償いの書(11)
「美紀ちゃん、可愛かった? きれいだった? どうだった?」
ふたたび、ぼくの前には雪代がいた。昨日の結婚式の様子を彼女に問われている。ぼくは、いろいろと妹に便宜を働いてくれたことを感謝しようとしていた。ぼくらは、むかしよく来た喫茶店にいた。音楽は、いつもその日にあったピアノ曲が流れていた。ラベル? ソナチネ? ぼくは遠くに置いてあるCDのジャケットの小さな文字を眺めようとしていた。
「うん、きれいだった。あんなに清楚な感じが出せるなら、むかしから、しておいて欲しかった」と感想を述べた。
「特別な日だからね、ひろし君のときもわたしがしてあげようか?」と、からかうような目付きでぼくに訊いた。しかし、その返事はぼくの喉からすらすらと出てくるはずもなかった。それにしても、ぼくは、彼女の雰囲気がすこし変わっていることに戸惑っている。その原因をさがすと、体型がすこし変わっていることに気付いた。彼女がトイレに立ち上がったとき、お腹が膨らんでいることを知ったのだ。戻ってきたときに、ぼくは問いかけないわけにはいかない気持ちになっている。
「お腹に、いるんだ?」
「そう、あと3、4ヶ月で誕生する」
「良かったね」
「うん、いつか、お母さんも経験したかった」
ぼくは、その相手となる男性のことを思い浮かべ、もしかしたら、自分がその立場にいたかもしれない可能性のことについても考えた。
「どっちなの? 男の子?」
「まだ、知らない。でもね、男の子だったら、ラグビーやサッカーをしてもらいたい。それを、お母さんのわたしが力いっぱい、応援する」
「良いコーチがそばにいるもんね。もし、女の子だったら?」
「わたしが好きになった男の子のはなしをしてあげる」
「島本さんのこと?」
「彼もそう。あと、油断すると浮気ばっかりする年下の男の子がいた。彼の話もしてあげる」
「なんだ、知ってたんだ。問い詰めてくれれば良かったのに」
「彼のことも好きだったし、年上の女性が気色ばんで問いただすなんて、わたしの美学としてなかった。やってはいけないことだと思っていた」
「ごめん、いろいろ」
「いいのよ、もう。でも、あの子はそれにもう耐えられそうもないから、しないでちょうだいね」雪代は、裕紀を連れて、ぼくが戻ってきたことをしっているらしい。
「もう、しないんだ」
「だと、いいんだけど」
「仕事も順調なんでしょう?」
「うまくいってる。優秀なスタッフも掻き集めたし。ひろし君は、東京の生活になれた? うまく生活がはまってる? 軌道に乗ってる?」
「なんとかね。だんだんと、こっちに戻りたいと思ってた気持ちを忘れることもたびたびある」
「大人になるって、忘れることだし、手から漏れていく水みたいなものだからね。それも仕様がないよ」
「雪代がしてくれたことは忘れてないよ」
「いや、いつか忘れるよ」
「だって、雪代だって子どもにぼくのことを話してくれるって、いま言ったばかりじゃないか」
「そうだね、いつか少年か少女になったこの子に会ってくれる? そして、いっしょに遊んでくれる?」
ぼくは、そのことを想像してみる。その子とサッカーボールを蹴りあっている映像が浮かび、むかし、バイト先の店長の娘と、学校に入学する前に文房具を買いにいった思い出を楽しんでいる。そのくらいの年齢になった雪代の子どもと、自分がそれだけ年を積み、また、そのときには自分にも子どもというものがいるのだろうかという空想ももてあそんでいる。
「もちろん、喜んでそうするよ。その機会が訪れることを楽しみにしている。それまで、元気に活発な子になるように育ててくれよ」と、言った。ぼくらは、たくさんの約束を交わし、交わしたことを忘れたとしても、その言葉を言わないわけには、その当時はいかなかったのだ。
「あと、何日かこっちにいるの?」
「明日の夕方には帰らなければいけない。仕事もそう待ってくれないから」
「あの子も?」
「うん、あの子も」
「今度は大事にしてあげた方がいいかもね」
「浮気しないでね」
「そう、浮気もきっぱりとやめて」ぼくらは、笑った。母になる雪代という存在をぼくは認めなければならなかった。時代は変わっていくのであり、歴史は動くものなのである。彼女のその膨らんだお腹をみつめながら、ぼくはそのことを痛感した。話し終えたぼくらは、彼女を店の外まで送り、もう一度、ぼくは店内に戻った。店主にきちんとあいさつをして、音楽談義をすこしだけした。彼はぼくの質問に的確に答え、会話は有意義なものになった。そして、その彼の王国を今後も死守してくれるようぼくはこころのなかで願っていた。移ろってゆくものも美しければ、この店の変わらない点も、それは、また美しいものなのだからだ。
ぼくは、ひとりで店を出て、裕紀のホテルに電話した。雪代と会うことは告げられなかったが、彼女は知ることになるのだろうか。新婚旅行に出かける前に、妹と山下が彼女のもとを訪れ、手紙を残していったそうだ。裕紀の存在は誰からも愛されることになる。そして、過去にぼくが取った行動を全員が彼女に済まないという気持ちを抱き続けているのも、また動かない事実だったのだ。
「美紀ちゃん、可愛かった? きれいだった? どうだった?」
ふたたび、ぼくの前には雪代がいた。昨日の結婚式の様子を彼女に問われている。ぼくは、いろいろと妹に便宜を働いてくれたことを感謝しようとしていた。ぼくらは、むかしよく来た喫茶店にいた。音楽は、いつもその日にあったピアノ曲が流れていた。ラベル? ソナチネ? ぼくは遠くに置いてあるCDのジャケットの小さな文字を眺めようとしていた。
「うん、きれいだった。あんなに清楚な感じが出せるなら、むかしから、しておいて欲しかった」と感想を述べた。
「特別な日だからね、ひろし君のときもわたしがしてあげようか?」と、からかうような目付きでぼくに訊いた。しかし、その返事はぼくの喉からすらすらと出てくるはずもなかった。それにしても、ぼくは、彼女の雰囲気がすこし変わっていることに戸惑っている。その原因をさがすと、体型がすこし変わっていることに気付いた。彼女がトイレに立ち上がったとき、お腹が膨らんでいることを知ったのだ。戻ってきたときに、ぼくは問いかけないわけにはいかない気持ちになっている。
「お腹に、いるんだ?」
「そう、あと3、4ヶ月で誕生する」
「良かったね」
「うん、いつか、お母さんも経験したかった」
ぼくは、その相手となる男性のことを思い浮かべ、もしかしたら、自分がその立場にいたかもしれない可能性のことについても考えた。
「どっちなの? 男の子?」
「まだ、知らない。でもね、男の子だったら、ラグビーやサッカーをしてもらいたい。それを、お母さんのわたしが力いっぱい、応援する」
「良いコーチがそばにいるもんね。もし、女の子だったら?」
「わたしが好きになった男の子のはなしをしてあげる」
「島本さんのこと?」
「彼もそう。あと、油断すると浮気ばっかりする年下の男の子がいた。彼の話もしてあげる」
「なんだ、知ってたんだ。問い詰めてくれれば良かったのに」
「彼のことも好きだったし、年上の女性が気色ばんで問いただすなんて、わたしの美学としてなかった。やってはいけないことだと思っていた」
「ごめん、いろいろ」
「いいのよ、もう。でも、あの子はそれにもう耐えられそうもないから、しないでちょうだいね」雪代は、裕紀を連れて、ぼくが戻ってきたことをしっているらしい。
「もう、しないんだ」
「だと、いいんだけど」
「仕事も順調なんでしょう?」
「うまくいってる。優秀なスタッフも掻き集めたし。ひろし君は、東京の生活になれた? うまく生活がはまってる? 軌道に乗ってる?」
「なんとかね。だんだんと、こっちに戻りたいと思ってた気持ちを忘れることもたびたびある」
「大人になるって、忘れることだし、手から漏れていく水みたいなものだからね。それも仕様がないよ」
「雪代がしてくれたことは忘れてないよ」
「いや、いつか忘れるよ」
「だって、雪代だって子どもにぼくのことを話してくれるって、いま言ったばかりじゃないか」
「そうだね、いつか少年か少女になったこの子に会ってくれる? そして、いっしょに遊んでくれる?」
ぼくは、そのことを想像してみる。その子とサッカーボールを蹴りあっている映像が浮かび、むかし、バイト先の店長の娘と、学校に入学する前に文房具を買いにいった思い出を楽しんでいる。そのくらいの年齢になった雪代の子どもと、自分がそれだけ年を積み、また、そのときには自分にも子どもというものがいるのだろうかという空想ももてあそんでいる。
「もちろん、喜んでそうするよ。その機会が訪れることを楽しみにしている。それまで、元気に活発な子になるように育ててくれよ」と、言った。ぼくらは、たくさんの約束を交わし、交わしたことを忘れたとしても、その言葉を言わないわけには、その当時はいかなかったのだ。
「あと、何日かこっちにいるの?」
「明日の夕方には帰らなければいけない。仕事もそう待ってくれないから」
「あの子も?」
「うん、あの子も」
「今度は大事にしてあげた方がいいかもね」
「浮気しないでね」
「そう、浮気もきっぱりとやめて」ぼくらは、笑った。母になる雪代という存在をぼくは認めなければならなかった。時代は変わっていくのであり、歴史は動くものなのである。彼女のその膨らんだお腹をみつめながら、ぼくはそのことを痛感した。話し終えたぼくらは、彼女を店の外まで送り、もう一度、ぼくは店内に戻った。店主にきちんとあいさつをして、音楽談義をすこしだけした。彼はぼくの質問に的確に答え、会話は有意義なものになった。そして、その彼の王国を今後も死守してくれるようぼくはこころのなかで願っていた。移ろってゆくものも美しければ、この店の変わらない点も、それは、また美しいものなのだからだ。
ぼくは、ひとりで店を出て、裕紀のホテルに電話した。雪代と会うことは告げられなかったが、彼女は知ることになるのだろうか。新婚旅行に出かける前に、妹と山下が彼女のもとを訪れ、手紙を残していったそうだ。裕紀の存在は誰からも愛されることになる。そして、過去にぼくが取った行動を全員が彼女に済まないという気持ちを抱き続けているのも、また動かない事実だったのだ。