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壊れゆくブレイン(32)

2012年02月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(32)

 ぼくはホテルの受付で部屋のカギを返却する。いままでは、東京に家があり、出張は地元のホテルか実家に泊まった。今回は反対だった。東京はもうすでに仮の場所であり、仕事をするためにたまに来る場所程度になっていた。

 駅に向かう。そこで重要なことも待っていた。裕紀の叔母と近くの店で待ち合わせをしていた。ぼくは、5分ぐらいまえに店に着いたが、彼女はもうそこにいた。
「ごめんね、呼び出したりして・・・」
「いや。ぜんぜん。帰り道ですから。それより、ぼくが出向かないと、いけませんでした」
「元気だった?」
「ええ。たまにしか連絡しないで、すいません・・・」
「いいのよ。自分の生活もあるし。こちらも、ひろし君を家族から追い出したような形になってしまって」そういう言葉を発すると彼女はすこし疲れて見えた。
「再婚しました。手紙に書いたとおりです。すいません」
「謝ってばっかりね。ひろし君が幸せならそれでいいのよ。女の子もいる?」
「そうです。活発な子です」

「裕紀ちゃんに対して示してくれた大きな愛情をその子にぶつけてみるのもいいかしらね」
「ぼくは、忘れてないですよ。彼女のことをひとときも」ゆり江に言われたことをそこでも思い出している。この叔母も裕紀との思い出を、その美しすぎた思い出をたくさん所有しているはずなのだ。それを誰しもが彼女から奪えないし、もし、仮にぼくが裕紀のことを忘れ去ってしまっても、この記憶の数々は残るのだ。「叔母さんも、もちろんそうでしょうけど」

「急にいなくなってしまったからね」
 ぼくは、行き掛かり上、財布からいまの家族の写真を取り出した。ぼくが必要以上におちこんでいると彼女ももっと苦しむかもしれないと心配したからだが、それは、もしかしたらまったくの逆効果かもしれない。裕紀を捨てた男性としての認識を植えつけてしまう写真ともなる。

「ちょっと前の写真ですけど」ぼくと雪代が娘を挟むようにして写っている一枚。
「可愛いのね。奥さんも美人」
「いつか、裕紀も子どもを可愛がるようなこともできたかもしれなかった」
「誰が、悪いんでもないのよ。時間、大丈夫?」
 ぼくは壁にかかっている時計を見る。あと20分ほどは猶予がありそうだった。
「もう少しだけなら」

「これ、帰りの電車のなかででも食べて」ぼくは小さな包みを渡される。
「なんです?」
「ひろしさんも裕紀も、これをおいしそうに食べていたから」

 ぼくらは、彼女の家によく招かれた。裕紀は若いときに留学先に遊びに来た両親をそこで亡くした。その理由を作ったのは、間接的には自分だった。そのことを気にかけず彼らは身内として優しく接してくれた。ぼくらはそこで寛ぎ、裕紀も本来の自分を出せた。

「すいません。ありがとうございます」
「お茶は忘れたから、それだけは自分で買って。ごめんね」
「はい」
「良かった。ひろし君も元気そうになっていて。多分、裕紀ちゃんも喜ぶ。あんなに看病させてしまってと、いつも、後悔をしていたみたいだから」
「全然、していないですし、足りなかった。ずっと、あのままでもぼくは良かったでしょう。病院にいてくれるだけでも」
「そういう考えは、もう止した方がいいよ。新しい家族を大切にした方がね。元気でね。そろそろ」

 ぼくは財布を出そうとするも、彼女が制した。そこにまだ居るようなので、ぼくは店の外からまた会釈をして改札に向かった。遠目に座っている彼女は一回り小さく見え、行き場所のない少女のようにも映った。誰かを失うということはそのひとのもつ生命体やエネルギーの一部を削ってしまうのかもしれないとぼくは感じていた。

 ぼくは改札を抜け、特急の指定の座席にすわった。荷物を上段にのせ、車窓を眺めた。そこにはスーツ姿の男性や旅行でも行くのか華やかな女性二人が笑いながら歩いていた。裕紀にもあのような時期がたしかにあったのだ。あの叔母ともよく旅行にいっしょに行った。ぼくは、裕紀たちができなくなったことを考え、見えない風景をさがそうとしていた。

 電車の発車のベルが鳴り、ゆっくりと車体をすべらすように動き出した。ぼくはひざの上に弁当を置き、お茶のくちのキャップをはずした。ふたを開けるとアスパラを肉で巻いたものがあった。それを叔母の家でも食べたし、裕紀も家でそれを作った。彼女がそれを調理しているときの様子までよみがえった。彼女は鼻唄をうたっている。内容も希望が多い歌だったが、彼女が歌うと、もっと希望が満ち溢れるようだった。世界は善でできていて、なにも苦しめるものがないようにも思えた。しかし、彼女がまっさきにその善の世界から立ち去った。もっと幸せを全身で浴びてもよかった彼女が。

 ぼくは、それを口にする。ふたりの味付けは当然のごとく似ていた。しかし、ぼくは味覚を感じ尽くす前に、鼻のおくに塩辛いものを感じた。そこでトンネルに差し掛かり、ぼくの頬には涙のようなものが一瞬輝いて暗い窓に反射された。ぼくはうつむく。あるものがいまだに裕紀を思い出す材料になり得る事実に圧倒されている。ぼくは裕紀のことを誰かと話したい衝動を感じる。しかし、それを可能にしてくれる人物はそう多くない。ここにもいない。家に帰ってもいない。そうすると、ぼくはどのように彼女の記憶を残していけばいいのだろうという不安と切なさを覚える。いまのところは、叔母がいて友人だった智美やゆり江がいた。しかし、彼女らも自分の日々の生活があり、もちろん、ぼくもそればかりに拘泥できるほど気持ちの自由も許されていなかった。


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