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償いの書(8)

2010年12月19日 | 償いの書
償いの書(8)

 返事を1週間待たされた。その期間にも朝のコンビニエンス・ストアで、ぼくと裕紀はすれ違うことになる。もちろん、そこで大事な答えなどきけるような雰囲気ではなかった。あまりにも、慌ただしい朝であった。返事を待つその1週間、さまざまなことを考えた。もし、断られたら、このように朝を、期待をもった朝を迎えるようなことができるのだろうか、それとも、別の店に立ち寄ることになるのだろうか、というようなことを。それは、あてどもないことで、実際には答えが与えられない限り、決定のしようもなかった。

 そして、ある月曜の仕事帰り、ぼくらは喫茶店で待ち合わせをして、コーヒーを飲んだ。
「この前のことなんだけど・・・」と、彼女は言いづらそうにしている。「あの気持ちって、変わっていない?」
「変わってないよ。いやだったら、いやでもいいよ。はっきりとした方がすっきりとする」
「条件付きで」
「どんな?」
「わたし以外に絶対に誰も好きにならないで。交際している間は」それは、普通の男女が条件にするような事柄ではなかった。当然の要求でもあった。だが、彼女にそう口に出させてしまうぐらい、ぼくは過去の自分の無頓着さを悲しんでいる。
「もちろん、そうするよ」
「なら、わたしでよければ」

 ぼくらは、そこで合意に達する。まるでビジネスの取り決めのように条件がついた。しかし、自分は同じ過ちをしないであろうという変な自信があった。それぐらい、ぼくの前にあらわれた8年後の彼女は魅力的であり、優しさでできており、誰よりも自分のこころのなかにある衝動が、その対象を欲していた。

 その日は、その店を出た後、長居をしないで、お互いに別れた。ぼくは、地下鉄の駅までどう歩いていたのか分からないぐらいに浮かれていた。地下鉄の車内でも、不自然なぐらい微笑んでいたかもしれない。家に着き、スーツをハンガーにかけ、手や顔を洗い、食事をするという普通の日常の営みも、ぼくにとって神々しい経験のような印象をあたえた。

 翌日も、コンビニエンス・ストアで裕紀を探す。彼女はそこにいて、もうぼくとは他人ではないのだという気持ちが、ぼくを幸福にさせた。そして、仕事をしながらも彼女のこれからの日々の表情のストックを増やしていけるというチャンスを喜んでいた。ぼくは、書類が入った引き出しを開け閉めしながら、重要な情報が増えていくファイルに紙を挟みながら、それを裕紀の数々の笑顔や困った表情が増えていくことに、例えていた。

 ぼくらは休日ごとに会い、その日は、大きな都市に不釣合いな大きな公園で、彼女の手作りのお弁当を食べている。女性の8年間になにがあるのか、ぼくはよく知らないでいたが、彼女がいつの間にか料理の才能を身につけ、ぼくを楽しませてくれた。ぼくは、資格をとるために勉強していることを語り、彼女は耳の悪い人のようにぼくのそばに近寄り、熱心に話を聞いてくれた。

 しかし、幸福のなかにありながらも、ぼくは雪代とそうした瞬間もあったことを、大切なこころの奥の箱にしまっている自分がいることにも気付いていた。それは、自分の脳があやつっていることだろうが、雪代の意思すら感じるような恐れを抱きはじめていた。これでは、まったく8年前と同じではないかという恐れを、ぼくは太陽を浴びながら考えていた。そのぐらい、思い出の力というものは、現在進行形の楽しさより重いものであった。

 ぼくは夕方になり、彼女の家のそばまで送って行った。階段の上に彼女の住まいがあった。ぼくは、そこで別れを告げ、彼女の唇に触れた。それは、過去の思い出と現在がつながる一点だった。ぼくは、これで雪代への思いが断ち切られるのだという決心が訪れることを望んでいた。それは、その瞬間は、はっきりと来たのだと宣言しておこう。

 別の日に上田さんが、出張に行っているということなので、ぼくの会社の近くまで用に来たのだから、いっしょにご飯でも食べましょうという、智美の誘いにのった。

「最近、休日も忙しくしているの? なんか、前より断ること多くない?」
「そうかな」
「彼女でも出来た?」ぼくの表情を見詰めている彼女の視線を避けようとしながらも、ひしひしと感じていた。「え、出来たの?」
「まあ。そんなひとがいる」
「相変わらず、手が早い」
「友人でも、失礼にあたりますよ」と、ぼくは、わざと丁寧に言った。

「どんなひと? わたしも友人になれそう?」彼女の判断基準はいつも、そこに焦点があたっていた。友人になれるか、それとも、まったくなれないぐらい性格があわないか、という点に。
「なれるかもしれないね。智美も知ってる裕紀だよ」
「つまらない冗談はいいからね。彼女と再会できる身分じゃないじゃん。いたとしても」彼女は、ぼくの言葉を待っている。だが、ぼくは、自分の置かれた立場がどういうものなのか、はっきりとさせようとしていた。「ほんとなの?」と、智美はしびれを切らしてそう漏らした。

「ほんとだよ。再会した」ぼくは、それから、いままでのいきさつをはなした。
「あのひと、どう思うかしら」と、上田さんのことであろうひとを思い浮かべているのか、自分の頭のなかでストーリーを組み立てていた。「それで、簡単に河口さんのことも許してくれてるんだ?」

「さあ、許してくれているんだろうとは思うけど、ぼくからは、そこにスポットを当てることはできない。だけど、彼女は優しさの固まりのようにできている」ぼくは、宝石店のいちばん上等な品物を覗き込んでいるように、彼女の存在と、その意味合いを語った。

「じゃあ、わたしも会えるんだよね」と、智美は言い、ぼくの幸福より、自分の幸福をよりいっそう考えているような口振りで言った。
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