償いの書(3)
ぼくは、ちょっと離れた彼女の姿を認識しつつも、そこにたどり着けないもどかしさも感じていた。いくつかの信号がぼくの歩みをさえぎり、最短距離で彼女に近付きたかったのだが、それは思い通りには行かなかった。まるで、それは、悪い夢でも見ているように、なかなか自分の思い通りのゴールには至りそうもなかった。しかし、ぼくの視界には、彼女の姿がはっきりと映し出されていた。
ぼくは、そのもどかしさの中でも、やっと彼女の視線の範疇に入る。
「お腹すいちゃった。けっこう、待ったんだよ。やっぱり、来ないのかと思った」
「ごめん。なんか難しいお客さんの応対を最後にして、なかなか抜け出せなかった」と、ぼくは言った。言い訳を、もったたくさんしたかったのだが、彼女との距離感が分からないまま、ぼくは攻撃とも防御ともつかない言葉を捜し続けた。
「ひろし君は、この辺に詳しくなったの?」
「まるで、全然」と、自信があるような、それでいてまったくないような言葉を呟いた。
「じゃあ、あそこに行きたいと思っていたんだけど、付き合ってくれる?」と裕紀は言い、ぼくらの歩みを促した。彼女の望みの店に着くと、ある爽やかな男性に案内され、ぼくらは店の奥の静かな場所に通された。連休前で混んでいると思っていたが、意外とそこは静寂が保たれていた。そこから、失われた関係の狭間を埋めようと、ぼくらの会話は手探りながらも交わされていく。
「東京に来たのは、最近?」
「あの、コンビニでぼくを見つけたのがその頃なら、そこから始まったばかりだよ。裕紀は?」
「向こうの大学を卒業して、4年ぐらいここに住んでる」
「ひとりで?」
「ひとりで」
「家族は?」
「なんとなくだけど、いろいろあった。たまに、ほんのたまにだけど、ひろし君のことは、ゆり江ちゃんにきいていた」
「あの、ゆり江ちゃん?」
「そう。彼女と親しくしてくれていたみたいで、ありがとう」ぼくは、いろいろと言い辛いことを身にしみて感じていた。「ひろし君は頑固なひとだと、あの子はいつも言ってた」
「それで、家族もこっちに?」
「言い辛いけど、私が留学している場所に遊びに来たとき、自動車事故にあった」
「それで?」
「それで、亡くなった」
「向こうで? ゆり江ちゃんは何も教えてくれなかった」
「言わないように口止めしていた。ひろし君のこころは意外と柔だから。わたしはシアトルで学んでいたけど、休暇のときのロスアンジェルスで」
「まだ、19ぐらいのときじゃない?」
「なんで?」
「ぼくは、空港で似た人を見た覚えがある。いや、いつかは、忘れたけど、裕紀に似た子がそこにいた」
「多分、そのとき、両親は旅行で来て、いろいろと案内しようと思っていた」ぼくは、その機会のことを告げられないでいた。
「ひろし君も旅行で」
「まあ」
「誰と」ぼくは無言でいる。「あのひととなんだ?」
ぼくは返事をしないでいたが、彼女は理解したようだった。そこで、ぼくは話題を転換させようとしていた。
「ぼくのことを恨んでいた?」ぼくはついに質問した。それを、いつも恐れていた、ということは隠していたのだが。
「多分だけど、恨んでいない。あの計画を練ったのは、父親だった。それで、留学をわたしにさせようとした。自分の娘の名誉が汚されるのを彼は恐れていたんだと思う。わたし自身は、ひろし君が、ただ1回間違いを犯しただけで、ほんとうは、私を大事にしてくれていると思っていた。それを根源的に突き止めたかった。そうなんでしょう?」と、彼女は、あれ以来別のひとになったような大人びた表情をした。「違うのかな?」
「そうかもしれない」と、自分の発言の軽率さをたしなめようと、ぼくはグラスにはいった赤い渋めのワインを飲んだ。
「でも、どっかでは憎もうと思っていた。わたしのこころを踏みにじったひろし君のことや、あの女性のことも忘れることができなかった。もっと、シンプルな恋をわたしは経験したかった」
「ごめん」
「謝ることないよ」
彼女は自分のこころの深い部分を表していたことを恥じるように、そう言った。「でも、過去の楽しい思い出に変換できれば、どんなにいいことだろうとも思っていた」
ぼくは、いろいろなことが頭の中に流れ続け、返答できずにいた。
「若いころの間違いって、自分のことじゃなければ、たしなめる必要もないほど寛大になったりできるんだけどね」
「こんなに、最初から突き詰めることなんかしたくないと思っていた。もっと別の話をしましょう。名刺をみたけど、ラグビーの先輩のお父さんの会社にひろし君は勤めたの?」
「その通り。それで、ずっと地元で骨を埋めようと思っていたんだけど、違う道を歩んでしまった」
「後悔してる?」
「もう、分からない。ここで、裕紀に会うことにもなったんだし」
「後悔してる?」
「するわけないじゃん」と、言って、ぼくは、時計を見た。時間は性急にぼくらの持ち時間を奪おうとしていた。
ぼくは、ちょっと離れた彼女の姿を認識しつつも、そこにたどり着けないもどかしさも感じていた。いくつかの信号がぼくの歩みをさえぎり、最短距離で彼女に近付きたかったのだが、それは思い通りには行かなかった。まるで、それは、悪い夢でも見ているように、なかなか自分の思い通りのゴールには至りそうもなかった。しかし、ぼくの視界には、彼女の姿がはっきりと映し出されていた。
ぼくは、そのもどかしさの中でも、やっと彼女の視線の範疇に入る。
「お腹すいちゃった。けっこう、待ったんだよ。やっぱり、来ないのかと思った」
「ごめん。なんか難しいお客さんの応対を最後にして、なかなか抜け出せなかった」と、ぼくは言った。言い訳を、もったたくさんしたかったのだが、彼女との距離感が分からないまま、ぼくは攻撃とも防御ともつかない言葉を捜し続けた。
「ひろし君は、この辺に詳しくなったの?」
「まるで、全然」と、自信があるような、それでいてまったくないような言葉を呟いた。
「じゃあ、あそこに行きたいと思っていたんだけど、付き合ってくれる?」と裕紀は言い、ぼくらの歩みを促した。彼女の望みの店に着くと、ある爽やかな男性に案内され、ぼくらは店の奥の静かな場所に通された。連休前で混んでいると思っていたが、意外とそこは静寂が保たれていた。そこから、失われた関係の狭間を埋めようと、ぼくらの会話は手探りながらも交わされていく。
「東京に来たのは、最近?」
「あの、コンビニでぼくを見つけたのがその頃なら、そこから始まったばかりだよ。裕紀は?」
「向こうの大学を卒業して、4年ぐらいここに住んでる」
「ひとりで?」
「ひとりで」
「家族は?」
「なんとなくだけど、いろいろあった。たまに、ほんのたまにだけど、ひろし君のことは、ゆり江ちゃんにきいていた」
「あの、ゆり江ちゃん?」
「そう。彼女と親しくしてくれていたみたいで、ありがとう」ぼくは、いろいろと言い辛いことを身にしみて感じていた。「ひろし君は頑固なひとだと、あの子はいつも言ってた」
「それで、家族もこっちに?」
「言い辛いけど、私が留学している場所に遊びに来たとき、自動車事故にあった」
「それで?」
「それで、亡くなった」
「向こうで? ゆり江ちゃんは何も教えてくれなかった」
「言わないように口止めしていた。ひろし君のこころは意外と柔だから。わたしはシアトルで学んでいたけど、休暇のときのロスアンジェルスで」
「まだ、19ぐらいのときじゃない?」
「なんで?」
「ぼくは、空港で似た人を見た覚えがある。いや、いつかは、忘れたけど、裕紀に似た子がそこにいた」
「多分、そのとき、両親は旅行で来て、いろいろと案内しようと思っていた」ぼくは、その機会のことを告げられないでいた。
「ひろし君も旅行で」
「まあ」
「誰と」ぼくは無言でいる。「あのひととなんだ?」
ぼくは返事をしないでいたが、彼女は理解したようだった。そこで、ぼくは話題を転換させようとしていた。
「ぼくのことを恨んでいた?」ぼくはついに質問した。それを、いつも恐れていた、ということは隠していたのだが。
「多分だけど、恨んでいない。あの計画を練ったのは、父親だった。それで、留学をわたしにさせようとした。自分の娘の名誉が汚されるのを彼は恐れていたんだと思う。わたし自身は、ひろし君が、ただ1回間違いを犯しただけで、ほんとうは、私を大事にしてくれていると思っていた。それを根源的に突き止めたかった。そうなんでしょう?」と、彼女は、あれ以来別のひとになったような大人びた表情をした。「違うのかな?」
「そうかもしれない」と、自分の発言の軽率さをたしなめようと、ぼくはグラスにはいった赤い渋めのワインを飲んだ。
「でも、どっかでは憎もうと思っていた。わたしのこころを踏みにじったひろし君のことや、あの女性のことも忘れることができなかった。もっと、シンプルな恋をわたしは経験したかった」
「ごめん」
「謝ることないよ」
彼女は自分のこころの深い部分を表していたことを恥じるように、そう言った。「でも、過去の楽しい思い出に変換できれば、どんなにいいことだろうとも思っていた」
ぼくは、いろいろなことが頭の中に流れ続け、返答できずにいた。
「若いころの間違いって、自分のことじゃなければ、たしなめる必要もないほど寛大になったりできるんだけどね」
「こんなに、最初から突き詰めることなんかしたくないと思っていた。もっと別の話をしましょう。名刺をみたけど、ラグビーの先輩のお父さんの会社にひろし君は勤めたの?」
「その通り。それで、ずっと地元で骨を埋めようと思っていたんだけど、違う道を歩んでしまった」
「後悔してる?」
「もう、分からない。ここで、裕紀に会うことにもなったんだし」
「後悔してる?」
「するわけないじゃん」と、言って、ぼくは、時計を見た。時間は性急にぼくらの持ち時間を奪おうとしていた。