竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

冷淡な頭の形氷水  星野立子

2019-07-19 | 今日の季語


冷淡な頭の形氷水  星野立子


い日がつづきます。氷水など如何でしょう。私の好きな「宇治金時」。デザイン的に「冷淡な頭の形」を餡で覆って、冷淡に見えないように工夫された(のかどうかは知らないけれど、そんな気がする)発明品だ。掲句は、正直言ってよい出来ではない。でも、後世のために(笑)書いておくべきことがあるので、取り上げた次第。すなわち、立子は主に東京や鎌倉で暮らした人だったから、氷水(かき氷)というと「冷淡」とイメージしていたのだろう。面白い見方とは思うが、何を言っているのかわからない人も大勢いるはずだ。というのも、東京近辺の氷水はシロップを器に入れてから、その上に氷をかく。したがって、「頭」部は写真の餡を取り払った感じになり、氷の色そのものしか見えないので、なるほどまことに冷淡に写る。が、名古屋以西くらいからは、氷をかいた上にシロップを注ぐ。と、見かけはちっとも冷淡じゃなくなる。九州の一部の地方では、まずシロップを入れて氷をかき、その上に重ねてシロップを注ぐという話を聞いたことがあるが、真偽のほどは確認できていない。いずれにしても、俳句を読むときに厄介なのは、こうした地方的日常性や習慣習俗などをわきまえていないと、とんでもない誤読に陥ってしまうケースがよくあるということだ。当サイトでも、かくいう私が何度も誤読してきたことは、読者諸兄姉が既にご承知の通り。ましてや、時代を隔てた句となると、作者の真意をつかむのが余計に難しくなる。誤読もまた楽し、と思ってはみるものの、あまりのそれは恥ずかしい……。ところで写真の宇治金時は、一つ5,500円也。550円の誤記ではありません。何故なのかは、おわかりですよね。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

【氷水】 こおりみず(コホリミヅ)
◇「かき氷」 ◇「氷売」 ◇「氷苺」 ◇「氷小豆」 ◇「削り氷」 ◇「みぞれ」

削った氷に、蜜や種々のシロップで甘みをつけた夏の飲み物。昔ながらの氷店はあまり見かけなくなったが、喫茶店などで「氷」と書かれた旗や幟を見かけると、一種の郷愁を誘われる。入れるシロップなどにより「氷苺」「氷小豆」などの種類がある。

例句 作者

国原の鬼と並びてかき氷 柿本多映
美しき虚のもりあがりかき氷 中嶋秀子
兄以上恋人未満掻氷 黛まどか
氷水世間に疎くなりにけり 大場白水郎
一匙の脳天衝けり夏氷 能村登四郎
親しさにふと翳のさすかき氷 丸山しげる
俳諧はさびしや薬缶の氷水 藤田あけ烏
物言はぬことの愉しくかき氷 永方裕子
海猫ないて氷水置く卓のゆれ 金尾梅の門
眼底を暗めて氷水食ぶ 土井百合子
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短夜や拗ねし女に投げし匙 中村哮夫

2019-07-18 | 今日の季語


短夜や拗ねし女に投げし匙 中村哮夫

季語は「短夜」で夏。作者はミュージカルの演出家だから、稽古の情景だろう。厳しい注文を付けているうちに、女優が臍を曲げてしまった。女性が「拗(す)ね」ると、たいていは黙りこくってしまい、手に負えなくなる。なだめすかしてみても、だんまりを決め込んで、テコでも動かない。幕を開ける日まであとわずかしかないというのにと、作者は苛々している。ましてや、夜も短い。いたずらに無駄な時間が過ぎてゆくばかり。そこで、ついに「投げし匙(さじ)」となった。どうとも勝手にしろ。怒りが爆発した。その場に「匙」があったら、本当にぶつけかねないほどの苛立ちだ。といっても、むろん即吟であるはずはなく、そういうこともありきと懐かしく回想しているので、中身に救いがある。それにしても、この匙は奇妙なほどに生々しい。たぶん、それは私が男だからだろう。思い当たる匙の一本だからである。稽古中に物を投げるといえば、若き日の(今でも、かな)蜷川幸雄の灰皿投げが有名だ。本当に投げたのかと、ご当人に聞いてみたことがある。「野球で鍛えたからね、コントロールには自信があった」。つまり、投げたのは事実だが、ちゃんと正確に的を外して投げたということ。口直しに(笑)、同じ作者の上機嫌な句を。「夏空やいでたち白き松たか子」。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)

【短夜】 みじかよ
◇「明易し」(あけやすし) ◇「明早し」 ◇「明急ぐ」

春分の日を境に昼が長くなり、夏至には夜が最も短くなる。短い夜を指す言葉であるが、物理的な長短よりも明け易い夏の夜を惜しむ気持が込められた季語である。(日永:春、夜長:秋、短日:冬)

例句 作者

海亀の産卵の浜明易し 矢澤賢一
明易の始発駅より旅立ちぬ 田中延幸
短夜の明けたるこむらがへりかな 佐  愛
初恋は貘の餌となり明け易し 佃 藤尾
象潟や苫屋の土座も明やすし 曾良
短夜のあけゆく水の匂かな 久保田万太郎
明易し妻問ひ婚のむかしより 仁尾正文
明易し備後赤坂塵もなく 小川三補子
寝返れば思ひ寝返る明易し 金井苑衣
寝袋の中の寝返り明易し 岡部玄治
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長刀鉾ぐらりと揺れて動き出づ 長谷川櫂

2019-07-17 | 今日の季語



長刀鉾ぐらりと揺れて動き出づ 長谷川櫂


祇園祭での写生と感動
ぐらりと揺れて ここが全てを物語る
たくさんの発見の中で作者はこれを切り取っ也 (たけし)


祗園会(ぎおんえ、ぎをんゑ) 晩夏

【子季語】
祗園祭、祗園御霊会、山鉾、祗園囃、二階囃、神輿洗、宵山、宵飾、無言詣、鉾立、鉾町、鉾祭、鉾の稚児、長刀鉾、月鉾、船鉾、弦召、祗園太鼓、祗園山笠
【解説】
京都東山八坂神社の祭礼。祇園祭、祇園御霊会とも言われる。七月一日の吉符入から、くじ取り、神輿洗、鉾建、宵山、山鉾巡行、花傘巡行、疫神社夏越祭と七月中、連日行事が続く。七月十七日の山鉾巡行で最高潮を迎える。
【来歴】
『毛吹草』(正保2年、1645年)に所出。
【文学での言及】
かさにさす山鳥の尾のながき日に神のそのとぞ今日祭るらむ 民部卿為家『夫木抄』
【実証的見解】
祇園祭に仕える人はみな「蘇民将来の子孫なり」という護符をつけて祭りに参加する。蘇民将来は八坂神社の祭神スサノオの命に旅の宿を貸し、その礼に疫病退散のご利益をいただいた人物。祇園祭は平安時代の初期に悪疫退散を祈願に始められた祭礼である。「蘇民将来」の護符は、疫病の退散を願う祇園祭にふさわしいものといえる。

【例句】

鉾にのる人のきほひも都かな 其角 「華摘」

祇園会や京は日傘の下を行く 蓼太 「蓼太句集初編」

祇園会や真葛が原の風かほる 蕪村 「蕪村句集」

ぎをん会や僧の訪よる梶が許 蕪村 「蕪村句集」

我子にて候へあれにほこの児 大江丸 「俳懺悔」

長刀鉾ぐらりと揺れて動き出づ 長谷川櫂 「蓬莱」
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あらはなる脳うつくしき水着かな 高山れおな

2019-07-16 | 今日の季語


あらはなる脳うつくしき水着かな 高山れおな

最小限の衣服とも呼ぶべき「ビキニ」。それを身につけた状態は「肌もあらはに」という言葉の領域をはるかに越えている。「これはもう裸といえる水着かな」(大野朱香)だとすれば、どんな具合に形容すればよいのだろうか。いささかの皮肉をまじえて、作者は「脳もあらはに」とやってみた。言い当てて妙と私は支持したいが、どうだろう。この水着について「最初の水爆が投下された三平方キロの小島が、ついに到達したぎりぎり最小限の衣服と同じくビキニという名であることは、充分考慮に値する。いささか不気味なウイットである」と書いたのは、ヘルマン・シュライバーというドイツ人だった(『羞恥心の文化史』関楠生訳)。彼によれば、ベルリンの内務省は1932年に次のような警告を発している。「女子が公開の場で水浴することを許されるのは、上半身の前面において胸と体を完全に覆い、両腕の下に密着し、両脚の端の部分を切り落とし、三角形の補布をあてた水着を着用する場合にかぎられる。水着の背のあきは、肩甲骨の下端を越えてはならない……いわゆる家族浴場においては、男子は水着(すなわちパンツと上の部分)を着用することを要する」。この警告からビキニの世界的な普及までには、三十年程度しかかからなかった。ビキニは、二十世紀文化を「脳もあらはに」象徴する記念碑的衣服の一つということになる。俳誌「豈」(32号・2000年5月)所載。(清水哲男)



【海水着】 かいすいぎ
◇「水着」 ◇「海水帽」
海水浴・水泳のときに着る衣服。水着。

例句 作者

恐るおそる水着の妻を一瞥す 田辺博充
海水着濡らし切るまで手をつなぎ 行方克己
胸まではしづかに濡らす水着かな 三垣 博
父と子の水着あゆめり逗子銀座 草間時彦

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艶めくや女男と冷蔵庫  村岸明子

2019-07-15 | 今日の季語


艶めくや女男と冷蔵庫  村岸明子

季語は「冷蔵庫」で夏。むっ、こりゃ何だ。ぱっと読んだだけでは、わからなかった。雑誌などでたくさんの句を流し読んでいるうちに、そんな思いで目に引っかかってくる作品がある。わからないのなら飛ばしてしまえばよいものを、気にかかったまま次へと読み過ごすのも癪なので、たいていはそこで立ち止まって考える。そんな性分だ。いや、損な性分かな。掲句もその一つで、しばし黙考。なかなか解けないので、煙草に火をつける。と、やがて紫煙の向うから、この女と男の情景がぼんやりと姿を現してきた。そうか、そういうことなのか……。なるほど「艶めく」はずである。現われた情景は、電化製品売り場だった。そこで、若いカップルが「冷蔵庫」を選んでいる。ただそれだけの図なのだが、通りかかった作者には、その「女」が妙に艶めいて見えたのだった。これがたとえば書籍売り場だったりしたら、そういうふうには見えないだろう。冷蔵庫は、生活のための道具である。つまり、生活の匂いがある。それを二人で選んでいるということは、二人が同じ家で共に暮らそうとしているか、既に暮らしている事を前提にしているわけだ。だから、他の場所だったら何気なく見逃してしまうはずの見知らぬ「女」に目が行き、表情の微細な「艶」までを読み取ったのである。冷蔵庫を二人で選ぶという行為には、公衆の面前ながら、そこからもう二人きりの生活がはじまっていると言ってもよい。女性が艶めくのも、当然といえば当然だろう。句として少々こなれが悪いのは残念だけれど、突いているポイントは鋭い。俳誌「貂」(2005年8月・第119号)所載。(清水哲男)



冷蔵庫
2010/03/26
れいぞうこ/れいざうこ
三夏
氷冷蔵庫/電気冷蔵庫/ガス冷蔵庫

食品や飲料を冷しておくためのボックス型の器。今では西瓜など丸ごと冷せるほど大型化している。



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巴里祭モデルと画家の夫婦老い 中村伸郎

2019-07-14 | 今日の季語


巴里祭モデルと画家の夫婦老い 中村伸郎

季語は「巴里祭(パリ祭)」で夏。読みは「パリーさい」。七月十四日、フランスの革命(1789)記念日である。ルネ・クレールの映画『七月十四日』が、日本では『巴里祭』と訳され紹介されたことに由来する命名だ。したがって、日本でのこの日は、血なまぐさい革命からは遠く離れた甘美な雰囲気の日として受容されてきた。そして、パリは20世紀の半ば過ぎまで、日本の芸術家にとって憧れの都であり、とりわけて画家たちの意識のうちには「聖都」の感すらあったであろう。美術史的な意義は省略するけれど、実際にパリに渡った青年画家たちの数は数えきれないほどだったし、掲句のようなカップルが誕生することも自然のことだったと思われる。とはいえ、句のカップルがフランス女性と日本男性を指しているのかどうかはわからない。日本人同士かもしれないが、しかし、二人の結びつきの背景には、こうしたパリへの憧れや情熱を抜きにしては語れないことからの季語「巴里祭」なのだ。その二人が、かくも老いてきた。そして、他ならぬ自分もまた……。作者は、たぶん文学座の役者で小津映画にもよく出ていた「中村伸郎」だろう。そう思って読むと、句の物語性はかなり舞台的演劇的である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)

【パリ祭】 ぱりさい
◇「パリー祭」 ◇「巴里祭」(ぱりさい)
7月14日のフランス革命記念日(カトールズ・ジュイエ)の日本での呼称。この祭日後、多くのパリ市民は避暑に出かける。
例句 作者
ネクタイは逆ストライプ巴里祭 和泉屋石海
サンダルの革紐きつき巴里祭 磯貝碧蹄館
籠の鳥高く鳴き交ふパリー祭 小林恭子
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いくたびか馬の目覚める夏野かな 福田甲子雄

2019-07-13 | 今日の季語


いくたびか馬の目覚める夏野かな 福田甲子雄

この馬、どういう状態にいるのか。行軍の記憶のようでもあり、旅のイメージも感じられるし、夏野を前景として厩の中にいる馬の様子のようでもある。目覚めという言葉から加藤楸邨の代表句で墓碑にも刻まれている「落葉松はいつ目覚めても雪降りをり」が浮かぶ。手術後の絶対安静の状態で見た夢ともうつつともつかない風景というのが定説だが、僕には墓に刻まれていることもあって、楸邨が墓の中で眠っては目覚めの繰り返しを永遠に重ねているようにも思える。そういう目覚めを考えていたら、甲子雄さんの句は人に尽くしたあげく野に逝った無数の馬の霊に思えてきた。馬頭観世音の句だ。『金子兜太編・現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)

夏野(なつの) 三夏

【子季語】
夏野原、夏の原、青野、卯月野、五月野

夏野といえば美ヶ原とか富士の裾野など、広々としたところが思い描がかれる。風が渡ると青々と生い茂った草が、いっせいに靡いて大海原のようでもある。

【例句】

巡礼の棒ばかり行く夏野かな 重頼 「藤枝集」

馬ぽくぽく我を絵に見る夏野かな 芭蕉 「水の友」

もろき人にたとへむ花も夏野かな 芭蕉 「笈日記」

秣負ふ人を枝折の夏野哉  芭蕉 「陸奥鵆」

我ひとり行くかと思ふ夏野かな 二柳 「やまかけ集」

一すぢの道はまよはぬ夏野かな 蝶夢 「露の一葉」

絶えず人いこふ夏野の石一つ 正岡子規 「子規句集」

夏の行きつくしぬ大河横たはり 石井露月 「露月句集」

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円涼し長方形も亦涼し 高野素十

2019-07-12 | 今日の季語



円涼し長方形も亦涼し 高野素十

猛暑の折りから、何か涼しげな句はないかと探していたら、この句に突き当たった。しかし、よくわからない。素十は常に目に写るままに作句した俳人として有名だから、これはそのまま素直に受け取るべきなのだろう。つまり、たとえば「円」は「月」になぞらえてあるなどと解釈してはいけないのである。円も長方形も、純粋に幾何学的なそれということだ。いわゆる理科系の読者でないと、この作品の面白さはわからないのかもしれない。円や長方形で涼しいと感じられる人がいまもいるとすれば、私などには心底うらやましい昨今である。ふーっ、アツい。『空』(ふらんす堂・1993)所収。(清水哲男)


【涼し】 すずし
◇「涼気」 ◇「朝涼」(あさすず) ◇「夕涼」(ゆうすず) ◇「晩涼」(ばんりょう) ◇「夜涼」(やりょう)

夏の暑さの中にあって一服の涼気はことのほか心地よいものである。涼を最も求めるのは夏であることから夏の季語とされる。

例句 作者

晩涼や夫とは別の灯に過ごし 佐藤芙美子
壺涼し灼熱の火に歪みたる 大野雑草子
涼しさの頸をのべたる白鳥座 藤村真理
家涼し大き梁のもとに坐し 富永寒四郎
汽笛涼し川も列車も急カーブ 松室美千代
さざめきのなかへ柝の入る涼しさよ 矢島久栄
母ひとり住みて涼しき草屋かな 石井桐陰
すくひ売る豆腐涼しくすべらせて 牧野春江
花の実の中垣涼し梨子の窓 鬼貫
大声を上げて涼しくなりにけり 日下部宵三
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いまのさき夏柑剥きし指ならむ 草間時彦

2019-07-11 | 今日の季語




いまのさき夏柑剥きし指ならむ 草間時彦

【夏蜜柑】 なつみかん
◇「夏柑」 ◇「夏橙」
夏蜜柑は通常「夏橙」あるいは「夏柑」を指す。秋、黄色に熟すとそのまま木になっており、翌年の晩春から初夏にかけて食用にされる。酸味が強いのが特徴だが、改良により最近では甘夏柑が主流となっている。

しみ~と溶くる砂糖や夏蜜柑 日野草城
たかし忌の甘夏蜜柑偽れる 石川桂郎 高蘆
まるつきりつむり見えたる夏蜜柑 岡井省二 鯨と犀
ラテン語の風格にして夏蜜柑 橋閒石 微光
人妻の爪たてけぶる夏蜜柑 鷹羽狩行
佛頭の前に夏柑不即不離 百合山羽公 樂土
口荒るるまで夏蜜柑吸ふひとり 鷹羽狩行
夏みかん手に海を見る場所探す(金石海岸二句) 細見綾子
夏みかん歯ぐきにしみて水平線(金石海岸二句) 細見綾子
夏みかん燦爛として酸し籠に 山口青邨
夏みかん西方に手を打てるなり 岡井省二 有時
夏みかん諏訪の訛をきみもいう 古沢太穂 古沢太穂句集
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蝸牛天を仰いで笑い出す吉田香津代

2019-07-10 | 今日の季語


蝸牛天を仰いで笑い出す吉田香津代

季語は「蝸牛(かたつむり)」で夏。どう受け取ったら良いのか、半日ほど思いあぐねていた。想像の世界にせよ、蝸牛に「笑い」は結びつけにくいからだ。漫画化されたキャラクターを見ても、せいぜいが微笑どまりで、「笑い出す」様子にはほど遠い。私たちの常識的な感覚からすると、蝸牛は忍従の生き物のようである。ひたすら何かにじっと耐えていて、不平や不満もすべて飲み下し、日の当らないところで静かに一生を終えていくという具合だ。そんな蝸牛が、あるとき突然に「天を仰いで笑い出」したというのだから、ギクリとさせられる。しかもこの笑いは、どう考えても明るいそれではなく、むしろ悲鳴に近い笑いのようにしか写らない。今風の言葉で言えば、この蝸牛はこのときついに「切れた」のではなかろうか。そう考えると、実際に「切れた」のは蝸牛ではなく、作者その人であることに気がつき、ようやく句の姿が見えてきたように思えたのだった。いや、より正確に言えば、作者の何かに鬱屈した心が自身で切れる寸前に、蝸牛に乗り移って「切れさせた」のである。絶対に笑い出すはずのない蝸牛を思い切り笑わせることで、作者の抑圧された心情を少しは解きほぐしたかったのだと見てもよいだろう。と思って蝸牛をよくよく見直すと、もはやヒステリックな笑いは消えていて、おだやかな微笑に変わっている。……違うかなあ、難しい句だ。『白夜』(2005)所収。(清水哲男)

【蝸牛】 かたつむり
◇「かたつぶり」 ◇「ででむし」 ◇「でんでんむし」 ◇「蝸牛」(かぎゅう) ◇「まいまい」
マイマイ目の有肺種で、よく知られている陸生の巻貝。螺旋形の殻を負い、頭に屈伸する二対の角がある。フランスではこの一種のエスカルゴを珍重して食べる。「まいまい」「ででむし」「でんでんむし」などとも呼ばれる。
例句 作者
牧に降る雨は明るし蝸牛 嶋田一歩
蝸牛いまに飛び立つかも知れず 秋本恵美子
安心の角のばしきる蝸牛 阪本謙二
三畳の書斎に足りて蝸牛 岩崎健一
身の透けて仏の山のかたつむり つじ加代子
神を疑ひしでで虫ころげ落ちにけり 成瀬櫻桃子
雨あとの時を豊かにかたつむり 棚山波朗
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部屋ぬちへ小暑の風の蝶ふたたび 皆吉爽雨

2019-07-07 | 今日の季語




小暑】 しょうしょ(セウ・・)


二十四節気の一つで、7月7日頃に当る(夏至の15日後)。この日から暑気に入る。北海道を除き、梅雨明を前に大雨が降ることも多い。

例句 作者

部屋ぬちへ小暑の風の蝶ふたたび 皆吉爽雨
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月山の水に泳げや冷奴  丸谷才一

2019-07-06 | 今日の季語


月山の水に泳げや冷奴  丸谷才一

月と水と冷奴ーー文字づらからして、涼味満点と言っていい夏の句である。敢えて「夏は冷奴にかぎる」と、この際言わせてもらおう。月山の名水に月のように白く沈む冷奴は、いかにもおいしそうである。詞書に「うちのミネラル・ウォーターは『月山ブナの水音』といふ銘柄」とあるから、作者が愛飲していた故郷の水であろう。月山を源流とする庄内の立谷沢川は“平成の名水百選”であり、水も冷奴もいかにもおいしそうだ。「泳げや冷奴」とは「泳げや才一」という、自身への鼓舞の意味と重ねているようにも私には思われる。才一は山形県鶴岡出身の人。ここでは名水を得て泳ぐ冷奴が喜々としているように映る。そういえば、山形で私も何度か食べた豆腐は、冷奴に限らずいつもおいしかった記憶が残っている。水が上等だから豆腐もおいしいわけである。掲句は第一句集『七十句』に継ぐ遺句集『八十八句』(2013)に収められている。長谷川櫂の選句により、104句が収められた非売品。才一の俳号が「玩亭」だったところから、墓碑銘も「玩亭墓」。他に「ばさばさと股間につかふ扇かな」の句がある。(八木忠栄)

冷奴】 ひややっこ
◇「冷豆腐」 ◇「水豆腐」 ◇「奴豆腐」
豆腐を四角く小口に切り、冷水や氷で冷し、生醤油におろし生姜・紫蘇などの薬味を添えて食べる。やっこの起源は、江戸時代の中元(奴)の四角い紋の連想からだというが、定かではない。冬の「湯豆腐」と並んで豆腐の代表的な食べ方である。

例句 作者

山中や朝しらたまの冷豆腐 上田五千石
冷奴隣に灯先んじて 石田波郷
寝てしまふ子の頼りなし冷奴 長谷川かな女
もち古りし夫婦の箸や冷奴 久保田万太郎
忽ちに雑言飛ぶや冷奴 相馬遷子

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スリッパのまま誰ぞすててこ穿かんとす 大住日呂姿

2019-07-05 | 今日の季語


スリッパのまま誰ぞすててこ穿かんとす 大住日呂姿

季語は「すててこ」で夏。命名は、明治期に三遊亭円遊が寄席で踊った「すててこ踊り」に由来するという。汗を吸い取ってくれる、だぶだぶの男物の下穿きだ。最近はズボンの線が崩れるとかで、穿(は)かない男が多い。最初に公然と「ダサい」と言ったのは、デビュー当時の加賀まりこだった。それはともかく、作者は「誰ぞ」ととぼけてはいるけれど、むろん自分だろう。よほどあわてていたのか、普段はこんなにおっちょこちょいではないのに、何故かなあと苦笑している。温泉場などでは、よくやってしまいそうな失敗だ。作者の本意はこれまでだろうが、私は笑ったと同時に、笑ってすまされないものも感じてしまった。還暦くらいの年齢になってくると、この種のことをしばしば引き起こすようになるからだ。身体が自然に覚えているはずの手順が、ときとして狂ってくる。そのたびに苦笑しながらも、だんだん笑い事でもなくなってくるのだ。そこで、あらかじめ手順を頭の中で組み立てて反芻しながら、いかにも自然を装いつつ行動に移す。温泉場なら、すててこを穿いてからスリッパを履き、穿いたら使ったタオルなどをきちんとして……。こういう手順をあらかじめ想定しておかないと、何かをやらかしたり忘れたりしてしまう。もちろん一事が万事ではないが、こういうことが徐々に増えてくる。そんな自分を思いつつもう一度掲句を読むと、「誰ぞ」はまぎれもなく「私」であることになる。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)

【甚平】 じんべい
◇「甚兵衛」(じんべえ) ◇「じんべ」
「陣羽織」「陣兵羽織」の転用といわれる。男子用の袖無し羽織の名称で、形は冬期のちゃんちゃんこなどと同じ。現在は麻や薄手の布で作られ、夏期に関西地方で、老人や子供用に多く用いられる。

例句 作者

甚平を着て今にして見ゆるもの 能村登四郎
甚平を着て今にして見ゆるもの 能村登四郎
甚平やこころざしなほ衰へず 佐藤 忠
酢の飯を扇ぐ余生の甚平かな 河西みつる
甚平着て何やらゆとりとり戻す 藤田柾実
酢の飯を扇ぐ役目の甚平かな 河西みつる
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メロンほど淡き翳もち夏の山羊 冬野 虹

2019-07-04 | 今日の季語


メロンほど淡き翳もち夏の山羊 冬野 虹

山羊は数千年も前から中近東で飼育されていたらしい。痩せた土地でも育てられる頑強さに加え、肉や乳がおいしいことが家畜として長く飼われるようになった理由なのだろう。日本でも昭和30年代初期には60万頭もの山羊が飼育されていたそうだから、農村に山羊がいる風景は別段珍しくなかったかもしれない。けれども身近に山羊を知らないものにとって、この動物はちょっと不気味で不思議な存在だ。例えば山羊の瞳は縦ではなく細い三日月を横に寝かせたような形をしている。広く水平に見渡せるよう横一文字のかたちになっているそうだけど、あの目に映る風景はどんなだろう?円盤のように平べったく横に広がっているのだろうか。掲句ではその山羊の翳に焦点があてられている。つややかな若葉を透かした木漏れ日が、ちらちら地面に躍る夏の午後。新緑は真っ白な山羊の身体にも淡いメロン色の光を落としているのだろう。薄緑の光が差す状態を山羊そのものの翳と表現したことで、初夏の明るい空気の中にいる山羊をパステル画のように淡くきれいに描き出している。画家でもある作者にとっては絵画での表現と言葉での表現は別個のものだったろうが、色や形を捉える鋭敏な感性が俳句の表現にも生かされているように思う。『雪予報』(1988)所収。(三宅やよい)


【夏の山】 なつのやま
◇「夏山」 ◇「夏嶺」(なつね) ◇「青嶺」

「蒼翠滴るが如し」(臥遊録)と形容されるように、夏の山は緑に包まれ、多くの人々が登山を楽しむのが夏である。夏の山は爽快である一方、天候などにより実に様々な態を示す。「青嶺」も夏山を表し、近年よく句に読まれる言葉である。

例句  作者
夏山や又大川にめぐりあふ飯田蛇笏
青嶺照る重たき椅子に身を沈め 沢木欣一
夏山の重なりうつる月夜かな 長谷川かな女
夏山に遇ひし乙女ら楽器負ふ 西田浩洋
 借景の夏山となりおほせたる 行方克己
青嶺立つ茶房に双眼鏡置かれ 中田尚子
夏山や通ひなれたる若狭人 蕪村
大岩のどこより降つて夏の山 石田勝彦
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美しき緑はしれり夏料理   星野立子

2019-07-03 | 今日の季語


美しき緑はしれり夏料理   星野立子

さわやかな句です。「美しき」から吹いてくる微風を、そのまま全体へ行き渡らせています。夏料理というと、真っ先に思い浮かぶのが冷たいもの、冷麦やそうめんですが、緑という語からすると、むしろ野菜類、ピーマンやパセリをさしているのかもしれません。最近は、夏カレーという言葉もありますから、食欲を増すために香辛料をきかせた、野菜たっぷりのカレーであってもよいでしょう。「はしれり」という動きを伴った語は、白い皿の海の上を、緑の野菜が帆を張って動くさまを想像させます。もともと「食べる」という行為は、生きることの根源に関わるものですから、表現者にとっては抜き差しならないテーマであるわけです。しかし、ここではもちろん、「生き死に」から遠い距離を持ったものとしての食事が描かれています。「緑はしれり」といえば、もうひとつ思い浮かぶのが、白いそうめんに入っている緑や赤の数本の麺です。流しそうめんであれば、まさしく「緑はしれり」となるわけです。しかし、この色つき麺は、もとはそうめんと区別するために冷麦だけにまぜたもののようです。それがのちには、そうめんにも入ったというのですから、もう、なんの意味もないわけです。なんの意味もないからこそ、緑はまさしく緑であり、わたしたちの目の中を、美しくはしるのです。『俳句への道』(1997・岩波文庫)所載。(松下育男)

【夏料理】 なつりょうり(・・レウリ)
見た目にも涼しく、さっぱりした夏向きの料理の総称のこと。

例句 作者

お絞りの熱きがよろし夏料理 水木夏子
川上に雨のありたる夏料理 青山克子
美しき緑走れり夏料理 星野立子
夏料理燦たり暮れゆく河口背に 楠本憲吉
川甚に来れば雨やむ夏料理 村山古郷
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