爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(33)

2012年02月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(33)

 そのまま仕事場に向かった。社長は健康診断の再検査ということでいなかったが、もどってきたときは顔色が曇っていた。ぼくは、仕事に追われながらもその様子をうかがった。
「社長、今日の夜、お時間は?」
「うん」
「はい?」
「いつものところで待っててくれ」

「出張に行ってたので、一旦、荷物を置いてきてからでもいいですか? 大して遅れませんので・・・」
「ああ、そうだったな。どうだった、東京」
「もう自分の住む場所じゃないみたいです」
「また、東京勤務をお願いするかもしれないぞ」まわりの社員が聞き耳をたてている雰囲気があった。
「まさか、冗談でしょう」

 その問いに社長は返事をしなかった。そのかわりに相変わらず暗い顔をしていた。机に置いてある資料を指でいじりながらも、視線はそこには集中していないようだった。ぼくは東京で求められた回答を探すべく、何本か電話をした。いくつかのヒントが与えられ、あと数日で資料をまとめ、メールを送れる段取りをした。

 一回、休憩を取り、雪代に電話した。社長の具合が悪そうなので、外でいっしょに夕飯を食べる約束をしたことを伝える。彼女は直ぐに理解した。

「どうだった、東京?」電話のしめくくりに彼女は訊く。
「何人かの友人にあったよ」
「また、あとできかせて」と言って通話は終わった。
 また席にもどり仕事を再開させた。ぼくは、その間に笠原さんの姿を思い出し、彼女に似た子を想像して、裕紀の叔母のことを考えた。義理もあったが次に会う機会はいつになるのだろうと考えた。それは近い未来ではなく、あまりにも遠い時期のようにも思えた。ぼくらにあった繋がりは細いものになり、それは以後擦れていくものだと予感ができた。

 終業のベルが鳴り、引き出しを閉める音や物を片付ける音もする。電話をつづけていた同僚はメモ帳になにかの似顔絵らしきものを描いている。ぼくもパソコンの電源を落とし、ロッカーに入れておいた荷物や出張時の着替えを取り出して、家に向かった。
 家に着くと、広美とまゆみは勉強の最中だった。

「お帰りなさい」広美が座り続ける体勢に飽きたかのようにこちらに振り返り声をかけた。
「ただいま。勉強が終わったら、これでも食べて」
「東京のお土産?」まゆみも鉛筆をもった指をひらひらさせながらたずねた。
「そう。またこれから着替えて社長と飲みに行く。送るから、まゆみちゃんもご飯を食べてから少し寄れば」
「考えときます。でも、なんか大事な話をするんですよね?」
「そんなのは、直ぐ終わるよ」ぼくは部屋に入ってラフな格好に着換えた。それから、また広美の部屋に顔を出す。「じゃあ、行ってくるね。雪代にはさっき、電話したから」

 ぼくは先に着き、ビールを頼んだ。店のひととの会話もたいしてせずに、東京での出来事をまた思い出していた。裕紀の叔母は少しだけ小さく見えた。それは肉体の問題というより、裕紀の存在が消えた分だけ容量が減ったようにも思えていた。そうならば自分も小さくなるかもしれない。しかし、ぼくには見えない無数の痛みが残っていたのは確かだ。
「待ったか?」

「いや、ぜんぜん。大丈夫ですか? 何か飲みますか?」
「今日はやめとく。ちょっとだけ控えなければならなくなった」
「やっぱり、検査の結果が悪かったとかで?」
「まあ、そういうもんだよ。これでも、最近は用心していたのにな」
「うちの父も、そんなことを言ってました」
「うん。これで仕事も傾いたら、オレも終わりだな」
「いまのところ、順調じゃないですか」
「そうだな。向こう、どうだった?」
「良くなっています。緊張感もあって」
「もう一度、行きたいか?」
「いや。こっちにすべてがありますから。娘も東京で大きくなって欲しくない」
「足かせか」
「貴重な足かせです」

 それからは仕事の話題はあまり出なくなり、いままでの社長の生き方や思い出話に変更した。誰しもに修羅場があり、どの人生にも辛い別れがあった。社長は母を失ったことを話した。上田さんの祖母でもある。ぼくはその話をリアルな痛みを伴った話として聞く。しかし、どこかその話は爽やかな印象も与えた。ぼくは今後、裕紀の思い出を第三者に話すとき、そのような境地にたどりつくのかと想像した。しかし、そのどれもがいまだに生々しかった。

「こんばんは。やっぱり、来ちゃいました。ひとりで帰るの止しなさいと言われたので」まゆみが戸を開けてぼくのとなりに座ってしゃべった。

「ゆっくりと。オレはちょっと体調が芳しくないので、ここで切り上げさせてもらうわ」と言い残し社長は帰ってしまった。
「近藤さんのそばには可愛い子ばっかりいるのね」と店の女主人がなまめかしく言う。
「わたしのことですか? わたし、可愛いだって」とまゆみは言いぼくの肩を叩いた。それから店のひとと一渡り話し出した。ぼくは、社長の具合を心配する。ある日、老いが顔を見せる。そこまでも油断はしていなかったのだろうが、それが主人として肉体を支配する。それらにぼくらは抵抗する。裕紀の叔母に頻繁に連絡をとることを誓う。しかし、いくつもの約束と同じで守れるかどうかは先にならないと分からなかった。

「まゆみちゃんと飲む機会が来るなんて思わなかったよ」ぼくは白々しい空気を恐れるかのように、わざとちゃかしたように言う。「あんなに小さかったのに」
「また、それを言う。おじさんって、いつもそう」と言って、まゆみはふて腐れた様子でグラスに口をつける。