壊れゆくブレイン(35)
そして、島本さんの母が亡くなった。
ぼくにとっては直接のつながりはなかったが、雪代の元夫の母であり、広美にとっては祖母であったので、無関係であるとも呼べなかった。
ひとが亡くなってからの一連の騒動がはじまり、ぼくもその渦中に入らざるを得なかった。その連絡を電話で雪代から受け、彼女は仕事を中断してそちらに向かった。広美も学校を終えてから駆けつけた。
ぼくは家につき空虚な気持ちを抱く。部屋のなかもそれが反映されていた。そこに玄関のチャイムの音がした。
「あれ、早いんですね。広美ちゃんは?」そこにいたのは、彼女に勉強を教えているまゆみだった。
「そうか、バタバタして伝えられなかったんだね。彼女のお祖母ちゃんが亡くなったんだ」
「ひろし君か、雪代さんのお母さん?」
「そうか、むずかしいな。ほんとのお父さんのお母さん。島本さんのお母さんがだよ」
「それで、ひろし君は家にいるんだ。じゃあ、どうしよう」彼女は足元を見つめる。
「とりあえずは、入れば。勉強はないけど、せっかく来たんだからコーヒーぐらいは入れるよ」
「大丈夫ですか?」
「ひとりで待つより、まあ話し相手も必要だし・・・」
ぼくはポットに水を入れ、電源をつけた。そして、コーヒーを探し、カップを2つ取り出した。コーヒーを作り、注いでからテーブルに運んで飲み始めてしばらくすると、また玄関の扉が開いた。
「あ、ごめん、まゆみちゃん。そうだね、今日だったね」と、雪代は残念そうに言った。
「どうだった?」
「大変だったけど、あとはひとみさんに任せてしまって」それは、島本さんの妹だった。雪代は普段も連絡を取り合っていたが、ぼくと結婚してからその関係はいささか遠退いていくようだった。
「そう、ご飯は?」
「少し食べたけど、お腹すいている。広美はどう?」彼女は後ろでしょぼくれていた。誰かが、それも自分が知っているひとがいなくなるということに対する抵抗と戸惑いがその様子にあらわれていた。
「いらない」
「でも、食べてないでしょう」
「わたし、なにか買ってきます」まゆみがそう言って、立ち上がった。雪代はその気持ちに感謝を述べ、財布を開けた。
その日は、買ってきたもので4人で簡単にご飯を食べた。広美はいらないといっていたが、テーブルに並べられたものをすこし食べた。しかし、受けたショックの後遺症のように元気がなかった。ぼくは夜道をひとりで帰らすことを避けるため、いつもまゆみを送っていた。今日も例外ではなく、いつもより早い時間だったが、いっしょに外にでた。
「広美ちゃん、元気がなかったですね。心配だな」まゆみは、気持ちのままを語った。
「そうだね。こういうことに慣れていない」
「慣れるひとなんています?」
「いないよね」
「ひろし君は誰か大切なひとを亡くしました? あ、ごめんなさい。わたし、つい、うっかりしてました」
「いいんだよ」
「雪代さんとの結婚生活を見てしまっていたので・・・」
「いいよ、気にしないで。でも、誰か亡くしてショックを受ける感情は、ぼくがいちばん知ってるとも思う。つまんない自慢だけど」
「愛していた?」
「もちろん。それで人生を棒にふる寸前までいった。でも、戻ってこられた」そこで、彼女の家の前まで着いた。「ごめんね、今日は。無駄足だったけど、また」
ぼくは、そこからひとりで歩く。ひとを失う悲しみがぼくの周りに充満しているようだった。島本さんの母は息子を若いときに事故で亡くしたのだ。それも自慢の息子を。その悲しみを、ぼくは自分が持っている悲しみと比較しようとした。どちらが重いか、どちらが軽いかという問題でもなく、どちらもずっしりと重かった。人生を失敗させるには充分なほど、その悲嘆は重かった。
「広美は?」部屋に入ると、娘はいなかった。
「ショックだったみたい。部屋で寝るといって入ってしまった。いっしょにわたしも寝てあげる。ひろし君、きょうはひとりで寝て」ぼくは、雪代が島本さんのことを思い出すためにぼくとベッドに入ることを避けているのだと勘繰った。それは男らしくない考え方でもあり、また、自分は10代のときに島本さんに嫉妬していた事実を思い出させてしまった。
「いいよ」
それからも時間は慌ただしく過ぎ、何日かしてぼくは黒い服を着て、火葬場の庭にひとりでたたずんでいた。タバコでも吸えればこの時間を無為に過ごせそうな気もしたが、それもライターももちろん自分はもっていなかった。
そこに広美がか弱げに重い足取りで歩いてきた。彼女は前方を見ていないようだったが、ぼくの前でとまりもたれかかるようにして倒れ掛かった。ぼくは抱き彼女の黒い髪を見下ろしている。
「大丈夫だよ。そばにいてあげるから」
彼女は安心したのかそれからずっと泣きじゃくった。ぼくの黒い服もYシャツも彼女の涙で濡れた。
「お祖母ちゃん、わたしのセーラー服姿を見たいって言ってたのに・・・」
「そうだったんだ。でも、いままでも思い出がつくれただろう?」
「ちょっとだけだよ」声はくぐもっていた。
「そうだね、少なすぎるね。だから、生きている間もっと親しくなるべきなんだね」
ぼくは広美に言っていたのかもしれないが、実際は、裕紀にも伝わって欲しいと思っていた。ぼくのシャツは相変わらず濡れたままで、でもこの状態である限り、ぼくらは本来の親子のスタート地点にやっと立ったのだという気持ちも芽生えていた。
そして、島本さんの母が亡くなった。
ぼくにとっては直接のつながりはなかったが、雪代の元夫の母であり、広美にとっては祖母であったので、無関係であるとも呼べなかった。
ひとが亡くなってからの一連の騒動がはじまり、ぼくもその渦中に入らざるを得なかった。その連絡を電話で雪代から受け、彼女は仕事を中断してそちらに向かった。広美も学校を終えてから駆けつけた。
ぼくは家につき空虚な気持ちを抱く。部屋のなかもそれが反映されていた。そこに玄関のチャイムの音がした。
「あれ、早いんですね。広美ちゃんは?」そこにいたのは、彼女に勉強を教えているまゆみだった。
「そうか、バタバタして伝えられなかったんだね。彼女のお祖母ちゃんが亡くなったんだ」
「ひろし君か、雪代さんのお母さん?」
「そうか、むずかしいな。ほんとのお父さんのお母さん。島本さんのお母さんがだよ」
「それで、ひろし君は家にいるんだ。じゃあ、どうしよう」彼女は足元を見つめる。
「とりあえずは、入れば。勉強はないけど、せっかく来たんだからコーヒーぐらいは入れるよ」
「大丈夫ですか?」
「ひとりで待つより、まあ話し相手も必要だし・・・」
ぼくはポットに水を入れ、電源をつけた。そして、コーヒーを探し、カップを2つ取り出した。コーヒーを作り、注いでからテーブルに運んで飲み始めてしばらくすると、また玄関の扉が開いた。
「あ、ごめん、まゆみちゃん。そうだね、今日だったね」と、雪代は残念そうに言った。
「どうだった?」
「大変だったけど、あとはひとみさんに任せてしまって」それは、島本さんの妹だった。雪代は普段も連絡を取り合っていたが、ぼくと結婚してからその関係はいささか遠退いていくようだった。
「そう、ご飯は?」
「少し食べたけど、お腹すいている。広美はどう?」彼女は後ろでしょぼくれていた。誰かが、それも自分が知っているひとがいなくなるということに対する抵抗と戸惑いがその様子にあらわれていた。
「いらない」
「でも、食べてないでしょう」
「わたし、なにか買ってきます」まゆみがそう言って、立ち上がった。雪代はその気持ちに感謝を述べ、財布を開けた。
その日は、買ってきたもので4人で簡単にご飯を食べた。広美はいらないといっていたが、テーブルに並べられたものをすこし食べた。しかし、受けたショックの後遺症のように元気がなかった。ぼくは夜道をひとりで帰らすことを避けるため、いつもまゆみを送っていた。今日も例外ではなく、いつもより早い時間だったが、いっしょに外にでた。
「広美ちゃん、元気がなかったですね。心配だな」まゆみは、気持ちのままを語った。
「そうだね。こういうことに慣れていない」
「慣れるひとなんています?」
「いないよね」
「ひろし君は誰か大切なひとを亡くしました? あ、ごめんなさい。わたし、つい、うっかりしてました」
「いいんだよ」
「雪代さんとの結婚生活を見てしまっていたので・・・」
「いいよ、気にしないで。でも、誰か亡くしてショックを受ける感情は、ぼくがいちばん知ってるとも思う。つまんない自慢だけど」
「愛していた?」
「もちろん。それで人生を棒にふる寸前までいった。でも、戻ってこられた」そこで、彼女の家の前まで着いた。「ごめんね、今日は。無駄足だったけど、また」
ぼくは、そこからひとりで歩く。ひとを失う悲しみがぼくの周りに充満しているようだった。島本さんの母は息子を若いときに事故で亡くしたのだ。それも自慢の息子を。その悲しみを、ぼくは自分が持っている悲しみと比較しようとした。どちらが重いか、どちらが軽いかという問題でもなく、どちらもずっしりと重かった。人生を失敗させるには充分なほど、その悲嘆は重かった。
「広美は?」部屋に入ると、娘はいなかった。
「ショックだったみたい。部屋で寝るといって入ってしまった。いっしょにわたしも寝てあげる。ひろし君、きょうはひとりで寝て」ぼくは、雪代が島本さんのことを思い出すためにぼくとベッドに入ることを避けているのだと勘繰った。それは男らしくない考え方でもあり、また、自分は10代のときに島本さんに嫉妬していた事実を思い出させてしまった。
「いいよ」
それからも時間は慌ただしく過ぎ、何日かしてぼくは黒い服を着て、火葬場の庭にひとりでたたずんでいた。タバコでも吸えればこの時間を無為に過ごせそうな気もしたが、それもライターももちろん自分はもっていなかった。
そこに広美がか弱げに重い足取りで歩いてきた。彼女は前方を見ていないようだったが、ぼくの前でとまりもたれかかるようにして倒れ掛かった。ぼくは抱き彼女の黒い髪を見下ろしている。
「大丈夫だよ。そばにいてあげるから」
彼女は安心したのかそれからずっと泣きじゃくった。ぼくの黒い服もYシャツも彼女の涙で濡れた。
「お祖母ちゃん、わたしのセーラー服姿を見たいって言ってたのに・・・」
「そうだったんだ。でも、いままでも思い出がつくれただろう?」
「ちょっとだけだよ」声はくぐもっていた。
「そうだね、少なすぎるね。だから、生きている間もっと親しくなるべきなんだね」
ぼくは広美に言っていたのかもしれないが、実際は、裕紀にも伝わって欲しいと思っていた。ぼくのシャツは相変わらず濡れたままで、でもこの状態である限り、ぼくらは本来の親子のスタート地点にやっと立ったのだという気持ちも芽生えていた。