爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(38)

2012年02月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(38)

「誰かをあれぐらい、好きになれるのかな」
 ぼくは広美が借りた映画を自宅でいっしょに見ていた。雪代はあいにく仕事でいなかった。
「まだ、ないの? そういう気持ちになることは」
「あっても、言わないけどね。あれ、ケースは?」

 ぼくは、その場所を指差した。トレイから引き出されたものを仕舞う背中が見えている。目を見て言うと恥ずかしいのか気まずいのか、両方なのか、そのままの姿勢で広美は小さな声で語りかける。
「結婚を二度するぐらいだから、ひろし君もママも2回は、最低、好きになったことがあるんだよね。苦しいぐらいに・・・」
「苦しいかは、分からないけど」
「いまの主人公は苦しそうだった」
「確かにね。でも、ああいう障害があったほうが燃えると思うよ」
「あった?」
「2回目は、娘がいたけど、物分りが良かった。ママを盗られるとか泣き叫ばれると思ってたけど」
「そんなに子どもじゃないよ。1回目は?」
「もう両親がいなかったからね、彼女には」
「家族ぐらいはいるでしょう?」
「兄がいたけど、いまでも疎遠だよ。ぼくを許さないことに決めたみたいだから」
「なんで?」
「いろいろだよ。いつか、話すよ」
「淋しいね」

「普段は考えないから、淋しいとも思わない」
「苦しいぐらいに、憎まれる」自分の言葉に酔っているように広美は言った。「あ、ママ」
 玄関が開いた。手に袋をぶら提げていたが、それを広美がかいがいしく受け取った。
「何してたの?」
「映画を見てた」
「面白かった?」
「面白かったけど、切なかった」

 ふたりはキッチンに並んで立ち、食材を仕舞ったり、皿を取り出したりしていた。そうしている広美の姿は、以前は子どもっぽかったが、徐々に身長も伸び、雪代に追いつきそうになってきた。それは表面だけの問題かもしれず、それに合った精神を手に入れるのには、さまざまな経験が必要かもしれなかった。

 そこに、まゆみがやって来た。いまでも週に2度ほど、1時間半ばかり広美に勉強を教えに来た。それは多少は短くなったり、長くなったりした。ぼくらは彼女の勉強の成長に関心はあったが、でも、それに関与することは怠け、まゆみに任せてしまっていた。

「じゃあ、勉強してくる」
「その間に、ご飯、作っとくから」
「ひろし君にも手伝わせないと駄目ですよ」まゆみが扉を閉めながら言った。そういう彼女の父も家事には無頓着だった。
「だって、ああ言ってる」雪代はこちらに向かって笑った。自分は、男性の味方がいないことを今更ながら感じた。彼女は手を動かし、何かを作り始めた。ぼくもうやうやしくテーブルを拭いたり、調味料を並べ替えたりした。それは、手伝っている範疇にも入らない作業かもしれなかったが、それでも、自分は満足であった。

 時間が経って、彼女たちは戻ってくる。その分だけ確かな手ごたえがある知識を有したものとして。
「さっきのどんな映画だったの?」雪代が執拗にたずねる。最近では、3人の女性が話しているのをただ傍観しているような感があった。広美は、それをかいつまんで説明する。「それで」とか「だから」という言葉を促すセリフが間に挟まり、際限なく話はすすんだ。まゆみもそれを見たいと言ったり、レンタルの残りの期日があれば、雪代も見てから返してとお願いがあったりして、話は弾んでいた。

 しかし、広美はぼくの2回の結婚の話には触れなかった。それを、自分の母にもたずねなかった。ぼくらにはささやかな秘密が共有され、それは口外しないということで一層秘められたことっぽくなった。

 食事も終わり、後片付けがなされ、まゆみは帰ることになる。ぼくもいっしょに外に出る。

「苦しいほどの恋の映画」ひとりごとのようにまゆみは言う。「ひろし君もしたんでしょう?」
「したよ」
「お兄さんたちは、まだ許してくれないって」
「なんだ、まゆみちゃんには言ったのか」
「許してもらいたい?」
「特には。裕紀の叔母さんたちは、ぼくのことを理解してくれていた。それで、充分だよ」
「普通がいいな、わたし。誰もが喜んでくれて」
「みんな、そうだろう。どこかでぼくは間違ったのかもしれないし」
「別のを選びたかった?」
「全然」

「そうだ。去年の夏にいったところで、働くことになった。1ヶ月ぐらい」
「そう。じゃ、ぼくらも休みにまた行こうかな」そこは、昨年過ごした海岸から少し離れた飲食店だった。それほど混雑する場所でもなさそうだが、やはり、最盛期には人手が必要なようだった。
「ありがとう。あと、いいとこ教えてもらって良かった」
「両親も承諾?」
「うん。働いたら、そんな自由はなくなるから、いまのうちに行っとけって」
「店長の言いそうなことだな」ぼくは彼女の父のスポーツ・ショップで若い頃、バイトをしていた。それで、いまだに彼のことを店長と呼んでしまう。「苦しくなるほどの恋もしたらいい。働いたら、できなくなるから」
「いつでも、それはできるよ」
「出会い頭」
「正面衝突」
 ぼくらは暗い夜道でふたりで大声をだして笑う。そして、驚いた犬が反応して吠えた。しょげたようにそれからは小声で話し、残りの道のりを誰にも気付かれないように歩いた。