まっていたので、見出しを見た瞬間、胸が痛んだ。

漫画が実写になるとき、必ずといっていいほどに起こる違和感。携わる人が多ければ多いほど原作とかけ離れてゆく。

「セクシー田中さん」もそうだった。

僕は、木南さんの熱演もあって、ドラマは違う世界線の物語として楽しんで観ていた。

原作者としては、原作者の意図を汲んでくれない進め方は納得のいかないことだったことは想像に難しくない。
でも、彼女を精神的に追い詰めた理由は、他にあるのではないかと思う。

SNSは人と人とを結ぶ距離を短くしたが、人を容易に傷つけられることも可能にした。

作品を見る側も作る側も、こういう悲劇が二度と起こらないよう、よく考えなければならないと思う。