竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

脚長き少女に馬鈴薯(じやがいも)蹴散らさる 中尾和夫

2019-08-30 | 今日の季語


脚長き少女に馬鈴薯(じやがいも)蹴散らさる 中尾和夫


ありそうな景ではあるが
一昔まえであれば顰蹙ものであったろう
脚長き少女 戦後の復興の結果そのものを暗示させる
馬鈴薯を蹴散らす
作者は少女を非難するのではなく
この様をみながら現在の飽食の時代をしみじみおと感じているのだろう
(小林たけし)

【馬鈴薯】 じゃがいも
◇「じやがたらいも」 ◇「馬鈴薯」(ばれいしょ)
南米原産で16世紀末に渡来。地下に生じた多数の塊茎を料理や澱粉の原料に使う。栽培が容易であることから、世界に広まった。

例句 作者

じゃがいもころころホラ吹き男爵もいる 普川洋
わが馬鈴薯うまれた土にごろごろと 和知喜八
バター溶けて男爵薯の崩壊感 吉川葭夫
万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奧坂まや
寄宿舎の馬鈴薯三個で学問す 宮本修伍
掘り上げしじやがいも大地の力瘤 岡本晴美
田の母よぼくはじゃがいもを煮ています 清水哲男

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石たたきお調子者と言われても 杉本青三郎

2019-08-29 | 今日の季語


石たたきお調子者と言われても 杉本青三郎


鶺鴒のおちつきのない細やかな動き
尾羽を休みなく上下に動かすさまは
調子をとっているかにも見えるが
それは動きではなく鶺鴒の生来の性格なのだと気づく
はてそれって私もそうではないのかな
(小林たけし)



鶺鴒】 せきれい
◇「背黒鶺鴒」 ◇「黄鶺鴒」 ◇「白鶺鴒」(はくせきれい) ◇「石たたき」 ◇「庭たたき」
セキレイ科の鳥の総称で、白鶺鴒、黄鶺鴒、背黒鶺鴒など。黄鶺鴒は腹が黄色。長い尾を持ち、石を叩くように絶えず尾を上下に動かす習性がある。

例句 作者

この頃の時鐘どうした石叩き 斎藤昌子
よき川のいよよつめたき黄鶺鴒 岡井省二
十字架の空がぶかぶか石叩 四方万里子
山側にせぐろせきれい目が弱る 原田やすひこ
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手足あることの暗さを衣被 塩野谷仁

2019-08-28 | 今日の季語


手足あることの暗さを衣被 塩野谷仁


難解なと思えば難解、なーんだそうかと軽い解釈も可能だ
私は軽い解釈をして好もしい一句としている

手足あるが故の不自由、手足なきことの不自由
どこに変わりがあるというのか

衣被との取り合わせに変わる者は見当たらない
(小林たけし)

【衣被】 きぬかつぎ
里芋のこぶりなものを皮のまま塩味でゆでたもの。名月に欠かすことができない。主として関東の風習で、茶店に用意してある。

例句 作者


つみとがは人にこそあれ衣被 長峰竹芳
悉く全集にあり衣被 田中裕明
東京に何の負ひ目ぞ衣被 亀田蒼石
母の忌の一男六女衣被 伊藤保子
衣かつぎが好きで抜けない国訛 佐々木栄子
衣かつぎ盛られ小石の顔となる 高桑婦美子
衣被つるりと今日の終りかな 山口伸
衣被ほこほことある妻の膝 松本詩葉子
衣被我とおぼしき夜さりの老 武田伸一
衣被月には被きしままがよし 荻野千枝
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山ばかりつづくしこ名や草相撲 門司玄洋人

2019-08-27 | 今日の季語


山ばかりつづくしこ名や草相撲 門司玄洋人

相撲は秋の季語。桓武天皇の時代から、宮中での相撲節会が、陰暦七月の終わり頃に行われてきたことによる。ところで、相撲の句というと、ひいきの力士が勝負に負けた哀感や、老いた相撲取りの姿などを詠むことが多い。力勝負の世界では、弱者のほうが絵になりやすいからだ。そんななかで、この句はあっけらかんと異色である。下手くそで弱いくせに、出てくる奴はみな「……山」と強そうな名前ばかり。鼻白んでいるのではなく、作者はむしろ呆れている。しかし、それが草相撲の楽しさであるとも言っている。いまの大相撲でも「武双山」「旭鷲山」「雅山」「千代天山」など「山」のつく力士は多く、やはり動かざること山のごとし、というイメージにこだわった結果なのか。反対に、最近影が薄いのは「川」の名だろう。「海」はあるが、「川」はほとんど見られなくなった。私が好きだった上手投げの名人「清水川」の頃には、「川」を名乗った力士は沢山いたけれど、現在の幕内には一人もいない。川は抒情的に過ぎるからだろうか、それとも水質汚染のせいで嫌われるのか。しこ名にも、流行があるようだ。(清水哲男)

相撲】 すもう(スマフ)
◇「九月場所」(くがつばしょ) ◇「角力」 ◇「宮相撲」 ◇「草相撲」 ◇「相撲取」 ◇「土俵」
宮廷では初秋の行事として、相撲節会(すまいのせちえ)が行われたため、秋の季語。年の豊凶を占う神事であったが、その後職業相撲が発達、興行化された。現在は東京国技館で9月中の15日間に開かれる相撲を「秋場所」といい、これも季語とする。

例句 作者

少年の白きししむら宮相撲 伊藤 妙
負まじき角力を寝ものがたり哉 蕪村
やはらかに人わけゆくや勝角力 几菫
相撲取ならぶや秋のからにしき 嵐雪
秋場所や退かぬ暑さの人いきれ 久保田万太郎
二日まけて老といはれる角力取 松瀬青々
秋場所や霧の中なる幟数 山田土偶
みやこにも住みまじりけり相撲取 去来
宿の子をかりのひいきや草相撲 久保より江

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案山子たつれば群雀空にしづまらず  飯田蛇笏

2019-08-26 | 今日の季語


案山子たつれば群雀空にしづまらず  飯田蛇笏

憎っくき雀どもよ、来るなら来てみろ。ほとんど自分が案山子(かかし)になりきって、はったと天をにらんでいる図。まことに恰好がよろしい。風格がある。農家の子供だったので、私にも作者の気持ちはよくわかる。一方、清崎敏郎に「頼りなくあれど頼りの案山子かな」(『系譜』所収)という句がある。ここで蛇笏と敏郎は、ほぼ同じシチュエーションをうたっている。されど、この落差。才能の差ではない。俳句もまた人生の演出の場と捉えれば、その方法の差でしかないだろう。どちらが好ましいか。それは、読者が自らの人生に照らして決めることだ。『山盧集』所収。(清水哲男)



【案山子】 かがし
◇「かかし」 ◇「捨案山子」
農作物を鳥獣の害から避けるための手段。人形に蓑や笠を着せたりした、一本足の棒で田畑に立てる。古くは鳥獣の肉や毛を焼き、その悪臭を嗅がせて追い払ったことから「嗅(か)がし」と言った。

例句 作者
流行の黒づくめなる案山子かな 松木幸子
倒れたる案山子の顔の上に天 西東三鬼
捨案山子いのちの棒を横たへて 中村明子
あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく 内藤吐天
捨案山子こんなに空が広いとは 黒崎かずこ
停年の案山子を棒に戻しやる 高橋 良
傭兵の如くなびける種案山子 小林貴子
仆れたる案山子に強き泥の耀り 桂 信子
蒲生野の案山子は袖を振りゐたり 佐久間慧子

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流星やいのちはいのち生みつづけ  矢島渚男

2019-08-25 | 今日の季語


流星やいのちはいのち生みつづけ  矢島渚男

季語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)

【流星】 りゅうせい(リウ・・)
◇「流れ星」 ◇「星飛ぶ」
宇宙に漂う塵が大気中に入って燃焼・発光する現象。夜半に多く現れ、8月中頃の空に最も多い。流星というが、実体は宇宙の塵または砂粒とよぶべきもので、これが群となって夜空に現れ一瞬にして消えると星が飛ぶあるいは流れるように見えるのである。

例句 作者

流星や旅の一夜を海の上 下村ひろし
流星の尾の長かりし湖の空 富安風生
星流れ土偶の眼より波の音 菅野茂甚
流れ星何か掟を破りしや 有吉桜雲
星一つ命燃えつつ流れけり 高浜虚子
みごもりて流星さとく拾ひをり 菅原鬨也
夜遊びの記憶に星の流れけり 神田綾美
星飛ぶやどこまで行くも早寝村 いのうえかつこ
星流れ落葉松林すぐ目の前 服部多々穂
流星のつづけさまなる終列車 清水昇子
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音すべて大樹に吸はれ処暑の宮  大塚正路

2019-08-23 | 今日の季語


音すべて大樹に吸はれ処暑の宮  大塚正路

衰え始めた暑さに、いつもの神社に出向いた
人影もなく深閑とし佇まいは変わらないが
その静けさは爽やかで
あの真夏の喧騒も私の胸中の鳴動をも
宮の樹木が吸い取ってくれているようだ
(小林たけし)


【処暑】 しょしょ
二十四節気の一つ。立秋から15日目、8月23日、24日ころに当たる。猛暑もいよいよ衰えを見せ、新涼が間近いことをいう。

例句 作者

櫨の木の映りて処暑の水明り 深見かおる
家居してもの書く処暑の雨涼し 小倉英男
熱き茶を給はる処暑の峠かな 宮川杵名男
鳰の子のこゑする処暑の淡海かな 森 澄雄
処暑なりと熱き番茶を貰ひけり 草間時彦
山を見ていちにち処暑の机かな 西山 誠
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新涼や持てば生まるる筆の影  鷹羽狩行

2019-08-22 | 今日の季語


新涼や持てば生まるる筆の影  鷹羽狩行

気象庁では2日、今年の夏を異常気象と発表した。異常気象とは「過去30年の観測に比して著しい偏りを示した天候」と定義されているという。尋常でないと公認された暑さではあるが、それでも夕方はめっきり早く訪れるようになり、朝夕には季節が移る用意ができたらしい風が通うようになった。先送りにしていたあれこれが気になりだすことこそ、ようやく人心地がついたということだろう。酷暑のなかでも日常生活はあるものの、要返信の手紙類は「とりあえず落ち着いたら…」の箱に仕分けられ、そろそろかなりの嵩になっている。掲句では、手紙の文面や、送る相手を思う前に、ふと筆の作る影に眼がとまる。真っ白な紙の上に伸びた影が、より目鼻のしっかりした秋を連れてくるように思える。書かねばならないという差し迫る気持ちの前で、ふと秋を察知したささやかな感動をかみしめている。やがて手元のやわらかな振動に従い、筆の影は静かに手紙の上を付いてまわることだろう。『十六夜』(2010)所収。(土肥あき子)

秋風はまだ暑い最中に思い出したように吹いて来る
それほどの長い時間ではないのだが詩人は敏感だ
毎日使用する筆を持って座す
障子に映る己の影がいつもよりも涼し気に見えたのかも知れない
己が影を筆の影 にするところが鷹羽狩行的と言わさせられえる (小林たけし)

【新涼】 しんりょう(・・リヤウ)
◇「秋涼し」 ◇「秋涼」(しゅうりょう) ◇「初涼」(しょりょう) ◇「涼新た」

秋に入ってから立つ涼気をいう。夏の暑さが去り、新鮮な初秋の涼しさである。暑さの中に一服の涼を求める「涼し」(季:夏)とは区別される。

例句   作者

涼新た傘巻きながら見る山は 飯田龍太
新涼の畑のものを背負ひてくる 藤田あけ烏
新涼の六甲きのふより高し 中出静女
新涼の固くしぼりし布巾かな 久米三汀 
新涼の燈とわが影と畑にとどく 篠原 梵
新涼や舌をよごして筆おろす 榎本好宏
新涼や仏にともし奉る 高浜虚子
新涼や鎌の刃先に草の屑 池田秀水
新涼やたしなまねども洋酒の香 中村汀女
新涼や鼬見た人見ない人 飯島晴子
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大根蒔く来年も蒔く死ぬまで蒔く 伊藤政美

2019-08-21 | 今日の季語


大根蒔く来年も蒔く死ぬまで蒔く 伊藤政美

初秋の季語「大根蒔く」
絶滅しそうな季語だが
現代俳句協会のデータベースに1句だけ例句があってほっとした

掲句の句意は作者の深い祈りに似た思いを感じる
父祖から引き継いだ田畑
いのちあるかぎり守ろうとの気概もあらわだ

引き継ぐ次代への危惧もありそうだ (小林たけし)



【秋蒔】 あきまき
秋に植物の種子を蒔くこと。冬や春に収穫する野菜の種は8月中旬から10月に蒔く。秋に種を蒔くものとして菜種、大根、芥菜、芥子、さらに田の肥料となる紫雲英(れんげ)などがあり、それぞれ「蒔く」の語尾をとり、「菜種蒔く」「大根蒔く」「芥子菜蒔く」「芥子蒔く」「紫雲英蒔く」として季語となっている。

例句 作者

うしろから山風来るや菜種蒔く 岡本癖三酔
大根蒔くうしろの山に入る日かな 赤木格堂
峡の田にひとりとなりて紫雲英蒔く 森戸山茶花
大根蒔く短き影をそばに置き 加藤知世子
黒潮の黒の深まり菜種蒔く 延平いくと
菜種蒔くかそかなる音地に籠る 田中茅洋
秋蒔きの種子とてかくもこまかなる 能村登四郎
秋蒔きの土にやさしく月さしぬ 菅原鬨也
大根播く光の粒をこぼすかに 西尾玲子
天命の余白に大根蒔かんかな 清水能舟



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蓑虫や天よりくだる感嘆符! 小沢信男

2019-08-20 | 今日の季語


蓑虫や天よりくだる感嘆符! 小沢信男


蓑虫(みのむし)というと、たとえば「蓑虫の寝ねし重りに糸ゆれず」(能村登四郎)など、既にぶら下がっている状態を思うのが普通だろう。既にぶら下がっているのだから、蓑虫の動きは風による水平移動に限定される。「糸ゆれず」も、ゆれるとすれば左右への動きとなる。ところが、掲句は蓑虫の垂直の動きを捉えることで、私たちの観察の常識を破った。すうっと上から下ってきた蓑虫が静止した瞬間を、発止と捉えている。この鮮やかさ。その姿を「感嘆符!」に見立てた切れ味の鋭さ。「!」に見られる諧謔味も十分であり、同時に私たち人間のの感嘆が「天よりくだる」としか言いようのない真実を押さえて重厚である。掲句を読んだあとでは、ぶら下がっている蓑虫を見る目が変わってしまう。垂直に誕生してきた虫を思うことになる。つくづく、この世に俳句があってよかったと嬉しく思う一瞬だ。。作者にとっても、事はおそらく同様だろう。作者にとってのこの一句は、恩寵のように垂直に、それこそ「俳句の天」よりくだりきたものであるはずだからだ。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)



  俳句          作者名

ぶらり蓑虫けふは新聞休刊日 原田要三
まつさらな空気鬼の子ぶら下がる 野中久美子
みの虫のほめられもせずぶら下る 佐々木克子
みの虫の痴情 下弦の月にぶらさがる 前原東作
事なきに蓑虫顔を出して居る 秋葉紅陽
俺たちはみんな蓑虫空をみる 児山正明
午前中の蓑虫退屈で退屈で 田中不鳴
吹かれゐる気分蓑虫しか知らず 近藤栄治
恬淡を装ひてゐし蓑虫よ 大牧広
書き損じ「蓑虫ふう」にぬりつぶし 二郷愛
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晩年も西瓜の種を吐きちらす  木忠栄

2019-08-19 | 今日の季語


晩年も西瓜の種を吐きちらす  木忠栄

私にはもう、その心配はないけれど、見合いの席に出てくると困る食べ物が二つある。一つは殻つきの海老料理で、もう一つが西瓜だ。どちらも、格好をつけていては、食べにくいからである。海老に直接手を触れることなく、箸だけで処理して口元まで持ってくるような芸当は、とうてい私のよくするところではない。西瓜にしても、スプーンで器用に種を弾き出しながら上品に食べる自信などは、からきしない。第一、西瓜をスプーンですくって食べたって、美味くないだろうに。ガブリとかぶりついて、種ごと実を口の中に入れてしまい、ぺっぺっと吐きちらすのが正しい食べ方だ。吐きちらすとまではいかなくとも、種はぺっぺっと出すことである。私が子供のころは、男も女もそうやって食べていたというのに、最近は、どうもいけない。だから、句の作者も、そんな風潮に怒っている。この句は、ついに生涯下品であった人のことを詠んでいるのではない。俺は死ぬまで、西瓜の種を吐きちらしてやるぞという「述志」の句なのだ。事は、西瓜の種には止まらない。世の中のあれやこれやが、作者は西瓜の食べ方のように気にいらないのである。個人誌「いちばん寒い場所」30号(1999年8月15日付)所載。(清水哲男)

【西瓜】 すいか(・・クワ)
◇「西瓜畑」 ◇「西瓜番」

ウリ科の蔓性一年草。夏から秋にかけての代表的果実。球形または楕円形で大きく、多くは果皮に縞模様がある。果肉は赤、まれに黄色。甘く多汁。

例句 作者
喪ごころの西瓜を提げてゆきにけり 北崎珍漢
知らぬ子の顔も並んで西瓜切る 谷山ちさと
教師車座西瓜を割れば若さ湧く 能村登四郎
浮いてゐし西瓜の何と重きこと 菅谷たけし
門川に西瓜冷やせる講の宿 田中柚子香
太陽の色を閉ぢこめたる西瓜 藤井啓子
西瓜割る水辺の匂ひ拡げつつ 野澤節子
初島に船さしかかる西瓜かな 藤田弥生
西瓜売りにゆく夏帽がへらへらす 中島南北
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遠蜩何もせざりし手を洗ふ  友岡子郷

2019-08-18 | 今日の季語


遠蜩何もせざりし手を洗ふ  友岡子郷

何もしてないのにどうして手を洗うのだ、可笑しいな。という意味にとると日常の無意識の動作を詠んだ句になる。でもそれは何もしてない、汚れてもいないのに手を洗ったという面白くもないオチにもなる。この句は何もしていないことを喩として詠んでいる自己否定の句だ。ほんとうに自己否定している句は少ない。自己を戯画化しているようでどこかで自分を肯定している作品もある。こんなつまらねえ俺なんかに惚れてねえで嫁に行きやがれ、なんて昔の日活映画だ。俳句を自解する人も自句肯定の人だ。意図通りの理解を強く望んでいる。何もせざりしという述懐に作者の生き方、考え方が反映している。『黙礼』(2012)所収。(今井 聖)

【蜩】 ひぐらし
◇「かなかな」
晩夏から秋にかけて、暁方や夕暮れに鳴く蝉。カナカナ、カナカナと涼しく美しい一種哀調のある声で鳴く。《蝉:夏》

例句 作者

蜩のあけくれ山の町古りぬ 太田鴻村
書に倦むや蜩鳴いて飯遅し 正岡子規
蜩のひびかふ顔の暮るるなり 飯田龍太
ひぐらしや点せば白地灯の色に 金子兜太
かなかなや何かが遠くとほくなる 中田俊也
蜩の鳴く頃井水で甕満たす 大野林火
ひぐらしのこゑのつまづく午後三時 飯田蛇笏
蜩のやみて微塵の空のこる 富沢赤黄男
母の間はいつも点して夕かなかな 中村真千子
かなかなや手熨しに畳む嬰のもの 湯橋喜美

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戦には欠かせぬ軍手草茂る  たけし

2019-08-17 | 入選句


戦には欠かせぬ軍手草茂る  たけし

8月17日㈯ 日経新聞俳壇 茨木和生先生の選をいただきました
今年年頭からの投句で初めての入選でした

軍手という命名の由来は知りませんが
戦には欠かせぬものだった物として納得しています

戦後74年
重宝している軍手ですが
現在の戦は草との戦いです

汗を拭きながら平和を噛み締める
そんな句意を詠みました
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盆過ぎや人立つてゐる水の際  桂 信子

2019-08-16 | 今日の季語


盆過ぎや人立つてゐる水の際  桂 信子

旧盆が終わった。久しぶりに家族みんなが集まり親類縁者が交流しと、盆(盂蘭盆会)は血縁共同体のためのお祭りでもある。そのお祭りも、慌ただしくするうちに四日間で終わってしまう。掲句は、いわば「祭りの果て」の風情を詠んでいて巧みだ。死者の霊魂もあの世に戻り、生者たちもそれぞれの生活の場に帰っていった。作者はそんな祭りの後のすうっと緊張が解けた状態にあるのだが、虚脱の心と言うと大袈裟になるだろう。軽い放心状態とでも言おうか、日常の静かなバランスを取り戻した近辺の道を歩きながら、作者は川か池の辺にひとり立っている人の影を認めている。しかし、その人が何故そこに立っているのかだとか、どこの誰だろうだとかということに意識が向いているのではなく、ただ何も思うことなく視野に収めているのだ。私の好みで情景を勝手に決めるとすると、時は夕暮れであり、立っている人の姿は夕日を浴び、また水の反射光に照り返されて半ばシルエットのように見えている。そして、忍び寄る秋を思わせる風も吹いてきた。またそして、あそこの「水の際(きわ)」に人がいるように、ここにも私という人がいる。このことに何の不思議はなけれども、なお祭りの余韻が残る心には、何故か印象的な光景なのであった。今日あたりは、広い日本のあちこちで、同様な感懐を抱く人がおられるだろう。この種の風情を言葉にすることは、なかなかに難しい。みずからの「意味の奴隷」を解放しなければならないからだ。『草樹』(1986)所収。(清水哲男)

盆の月】 ぼんのつき


名月の一ヶ月前、すなわち陰暦七月十五日の月。その年の秋の最初の満月。地方によってはこの日に盂蘭盆会が営まれる。

例句 作者

町中の闇は城山盆の月 上﨑暮潮
山里の盆の月夜の明るさよ 高浜虚子
盆の月ひかりを雲にわかちけり 久保田万太郎
故郷に縁者の絶えし盆の月 橋本蝸角
盆の月海辺の墓に灯をともす 内藤吐天
盆の月山にちかくて山照らす 木附沢麦青
浴して我が身となりぬ盆の月 一茶
百姓の広き庭なり盆の月 川島奇北
山里は早寝早起き盆の月 五十嵐哲也
盆の月拝みて老妓座につき 高野素十
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秋風鈴老に新たなころざし たけし

2019-08-15 | 入選句


秋風鈴老に新たなころざし たけし



8月14日 朝日新聞の栃木俳壇に

石倉夏生先生の選をいただきました



13日14日と例年通りの家族旅行で14日夜10時過ぎに帰宅

新聞を観たのは今朝でした



15日は次女の誕生日で朝から家族間で

「おめでとう」のラインが賑やかに交錯しているところでした



掲句は文字通りで平明なものですが

軒のかすかな風鈴の音は夏のそれとは違って

もの哀しくもありしみじみとした趣もあって

老境の私には相応しいものとして気に入っています



平明な日常においても

健康寿命や家族間の平穏の継続を祈る気持ちやらの

思いもあって

これが私の「こころざし」でもあります
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