朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「風の国」のあと 「閔中王・慕本王」編

2010年09月15日 | 風の国
●第4代 閔中王(びんちゅうおう)

ムヒュルこと大武神王(高句麗第3代王)のあとを継いだのは、ホドン王子ではなく閔中王。『三国史記』では大武神王のとなっている。ということは、トジョル、ヘミョンやヨジンの他にも兄弟がいたということか。
一方、『三国遺事』の王暦では、大武神王のだとされている。果たしてどちらが正しいのか。この辺は判断しづらい・・・というか判断できるわけがないのである。

閔中王の諱(いみな)は解色朱で、これはヘモス(解慕漱)の一族、つまり解氏であることを示しているとも考えられるわけだ。

閔中王の在位は4年ほど。さほど目立つ功績はない。

●第5代 慕本王(ぼほんおう)

閔中王の薨去(こうきょ)に伴い、あとを継いで即位したのが、慕本王である。
『三国史記』では、大武神王の嫡子、『三国遺事』では閔中王の兄とされているが、いずれの場合もムヒュルの子であることには間違いない。しかし、『三国史記』の記述に従う限り、彼はホドンではないのである。

朱蒙、ユリ、ムヒュルに続く4世代目の王にあたるわけだが、実はこの慕本王が非常に残念な王なのである。つまり問題児だった。

『三国史記』の記述を拾ってみると。

性格が荒々しく、道理にそむくことが多く、国政にはげまなかった。
座るときには必ず人の上に座り、寝るときには人を枕にした。
その人がもし動揺すれば、容赦なく殺した。
家臣で諫言するものがあれば、弓でこれを射殺した。
(以上、東洋文庫版『三国史記』より)

そんなわけで、結局、家臣(王の側近)に殺されてしまうのである。

慕本王の在位も約5年と短い。

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