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物語の連鎖
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存在理由(39)

2010年12月21日 | 存在理由
(39)

 人の気持ちを置き去りにして、日々の生活は過ぎていく。小さな土砂は、いつのまにか歴史の層になり、将来の歴史に興味がある人の目を通してしか、それらは注目されなくなっていく。ぼくのこころも、日常の忙しさに押し流され、自分自身でも忘れがちになっていった。

 それで、みどりとの関係性を、再度深めようと考えた。なんだかんだいっても、自分にはみどりがいるじゃないかとの安心感もあった。彼女は、相変わらず忙しくしてはいたが。

 日本にもサッカーのプロ・リーグが出来上がることが決まり、その考え方として企業中心というより、地域に根付いたものになるらしい。そのことを知ったのは、もっとあとになってからだろうか。

 それは、学生時代に能力を見せた選手たちには、将来の目標と選択肢が増えることになり、誰にとっても良いことのように思えてきた。かといって、それらは蹴落とす戦いでもあり、能力の見せられなかった選手たちは消える運命を甘受し、自分の存在を明らかにした人たちでも、40、50歳までそのことだけで生きられないことも確かだった。

 スポーツの印象を文章として記事にすることは、可能か、それとも正しいことなのだろうかと考える。それは、自分の肉眼で確かめることが最善であり、その場に居合わせて熱狂を共有することも楽しいのだろう。その次に、テレビで見ることも応援の一部であり、ラジオでも、楽しさの一環は感じられるだろう。だが、文章は、いったいどういう立場をとるのだろう。

 それは、その選手の考えかたや、生い立ちやエピソードや付加価値がないと成立しないのではないのか。自分では、それらのことができるとは考えられなかった。

 だが、みどりの生活はそれだった。それらの連続と繰り返しの毎日だった。なので、自然と選手たちに肩入れする時間が増え、エピソードを拾い上げる会話とメモに頼る日々だった。そして、その努力と満足感に満ち足りた表情を見ていると、自分のしている仕事が、一部のひとの繁栄に乗っかっているだけの、ある意味他の人を排除したうえで成り立っていると考えてしまうこともあった。しかし、そちら側に席を作ってくれるならば、自分もそちら側に行きたい気持ちがあるのも確かだった。

 これらのことは二人になっても話すことはなかった。話さなくても、自分の気持ちというのは外面にも出てしまうものだろう。みどりは、最近ぼくが変わり始めていると言った。学生時代から、知っているみどりにとっては、当然だろう。ぼくも、直ぐには否定できなかった。その変化が、良い方向に向かっているのか、悪い方向に向かっているのかは自分でも分からなかった。しかし、変化のない人生なんて、当然のようにありえないのだろう。

 寒い風が吹くなか、まだお台場といわれる前の多分、13号埋立地と呼ばれている場所に車を借りて、出かけた。そこは、人目をたえず感じている都市生活者にとっては、ひとまずの逃げ場のような場所だった。そこにはバイクが宝物でしかたがないような人間たちもたくさんいた。彼らの競争心とスリリングな運転に感心し、自分の暮らしてきた田舎でも、そのような若者がたくさんいたことを思い出した。思い出すことによって感傷も当然のように芽生えてきた。

 こうして、みどりが横にいる生活が戻ってきたわけだ。だが、こころの隙間には絶えず部屋にしのびこむ夏の虫のように油断できないものが存在した。
「仕事どう? そういえばこの前の雑誌読んでみたよ。あの記事書いたんでしょう」
 みどりは最近のぼくの働きぶりを雑誌の内容で知るのだった。そして、客観的に、どこが良いのか説明した。それは、いつものように的確であった。

 冬の空は、すぐに夕暮れになるが、春の前兆のようなひかりもそこには含まれていた。たぶん、人間は、その新しい予兆のようなものを感じさえすれば生きていけるのだろう、とその日の自分は考えていた。
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