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壊れゆくブレイン(40)

2012年02月24日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(40)

 ぼくらは暑いさ中、それぞれのバッグを手にして電車に乗った。いまは海岸線を通り過ぎている。広美は夏休みに入った。バスケット・ボールの練習を繰り返し、背が伸び、身体もほっそりとしてきた。母親との愛情が深いせいか、そのためこころを許し、きつい言葉もときには発した。ぼくには遠慮があるのか、それでも兄のように接してくれ、言葉遣いはある面では一線を置いていた。

 ぼくは揺れる車内で本を読み、ふたりの女性は会話をしている。内容をきくようでいながらも、まったく何を話しているか聞きそびれている時間も多かった。

 終点まで来て、彼女らは去年に見た同じ景色をそこに見出す。ぼくは、それより前に亡くなった裕紀ともここに来ていた。最初はふらりとただ寄った場所だったが、いつか馴染みになり、それゆえに懐かしいところになった。いまでは、まゆみがひと夏をバイトをするために過ごしていた。

 ぼくらはホテルに入り、ぼくと雪代はいっしょの部屋で、広美は一人用の部屋をあてがわれた。

 お昼をすこし廻ったところだった。ぼくらは早速、身軽な格好に変え、昼食を食べにでかけた。夏の陽光を存分に浴び、それゆえにぼくは解放的な気分を手に入れる。また、この場所を過ごした日々を思い返し、取り返せない女性のことも懐かしみ、甘酸っぱい気分になる。

「いらっしゃい!」店主の男性が声をかける。「まゆみちゃん、お客さんが来たから応対して。大切なお客さん」
「はい。分かりました。あっ」と小さな声が出た。「来てくれたんですね。そうか、今日だったんだ」
「随分、焼けたね」彼女は白っぽいエプロンをしていた所為か、いままでとは違った皮膚の色があざやかに見えた。
「いつの間にか。どうぞ、座ってください。ここ、見晴らしがいいんです」

 彼女の様子はすっかり板についていた。ぼくらは、ぼんやりと座り、次の対応を待った。といってもメニューはなく、できそうな料理を告げてもらうだけだった。

「雪代さんもビール飲みます?」
「いただく。とても、冷えたの」
「広美ちゃん、ジュース何がいい?」広美は、いつもの見慣れたひとが突然違う環境にいることに戸惑ったように、また年齢ゆえのはにかみかいつもの快活さが潜められていた。「あれ」と言ってサンプルを指差した。
 それから、ぼくらは食事を済ませ、休憩をもらったまゆみは広美と話すことがあるらしく、広美だけがそこに残った。ぼくと雪代は海のほうに向かい、そのまま散歩をつづけた。
「わたしもああいう普通のバイトをしたかったな」
「後悔?」
「そんなことないけどね。たくさんの美しい海岸のビーチも仕事ででかけたけど、あれは思い出というより切取られたわたしとその町のイメージだけだから」

 彼女は写真に撮られることを生計にしていた時期があった。ぼくらはいっしょに住み、その後、彼女は東京でひとりで暮らした。その頃には、たくさんの場所に仕事ででかけた。ぼくもその成果としての雑誌を手にして、感嘆した思い出があった。さらにはこのような美しい女性を知りえている自尊心もあった。大分、前の話になるが。
「あの頃は、とても輝いていて、ぼくも誇らしかったな」
「ああいう店で、わたしもご飯を食べた。とても辛いものだった。写真には撮られないような自然な笑顔のスナップをもらった。いまでもあの写真どっかにあるのかな」彼女は自分の部屋の収納場所をイメージしているように遠い目をした。それは、あの遠い地域を思い出している視線だったのかもしれない。

 ぼくらは明日の糧のためにあくせくするような立場にいなかった。だが、その現地の話を雪代はした。みな、小さなバイクに乗り、それでもどこかのびやかで、喧騒のなかでも、そこには穏やかさもただよっていたと。

 翌日、まゆみは休みを貰い、広美と海で過ごした。ぼくらは昼近くまで部屋でごろごろして、午後はとなり町まで出向き、漁港の近くで海鮮ものを食べた。ビールはとてもおいしく、ぼくはこれが自分の人生でしたかったことなのだという思いに至る。雪代がいて、それは若さより知性を備えた女性としてぼくの前にいるのだ。安定感が生活にあって、飢餓や悩みもなかった。

「四半世紀という言葉があるんだよ。知ってた?」雪代が港を前にして、ベンチに腰掛けた姿勢で話し掛けた。目の前の海は夕焼けでオレンジ色に変貌し始めていた。

「25年」
「あの男の子にも白髪がある。でも、好きだよ」そして、雪代は笑った。
 翌日、広美は大切なバスケットの試合があるとかで一足先に帰った。ぼくらは駅で見送る。
「部屋で、危ないことしないでね」
「大丈夫だよ。子どもじゃないんだから」
「9時ごろ、電話するね」
「分かった」広美は改札を抜け、停車している電車に向かった。彼女にもひとりだけで独立した生活ができて、ぼくにも雪代にもあった。そのどこかの一部は共通した部分があり、またあえて作り、これからも生活していくのだろうとぼくは朝の駅でそう思っていた。


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