爪の先まで神経細やか

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壊れゆくブレイン(41)

2012年02月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(41)

 秋になる前のそれでもまだ暑い時期にまゆみはひと夏バイトをして過ごした海から戻ってきた。女性にとって似つかわしい表現かは分からないが精悍な顔つきをしていた。それでいながら、女性らしさも膨らませていった。

 訊きたいことは山ほどあったが、ぼくらがお互いもてる自由な時間など少ないものだ。また広美の勉強を教えるために彼女はうちに通うようになった。その帰り道やいっしょに食事をする際に、彼女の思い出話を小出しにきいた。

 若い女性は大体が短期間でありながらも恋をするものだ。彼女はそれを直接に口には出さなかったが雰囲気から感じ取れた。それが女性らしさが溢れ出ている証拠でもあり原因のようにも思えた。ぼくは訊かないながらもそれを想像する。最初は打ち解けなかったふたりが簡単な会話を交わし、徐々にその存在を意識し始める。それが絶えず念頭にでてきて、自分を苦しめたり、また陽気にさせたりする。

 離れてしまえば、その感情は揺らぎ、また別の面では確固たるものにもなったりするのだろう。ぼくは自分の経験と照らしあわす。雪代はある時期、東京にいた。ぼくは地元で大学に通っていた。休みになると、ぼくは都会に行き、雪代の仕事が空けば、彼女はこちらに戻ってきた。まだ、恋は新鮮な状態であり、それだからこそ、お互いの一言一句に感動したり、ときには誤解したりもした。まゆみも同じ状態にあるのか分からないが、それを経験するのも乗り越えるのも正直にいえば当人だけの問題でもあった。

 ぼくは久々に彼女の両親に会う。ぼくの若いときのバイト先の店長。玄関先であったので、部屋に入るようすすめられた。椅子に座るとビールが出た。彼はしばらく前からはじめていたらしく赤い顔をしていた。
「最初は心配したんだけど、やっぱり若い女の子だからね、でも、可愛い子には旅をさせろだよなって。ひろしもそう思うか?」
「良い経験ができたみたいだから結果からみれば」
「自分の子にもさせるか?」
「させるでしょうね。雪代が最終的に判断するでしょうけど」
「まだ、遠慮がある?」
「いや、もうないです」

 それからは過去の思い出話をする。ぼくらは未来より、自分が過ごしてきた生活の情報が増えすぎた。それを咀嚼したり吐き出さないことには未来もやってこないようだった。その間、まゆみは自分の部屋に入り、出て来なかった。そして、ぼくらは大きな声に変化しているのにも気付かず話し続けた。

 また何日か経って、広美の勉強も終え、食事をして彼女は友だちと電話するために奥に消えていた。笑い声がしたり、ひそひそと話す様子があった。まゆみはまだテーブルにいた。
「そろそろ就職のことを考えないと・・・」
「何か、迷ってることがあるの?」雪代は優しく訊く。
「東京で見つけようか、地元で探そうかと」
「取り敢えず、東京でチャレンジしてみたら。それで合わなかったら、戻ってくればいいし。ひろし君もわたしもそうしたのよ。ね?」

「ぼくは、自分の意思じゃなく、ただの転勤だったけど。でも、良い思い出もたくさんできた。掛け替えのない経験にいまはなったと思っている」しかし、そこで失ったものもあったのは自分がいちばん知っている。だが、未来を探そうと懸命になっている若い人間に一体、自分はどうアドバイスができ、どう退けられる方法を教えられるのかなど、まったくもって分からなかった。
「それより、良さそうなのはあるの?」雪代が興味をもちはじめた表情をする。「電話、長くない?」と、突然に奥の広美にきこえるような音量で声をだした。

「ひとつ、あることにはあるんです」
「この前、店長も旅をさせるのも悪くないと言ってたよ。酔ってたから、あれは本心なんだろう」
「会ったの?」
「この前、送ったときに久々に家にあがった。その時に、いろいろなことを話した。なんだかんだ、お互い娘の成長を心配する役目がまわってきたから」
「長電話もやめないし」
「ぼくらも、ああいう風に話したよ」
「思い出がずっと残っていて、いいですね」

「これでも、お互い再婚なんだよ」雪代は照れ臭くなったのか、そう言った。ぼくらには10年間の疎遠な時期があった。それは別の人間との熱烈な期間があったことの裏返しのようにも感じられた。しかし、このように納まったのだ。若い女性の未来をふたりで心配して、娘の止められない長電話を片耳できいている。それから、まゆみの地元に残った場合の仕事の条件をきいた。あまり旨みがないようにも思われた。大型化し過ぎた経済は座礁した自分の運には盲目であろうとし、いままで通りを見せかけていたが、その裏側にはきちんとした亀裂があるようだった。それを若いときから経験しなければならない彼女たちの未来を呪わしいものと定義する自分もいた。だが、彼女は健康で海からもらった成果をまだ体内にとどめていた。ぼくらは、それぞれ自分の若さを手放さなければならない年代に入ってきていた。しかし、経済と同じようにぼくらも盲目であったようだ。

 広美は電話を終えて何事もなかったようにジュースを注ぎ、テーブルに着いた。
「広美は、大人になったら仕事なにする?」
「怪我をしないスポーツ選手」その返事の言葉についてぼくは考えている。頭痛がない大学教授。髪を掻き乱さない悩める科学者。子どもと接するのが苦手な保育士。しかし、敢えて訂正することも出来そうになかった。