竹とんぼ

先達の秀句を味わいながら
自得の一句を求めて多作多捨です
古希すぎの晩学で楽しみながらの遅々緩歩です

サーファーのスローモーション秋落暉 たけし

2018-10-31 | 



サーファーのスローモーション秋落暉 たけし

サーファーは夏の主役だが
波の高くなる秋の海に挑んでいる

大きな落日を背に
黒いシルエットがゆっくりと
波とともに沈む

孤独に見えるサーファーは海の王子だ

3018年10月31日 朝日新聞 栃木俳壇 石倉夏生選入選
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鰯雲町の名いまもニュータウン たけし

2018-10-28 | 


鰯雲町の名いまもニュータウン たけし

空一杯に鰯雲
その下にひろがるたくさんの山、川
そして森羅万象

町は起こり広がる
そしてその役目は移ろい変化する

かって若い家族が子を産み育てたニュータウン
いまや老々介護の高齢者ばかり
それでも町の名は
〇〇ニュータウン
空には何も変わらず鰯雲

角川平成俳壇30-11入選 山田佳乃選
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どの顔も般若阿修羅や稲びかり たけし

2018-10-27 | 


どの顔も般若阿修羅や稲びかり  たけし


季節が少々遅れたが季語に「稲光」
稲妻の傍題とされる

山宿の夜の露天風呂に仲間とほろよいの気分で談笑していると
突然の今光
湯の中の仲間の顔が一瞬またたいて
おそろしい形相になった
みな般若になったり阿修羅になったりで息を呑む
ひょっとしたら平常こそが仮面で
こちらが本当の顔なのかともおもえる

2018.10.24 朝日新聞 栃木俳壇入選 石倉夏生選

【稲妻】 いなずま(・・ヅマ)◇「稲光」 ◇「いなつるび」
晴れた夜空に、雷鳴はなくただ電光だけが走る現象。これは遠方に起こった雷で、秋に多いく、稲をよく実らせるという俗説から稲妻という言葉が生まれたといわれる。
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一足の石の高きに登りけり  高浜虚子

2018-10-23 | 


一足の石の高きに登りけり  高浜虚子

陰暦九月九日(今年の陽暦では10月22日にあたる)は、陽数の「九」が重なるので「重陽」「重九」と呼び、めでたい日とする。その行事の一つが「高きに登る(登高)」ことで、秋の季語。グミを詰めた袋を下げて高いところに登り、菊の酒を飲むと齢が延びるなどとされた。したがって、「菊の節供」「菊の日」とも。元来は中国の古俗であり、今ではすっかり廃れてしまったが、この言い伝えを知っていた人は登山とまではいかずとも、この日には意識してちょっとした丘などの高いところに登っていたようだ。一種のおまじないである。「行く道のままに高きに登りけり」(富安風生)。掲句はその無精版(笑)とでも言おうか。用もないのにわざわざどこかに登りに行くのはおっくうだし、さりとて「登高」の日と知りながら登らないのも気持ちがすっきりしない。だったら、とりあえず一足で登れるこの石にでも登っておこうか。どこにも登らないよりはマシなはずである。というわけで、茶目っ気たっぷり、空とぼけた句になった。ただ、古来の習俗が形骸化していく過程には必ずこうした段階もあるのであって、その意味では虚子ひとりの無精とは言えないかもしれない。それが証拠に、たとえば草間時彦に「砂利山を高きに登るこころかな」の一句もある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

【高きに登る】 たかきにのぼる
◇「登高」(とうこう)
重陽に茱萸(ぐみ)を詰めた赤い袋を下げて高い所に登り、菊酒を飲むと齢が延びるという中国の古い言い伝えがあり、これを「登高」という。現在では近くの山、丘陵にハイキングに行くことも表す。

例句 作者

けふの日の高きに登り虚子思ふ 山口青邨
登高のこころの鐘をつきにけり 鈴木五鈴
登高の二年二組にまた会へり 羽根嘉津
一足の石の高きに登りけり 高浜虚子
わが町の見ゆる高きに登りけり 塚月凡太
亡びたる城の高きに登りけり 有馬朗人
地酒醒め高きに登る女たち 赤尾兜子
行く道のままに高きに登りけり 富安風生

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冷やかに海を薄めるまで降るか 櫂未知子

2018-10-22 | 


冷やかに海を薄めるまで降るか 櫂未知子

季語は「冷やか」。秋です。秋も終わりのほうの、冬へ、その傾斜を深めてゆく頃と考えてよいでしょう。春から夏へ向かう緩やかな階段を上るような動きとは違って、秋は滝のように、その身を次の季節へ落とし込んでゆきます。「冷やか」とは、じつに的確にその傾斜の鋭さを表した、清冽な季語です。夏の盛りの驟雨、暑さを閉じる雷雨、さらには秋口の暴風雨と、この時期の季節の移ろいに、空はあわただしく種類の異なる雨を提示してゆきます。その提示の最後に来るのが、秋の冷たい雨です。晩秋の雨の冷たさは、染み込むようにして、あたたかさに慣れきった身体を濡らしてゆきます。この句で際立っているのは、「海を薄めるまで」のところです。このような大げさな表現は、ひそやかに物を形容する日本語という言語には、適していないのかもしれません。しかし、この句にあっては、それほどの違和感をもつことなく、わたしたちに入ってくることができます。降る雨は、海の表面に触れる部分では、たしかにその瞬間に海を薄めているのです。それはまるで、海が人のように季節の冷たさを感じているようでもあります。そしてまた、海が濡れてゆくようでも。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)

【冷やか】 ひややか
◇「冷ゆ」 ◇「ひやひや」 ◇「秋冷」 ◇「下冷え」 ◇「朝冷え」 ◇「夕冷え」

秋になって覚える冷気。秋も深まり、壁に触れたり、畳に座ったりすると思わずひやりと感じることをいう。

例句  作者
暁のひやゝかな雲流れけり 正岡子規
暁闇や洗ひしごとき髪の冷え  野澤節子
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな  相馬遷子
冷やかや咲いて久しき畑の菊  増田龍雨
ひつそりと冷えの到りし父の下駄  角川春樹
紫陽花に秋冷いたる信濃かな  杉田久女
誰が耳と思ふわが耳冷えきつて  林 翔
火の山にたましひ冷ゆるまで遊ぶ  野見山朱鳥
考えていて手は秋冷のテーブルに  高橋信之
秋冷や山のこほろぎ日を歩き  藤田あけ烏

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をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏

2018-10-21 | 


をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏

季語は「すすき(芒・薄)」で秋。秋の七草の一つ。さて、今日は三連休の中日ですね。お勤めの方々には、三日間の中でもいちばんリラックスした気分で過ごせる日ではないかと思います。やっぱり日頃の土日二連休とは違って、いつもと同じ日曜日の感じではありませんよね。なんてったって、明日も「また」休めるのですから。非常に得をしたようなご気分の方が多いでしょう。そこで、ひとつどうでしょうか。近所の河原にでも出かけてみて、すすきを手折るなどして句のような風流を味わってみては……。でも、てな誘いにうかうかと乗せられて、すすきを手折ろうなんてことはしないほうが良いですよ。あの茎はとても強くてしぶといですから、普通の人には手折るなんて上品な行為では、まず「をりと」るのは無理でしょう。力任せに左右に何度もねじって、引き千切るくらいの野蛮さが必要です。学生時代にはじめて掲句に出会ったとき、私は蛇笏を人並外れた怪力の持ち主かと思いましたね。どう考えても、この句は丈の高い丈夫なすすきを「をりとりて」いるとしか読めません。なにしろ、手にして「はらりとおもき」なのですからね。そんなすすきを、句はたやすく手折ったように印象づけていますが、またそれでなくては句の美しさが失われてしまいますが、本当にさらりと「をりと」ったのだとすれば凄いことです。私だったら、「ねじきって」とか「ねじおって」、あるいは刃物で「きりとって」とでもやるところでしょうか。しかし、これでは「はらりとおもき」とはいきませんから駄目でしょう。名句の誉れ高いこの句は、ま、あらまほしき世界を描いたフィクションとしての名作なんでしょうね。世の中には「はらりとおもき」に目を奪われた解釈が圧倒的ですが、「をりとりて」にもう少し注目する必要があろうかと思います。むろん、私は俳句のフィクションを否定しません。否定しませんが、これはいささかやり過ぎじゃないのかと。いかにも実際めかした衣裳が、どうにもいただけませんので。(清水哲男)

【芒】 すすき
◇「薄」(すすき) ◇「花芒」 ◇「芒野」 ◇「糸芒」 ◇「尾花」 ◇「芒散る」 ◇「尾花散る」
イネ科の多年草。日当たりの良い山野のいたるところに自生する。秋、桿頭に中軸から多数の枝を広げ、黄褐色か紫褐色の花穂を出す。風が吹くと一斉になびく姿は風情がある。花穂が獣の尾に似ていることから「尾花」ともいう。冬近くになると花穂は開ききって光沢を失い、散りこぼれる。

例句 作者

山越ゆるいつかひとりの芒原 水原秋櫻子
なにもかも失せて薄の中の路 中村草田男
磐梯の火口せまれる尾花刈 望月たかし
芒の穂ばかりに夕日のこりけり 久保田万太郎
芒かき分けて夕日の前に出る 橋本美代子
落暉炎えて男ばかりや尾花照る 渡辺水巴
萩芒活けて湯屋の隠し部屋 吉岡鳴石
山越せば海荒れて居る芒かな 阪井二星
折りとりてはらりとおもき芒かな 飯田蛇笏
散る芒寒くなるのが目に見ゆる 一茶

切っ先はまだ尖らせず青芒   たけし
青芒付和雷同の生きる知恵   たけし
この街を終と確かむ芒晴    たけし
強面の漢の急ぐ芒原      たけし
せいせいと人との隙間芒晴れ  たけし

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いちじくに唇似て逃げる新妻よ 大屋達治

2018-10-20 | 


いちじくに唇似て逃げる新妻よ 大屋達治

無花果に似ているというのだから、思わずも吸いつきたくなるような新妻の唇(くち)である。しかし、突然の夫の要求に、はじらって身をかわす新妻の姿。仲の良い男女のじゃれあい、完璧にのろけの句だ。実景だとしたら、読者としては「いいかげんにしてくれよ」と思うところだが、一度読んだらなかなか忘れられない句でもある。新婚夫婦の日常を描いた俳句は、とても珍しいからだろう。ただし、この句は何かの暗諭かもしれない。それが何なのかは私にはわからないが、とかく俳句の世界を私たちは実際に起きたことと読んでしまいがちだ。「写生句常識」の罪である。もとより、俳句もまた「創作」であることを忘れないようにしたい。(清水哲男)

【無花果】 いちじく
◇「白無花果」
晩秋、外皮が暗紫色になり裂けてうす桃色の果肉を見せる。生食したりジャムや缶詰等に加工する。形は卵に似た円形。枝についている端は細く、反対側は扁形。5センチほどの大きさ。

例句 作者

無花果や永久に貧しき使徒の裔 景山筍吉
無花果の乳噴き出すはさびしけれ 大島雄作
無花果にゐて蛇の舌みえがたし 飯田蛇笏
無花果を煮つめ琥珀の夕ごころ 菅野明子
無花果や目の端に母老いたまふ 加藤楸邨
あるきつつ無花果たべぬなほ焦土 山田麗眺子
無花果食ふ月に供へしものの中 石田波郷

無花果や我が生命線を確かむる  たけし
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無月かな佐助のごときひとが欲し 津森延世

2018-10-19 | 


無月かな佐助のごときひとが欲し 津森延世

さまざまな「佐助」がいると思うけど、僕など佐助といえば猿飛佐助しか浮かばない。無月の夜に甲賀忍者佐助を思うのはよくわかる。なんとなく巻物を咥えて出てきそうな雰囲気があるから。しかし、作者がどうして佐助のようなひとが欲しいと思うのかが謎であり、この句の魅力なのだ。作者は女性だから、女として佐助のような男がいたらいいなと思っている。友人としてなんてつまらないから、恋人として。神出鬼没で身がかろやかで、手品どころか忍術を使える男。今でいうとおもしろくて飽きない男を作者はお望みなのだ。佐助より佐助が仕えた真田幸村の方が男としては上ではないかなどと思うが幸村の恋人だといざというとき自刃せねばならない。やっぱり佐助くらいでいい。美人の超人気女優が漫才タレントとくっつくのもその伝かもしれない。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)

【無月】 むげつ
十五夜に、雲のために名月を見ることができないこと。雨月を含めていうこともある。見えないとはいえ、
心にはくっきりと月が浮んでいる。

例句 作者

無月の浜白浪ありてさびしからず 大野林火
豆選れば波の音して無月なり 猪口節子
雨の月どこともなしの薄あかり 越人
欄干によりて無月の隅田川 高浜虚子
舟底を無月の波のたたく音 木村蕉城
べうべうと汐引く川の無月かな 飯田龍太
めいめいに菓子とりまはす無月かな 龍岡 普
湖のどこか明るき無月かな 倉田紘文
笛の音の美しかりし無月かな 高野素十
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秋の日が終る抽斗をしめるように  有馬朗人

2018-10-18 | 


秋の日が終る抽斗をしめるように  有馬朗人

引き出しがなめらかに入るその感触は、気持のよいものです。扉がぴたりとはまったときや、螺子が寸分の狂いもなく締められたときと同じ感覚です。そのような感触は、あたまの奥の方がすっと感じられ、それはたしかに秋の、乾いた空気の手触りにつながるものがあります。抽斗は「ひきだし」と読みます。「引き出し」と書くと、これは単に動作を表しますが、「抽斗」のほうは、「斗」がいれものを意味しますから、入れ物をひきだすというところまでを意味し、より深い語になっています。「秋の日」、「終る」、「抽斗」と同じ乾き方の語が続いたあとは、やはり「閉じる」よりもさわやかな、「しめる」が選ばれてよいと思います。抽斗をしめることによって、中に閉じ込められたものは、おそらくその日一日のできごとであるのでしょう。しめるときの振る舞いによって、その日がどのようなものであったのかが想像できます。怒りのちからで押し込むようにしめられたのか、涙とともに倒れこむようにしめられたのか。箱の中で、逃れようもなく過ごしてきた一日は、どのようなものであれ、時が来れば空はふさがれ、外からかたく鍵がかけられます。掲句の抽斗は、激することなく、静かにしめられたようです。とくに大きな喜びがあったわけではないけれども、いつものなんでもない、それだけに大切な、小箱のような一日であったのでしょう。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)

【秋の日】 あきのひ
◇「秋日」 ◇「秋日影」 ◇「秋日向」
秋の一日にも、秋の日差しにもいう。秋の日は暮れやすく、どこかあわただしい感じがある。初秋の頃は夏を引きずったような強い日射しも、次第に和らいで行き、空気も澄んできらきらと輝くようである。立秋から晩秋までひろく示すが「秋の日輪」のみを示すこともある。

例句 作者

水底の草にも秋の日ざしかな 高橋淡路女
白壁のかくも淋しき秋日かな 前田普羅
デモの中の一つの真顔秋日濃し 丸山哲郎
水の面に秋白日の穂高嶽 石原八束
削られし伊吹の地肌秋日濃し 栗田やすし
鶏頭に秋の日のいろきまりけり 久保田万太郎
売れ残るラムネに秋の夕日哉 寺田寅彦
秋の日のかりそめながらみだれけり 去来
谿ふかく秋日のあたる家ひとつ 石橋辰之助
ころがつてゆきし玩具の秋の翳 行方克己

秋日差し鑿あと深き石の蔵    たけし
大仏の胎のなかにて秋日差    たけし
秋日和音たてて跳び足の爪    たけし
秋日差し水面にゆれるフラスコ画 たけし
よそいきの言葉ありけり秋日和  たけし
外人墓地ひとつひとつの秋日影  たけし
  
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鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽  金子兜太

2018-10-16 | 



鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽  金子兜太

大きな景を自身の旅への期待感で纏めた作品だ。加藤楸邨は隠岐への旅の直前に「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と詠んだ。楸邨の句はまだ東京にあってこれから行く隠岐への期待感に満ちている。兜太の句も北海道に鮭を食いに行く旅への期待と欲望に満ちている。雪後の天に怒濤を感じるダイナミズムと夕焼け空の色と形に肛門を感じる兜太のそれにはやはり師弟の共通点を感じる。言うまでもなく肛門はシモネタとしての笑いや俳諧の味ではない。食うがあって肛門が出てくる。体全体で旅への憧れを詠った句だ。こういうのをほんとうの挨拶句というのではないか。『蜿蜿』(1968)所収。(今井 聖)

【鮭】 さけ
◇「初鮭」 ◇「秋味」 ◇「鮭の秋」 ◇「鼻曲り鮭」
サケ科。体長約1メートル。9月ころから産卵のため群れをなして故郷の川を遡ってくる。上流で産卵し、孵化した稚魚は海に下って成長する。北日本、特に北海道西海岸に多い。肉は鮮紅色で、東京ではしゃけ、北海道では秋味(あきあじ)と呼ばれる。

例句 作者

一番鮭溯るや早瀬又荒瀬 水原秋櫻子
石狩の怒りのにごり鮭の秋 加藤蛙水子
阿武隈に雲満ちきたり鮭のぼる 加倉井秋を
垂直に鮭が顔出す酒溜 千葉 仁
橋上を婚の荷過ぎる鮭の川 石川文子
月高く産卵の鮭寝静まり 藤田右丞子

尖る歯を剥き出しの鮭下り簗  たけし
月光に尖る鮭の歯下り簗    たけし
泪目の大鮭一尾簗終い     たけし
鮭遡る龍門の滝冬に入る    たけし
   
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流星やいのちはいのち生みつづけ 矢島渚男

2018-10-15 | 



流星やいのちはいのち生みつづけ 矢島渚男

季語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)

【流星】 りゅうせい(リウ・・)
◇「流れ星」 ◇「星飛ぶ」

宇宙に漂う塵が大気中に入って燃焼・発光する現象。夜半に多く現れ、8月中頃の空に最も多い。流星というが、実体は宇宙の塵または砂粒とよぶべきもので、これが群となって夜空に現れ一瞬にして消えると星が飛ぶあるいは流れるように見えるのである。
 
例句 作者

夜遊びの記憶に星の流れけり 神田綾美
流星のつづけさまなる終列車 清水昇子
星流れ土偶の眼より波の音 菅野茂甚
星一つ命燃えつつ流れけり 高浜虚子
流れ星何か掟を破りしや 有吉桜雲
星飛ぶやどこまで行くも早寝村 いのうえかつこ
流星や旅の一夜を海の上 下村ひろし
みごもりて流星さとく拾ひをり 菅原鬨也
星流れ落葉松林すぐ目の前 服部多々穂
流星の尾の長かりし湖の空 富安風生


星流る懺悔のあとの天主堂   たけし
星飛ぶや一軒宿に吾ひとり   たけし
家数に灯りのまばら星流る   たけし

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竜胆は若き日のわが挫折の色  田川飛旅子

2018-10-14 | 


strong>竜胆は若き日のわが挫折の色  田川飛旅子

竜胆(りんどう)は、さながら「秋の精」のように美しい。吸い込まれるような花の色だ。しかし、その色を「挫折の色」とする人もいる。花の色が美しいだけに、傷の深かったことが想像されて、いたましい。挫折の中身はもちろん不明だが、失恋などではなくて、むしろ青春期の思想的ないしは政治的な挫折だと私は読んでおく。「挫折」という言葉を俳句で使った人を、他に知らない。ところで、あなたにかつて挫折の時があったとすれば、その「挫折の色」はどんな色でしょうか。(清水哲男)

竜胆】 りんどう(・・ダウ)
◇「笹竜胆」 ◇「深山竜胆」(みやまりんどう) ◇「筆竜胆」
リンドウ科の多年草。茎の梢や葉の腋に、鐘状で先が五裂した青紫色の可憐な花をつける。日中に開花し、夕方や雨の日は閉じる。根は漢方薬で健胃剤となる。

   例句          作者

山の日の片頬にあつき濃竜胆 富安風生
雲に触れ竜胆育つ美幌越     大野林火
竜胆に遠きひかりの流れ雲 小口雅広
竜胆や馬柵に掛け干す牧夫服 浦岡泰広
りんだうのひらかぬ紺を供ふなり 柴田白葉女
竜胆や少女の腰に山刀     西本一都
竜胆やかがめば遠嶺も草の丈 花田春兆
竜胆をみる眼かへすや露の中 飯田蛇笏
竜胆や朝はきらめく白馬岳 水原秋櫻子
野に摘めば野の色なりし濃りんだう 稲畑汀子

暁闇にたしかな吐息濃竜胆    たけし
そぼ降るや竜胆そっと吐息せり  たけし
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省略がきいて明るい烏瓜 薮ノ内君代

2018-10-13 | 



省略がきいて明るい烏瓜 薮ノ内君代

烏瓜】 からすうり
◇「玉瓜」 ◇「玉章」
ウリ科の蔓性多年草。楕円形の実で、緑色から黄色となり、晩秋、成熟すると美しい朱紅色となる。葉の落ちつくした後も蔓の先にぶら下がっている。鳥が好んで啄む。

例句 作者

梵妻を恋ふ乞食あり烏瓜 飯田蛇笏
藪先や暮れ行くとしの烏瓜 一茶
烏瓜映る水あり藪の中 松本たかし
顔冷えて来たる頭上の烏瓜 岸田稚魚
いちにちの終りに会ひし烏瓜 桂 信子
たぐり寄す烏瓜依然空遠し 稲垣法城子
負けん気をひそめて引きぬ烏瓜 宮川一美


烏瓜うらなふやうに蔓を引く  たけし
蔓みれば引くがきまりや烏瓜  たけし


省略がきいて明るい烏瓜 薮ノ内君代

まことに省略のきいたものは明るい輝きを持っている。俳句もしかり、さっぱりと片付けた座敷も。ところで秋になると見かける烏瓜だけど、あれはいったいどんな植物のなれの果てなのだろう。気になって調べてみると実とは似ても似つかない花の写真が出てきた。白い花弁の周りにふわふわのレースのような網がかかった美しい花。夏の薄暮に咲いて昼には散ってしまうという。「烏瓜の花は“花の骸骨”とでも云った感じのするものである。遠くから見る吉野紙のようでもありまた一抹の煙のようでもある。」と寺田寅彦が『烏瓜の花と蛾』で書いている。烏瓜というと、秋になって細い蔓のあちらこちらに明るい橙色を灯しているちょうちん型の実しかしらなかったので、そんな美しい経歴があろうとは思いもよらなかった。実があるということはそこの場所に花も咲いていたろうに、語らず、誇らず枯れ色の景色の中につるんと明るい実になってぶら下がっている。省略がきいているのはその形だけではなかったのね。と烏瓜に話しかけたい気分になった。『風のなぎさ』(2007)所収。(三宅やよい)
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桜紅葉これが最後のパスポート  山口紹子

2018-10-12 | 



桜紅葉これが最後のパスポート     山口紹子

つい最近、緊急に必要なことができて、急遽パスポートの申請に行ってきた。本籍地のある中野の区役所で戸籍抄本をとり、立川の旅券申請受付窓口で手続きが終わるまで、その間に写真撮影やなんやらかんやらで、ほぼ一日仕事になってしまった。この流れのなかで、一瞬迷ったのが旅券の有効期限の違いで色の違う申請用紙を選んだときだ。赤が十年で、青が五年である。このときにすっと頭に浮かんだのは、揚句秋(仲秋)・植物
【桜紅葉】 さくらもみじ(・・ヂ)
桜は他の木に先だって紅葉し、散り急ぐ。9月の末には素手に赤みがさし、早い葉は落ちてしまう。
例句 作者
霧に影なげてもみづる桜かな 臼田亜浪
桜紅葉しばらく照りて海暮れぬ 角川源義
うつくしく傷みてさくら紅葉かな 山口 速
桜紅葉蹤きゆくことの寧からず 永方裕子
桜紅葉なるべし峰に社見ゆ 河東碧梧桐

の作者と同じく「これが最後のパスポート」という思いであった。最後なんだから赤にしようかとも思ったけれど、十年後の年齢を考えると現実的ではなさそうだと思い直して、結局は青にした。そんなことがあった直後に読んだ句なので、とても印象深い。作者の年齢は知らないが、ほぼ同年代くらいだろうか。作者が取得したのは「桜紅葉」の季節だったわけだが、この偶然による取り合わせで、句が鮮やかに生きることになった。桜紅葉の季節は早い。他の木々の紅葉にさきがけて、東京辺りでも九月の下旬には色づきはじめる。山桜なら、もっと早い。すなわち作者は、「最後」と思い決めた人生に対する季節感が、いささか他の人よりも早すぎるかもしれないという気持ちがどこかにあることを言っている。だから、この感情を苦笑のうちに収めたいとも思ったろうが、一方で苦笑からはどうしてもはみ出てしまう感情がないとは言えないことも確かなのだ。この句を読んだ途端に、私は未練がましくも赤にしておくべきだったかなと思い、いややはり青でよかったのだと、あらためて自己説得することになったのだった。『LaLaLa』(2006)所収。(清水哲男)
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づかづかと来て踊子にさゝやける 高野素十

2018-10-10 | 



づかづかと来て踊子にさゝやける 高野素十

【踊】 おどり(ヲドリ)
◇「盆踊」 ◇「阿波踊」 ◇「踊子」 ◇「踊唄」 ◇「踊太鼓」 ◇「踊笠」 ◇「踊櫓」
盆踊のこと。盆とその前後に寺の境内や広場などに老若男女が集まって踊る。本来盆に招かれた精霊を慰める踊であったものが、娯楽になっている。

例句 作者

どうでもいいやうに踊りて手練なる 西村和子
ひとところ暗きを過ぐる踊の輪 橋本多佳子
満潮に踊の足をあらひけり 森 鴎外
踊の灯幾つも見つつ北へ汽車 岡田飛鳥子
あと戻り多き踊にして進む 中原道夫
人の世のかなしきうたを踊るなり 長谷川素逝
ヤッチクサッサ拳をかたく踊りけり 今井飛佐
羽田より踊る阿呆になりにゆく 島崎省三
いくたびも月にのけぞる踊かな 加藤三七子
足をかう手をかう首をかう踊れ 角田竹冷

踊りの輪考の背ひょいと現るる  たけし

づかづかと来て踊子にさゝやける 高野素十

俳句で「踊子」といえば、盆踊りの踊り手のこと。今夜あたりは、全国各地で踊りの輪が見られるだろう。句の二人は、よほど「よい仲」なのか。輪のなかで踊っている女に、いきなり「づかづか」と近づいてきた男が、何やらそっと耳打ちをしている。一言か、二言。女は軽くうなずき、また先と変わらぬ様子で輪のなかに溶けていく。気になる光景だが、しょせんは他人事だ……。夜の盆踊りのスナップとして、目のつけどころが面白い。盆踊りの空間に瀰漫している淫靡な解放感を、二人に代表させたというわけである。田舎の盆踊りでは句に類したこともままあるが、色気は抜きにしても、重要な社交の場となる。踊りの輪のなかに懐しい顔を見つけては、「元気そうでなにより」と目で挨拶を送ったり、「後でな……」と左手を口元に持っていき、うなずきあったりもする。こういう句を読むと、ひとりでに帰心が湧いてきてしまう。もう何年、田舎に帰っていないだろうか。これから先の長くはあるまい生涯のうちに、果たして帰れる夏はあるのだろうか。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)
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