竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

かまくらや小声で点す絵ろうそく(丈子)

2021-01-16 | 


現代俳句協会の第6回インタ^ネット句会

229人 724句 がえんとりーのマンモス句会
前回は締切日を失念して参加できなかった
今回はホントカという信じられない結果だった
10点句は総合3位タイ
7点句は総合15位タイ

半泣きの子に大泣きの雪ふぁるま
は大量の俳句の中から見いだせなかった、きっと⓪点句だったと思う
それにしてもこいつは春から縁起が良い

10点
特:中村テツ
特:岩本夏柿
並:健央介
並:せいち
並:くんせい
並:早紅羅
並:羽夢
並:ふぉとんはるか
[No.1] かまくらや小声で点す絵ろうそく(丈子)
【選評】
ほのぼのとしてそして温かみを感じる。(せいち)
いつもの年なら賑やかなのでしょうか 治まるといいねコロナ(早紅羅)
温かく懐かしく鮮やかなイメージです。(ふぉとんはるか)
景がはっきり見えて来ます。(岩本夏柿)

7点特:桜井水
特:諸葛孔明
並:みづき美郷
並:本町ゑみ
並:たいぞう
[No.683]  聖堂は島の日時計福寿草(丈子)
【選評】
俯瞰されたような光景に福寿草の取り合わせ、うまい句だと思う。(たいぞう)
長崎をイメージした。長い歴史を知る聖堂に、今は、平和で幸せな時間が流れている喜びを福寿草が象徴している。(みづき美郷)
コロナ禍の中、ほっとする一句(本町ゑみ)
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父祖の地に闇のしづまる大晦日 飯田蛇笏

2018-12-31 | 


父祖の地に闇のしづまる大晦日 飯田蛇笏

つとに名句として知られ、この句が収められていない歳時記を探すほうが難しいほどだ。時間的にも空間的にも大きく張っていて、どっしりとした構え。それでいて、読者の琴線には実に繊細に触れてくる。蛇笏は文字通りの「父祖の地」で詠んでいるが、句の「父祖の地」は某県某郡某村といった狭義のそれを感じさせず、人が人としてこの世に暮らす全ての地を象徴しているように思われてくる。大晦日。大いなる「闇」が全てをつつんで「しづまる」とき、来し方を思う人の心は個人的な発想を越えて、さながら「父祖の地」からひとりでに滲み出てくるそれのようである。日本的な美意識もここに極まれりと、掲句をはじめて読んだときに思った記憶があるけれど、そうではないと思い直した。外国語に翻訳しても、本意は多くの人に受け入れられるのではあるまいか。ところで、「大晦日」は一年の終わりなので「大年(おおとし)」とも言う。「大年へ人の昂ぶり機の音」(中山純子)。真の闇以前、薄闇が訪れたころの実感だろう。大晦日にも働く人はいくらもいるが、しかし漏れ聞こえてくる「機(はた)」の音には、普段とはどことなく違う「昂(たか)ぶ」った響きがうかがえると言うのである。この「昂ぶり」も、やがては大いなる「闇」に「しづま」っていくことになる……。(清水哲男)

【大晦日】 おおみそか(オホ・・)
◇「大晦日」(おおつごもり) ◇「大三十日」(おおみそか) ◇「大年」(おおとし) ◇「大歳」(おおどし)
12月の末日のこと。陰暦の12月30日であるが、陽暦では12月31日。大晦日(おおつごもり)ともいう。元旦を明日に控えた一年の節目の日。いろいろな行事とともに様々の人生絵巻が繰り広げられる。
例句 作者
大年の夜に入る多摩の流れかな 飯田龍太
漱石が来て虚子が来て大三十日 正岡子規
大年の法然院に笹子ゐる 森 澄雄
夜遊びに来し大年の亡き子かな 石 寒太
波除に大年の波静かかな 松本たかし
大年の夕日当れる東山 五十嵐播水
袖濡れて硯洗へり大三十日 水原秋櫻子
大歳といふ海溝を前にせり 能村登四郎
大年のかすかに正す額の位置 宮内とし子
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腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ   岡本 眸

2018-12-29 | 
  
   

腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ   岡本 眸

一句の中の季語の扱いが従来的な季節感を踏襲しているか、そうだとすれば、その中にどう作者の色が付加されているかいないか、或いは、季語を季節感と切り離して用いているか、ならば季節感がないのに季語を用いるところに伝統詩型の要件に対する作者の理解や工夫がどう生かされているか。そういう点も俳句評価の一角度だと僕は思うのだが、例えばハナから無季肯定の評者にはこういう角度は評価の外なのであろう。この句のマスクには冬期の季節感はありや。顔を隠すという意味においては、例えばコンビニ強盗の目出し帽と同じではないだろうか。その用途は四季を問わない。冬季の風邪を予防し自らの菌の飛散を防ぐというマスクの本意をどう「自分の事情」に引きつけてこなすか、そこに季語必須派の工夫、すなわち真の実力が見えてくる。新潮文庫『新改訂版俳諧歳時記』(1983)所載。(今井 聖)

 
マスク】
寒気、寒風を防ぐため、鼻から口にかけて包むもの。風邪予防の目的もある。

例句                作者

マスクして黒瞳のうるみひたすらに 中島斌雄
マスクしてしろぎぬの喪の夫人かな 飯田蛇笏
マスクして我を見る目の遠くより 高浜虚子
美しき人美しくマスクとる 京極杞陽
遠くよりマスクを外す笑みはれやか 富安風生
マスクして人の背なかが前にある 加倉井秋を
眼はうごき眉はしづかにマスクの上 山口誓子
マスクしてすでにその眼の語ること 小松 幸
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歳晩の夕餉は醤油色ばかり 櫂未知子

2018-12-28 | 



歳晩の夕餉は醤油色ばかり 櫂未知子

今はそうでもないかもしれないが、昔の「歳晩(年の暮)」の食卓情景は、たしかにこういう感じだったと懐かしく思い出す。歳晩の主婦は、なにかと新年の用意に忙しく、あまり日々の料理に気を遣ったり時間をかけたりするわけにはいかなかった。必然的に簡単な煮しめ類など「醤油色」のものに依存して、そそくさと夕餉をやり過す(笑)ことになる。煮しめと言ったつて、正月用の念入りな料理とはまた別に、ありあわせの食材で間に合わせたものだ。したがって押し詰まれば押し詰まるほどに、食卓は醤油色になっていき、それもまた年の瀬の風情だと言えば言えないこともない。昔はクリスマスを楽しむ風習もなかったから、師走の二十日も過ぎれば、毎日の夕餉の食卓はかくのごとし。農家だったころの我が家は、晦日近くになると、夕餉の膳には餅が加わり、これまたこんがり焼いて醤油色なのである。食べ物のことだけを言っても、このように歳末の気分を彷彿とさせられるところが、俳句の俳句たる所以と言うべきである。「俳句界」(2007年12月号)所載。(清水哲男)



【年の暮】 としのくれ
◇「歳晩」(さいばん) ◇「年末」 ◇「歳末」 ◇「年の瀬」 ◇「年の果」 ◇「年の終」 ◇「年の残り」 ◇「年尽く」 ◇「年果つ」 ◇「年つまる」
12月も半ばを過ぎると、いよいよ正月の準備が始まり、年の暮の実感が生まれる。一年の節目としてのあわただしい暮しの中で、年を惜しむ心境や新年を待つ心持のないまぜとなった気持ちが重なる。

例句              作者

小傾城行きてなぶらん年の暮 其角
路の辺に鴨下りて年暮れんとす 前田普羅
うつくしや年暮きりし夜の空 一茶
耳も目もたしかに年の暮れんとす 安部みどり女
深大寺蕎麦が熱くて年の暮 大嶽青児
映すものなき歳晩の潦 永方裕子
年暮るる振り向きざまに駒ケ獄 福田甲子雄
下駄買うて箪笥の上や年の暮 永井荷風
歳晩の脚立に妻の指図待つ 安居正浩
忘れゐし袂の銭や年の暮 吉田冬葉
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煤逃げと言へば言はるる旅にあり 能村登四郎

2018-12-26 | 




煤逃げと言へば言はるる旅にあり 能村登四郎

【煤払】 すすはらい(・・ハラヒ)
◇「煤掃」(すすはき) ◇「煤湯」(すすゆ) ◇「煤逃」(すすにげ) ◇「煤籠」(すすごもり)
新年に備え、家屋内、調度品の塵埃を清掃する習慣をいう。かつては12月13日と定まっていたようだが、現在は下旬に入ってからが多い。「煤籠」は、煤払当日、老人、子供、病人を別室等に退避させること。仕事がはかどることを意図すると同時に、弱者への思いやりがこめられている。

例句       作者

煤ごもる二階の父母へ運び膳 岡田耿陽
高瀬川木屋町の煤流れけり 高浜虚子
句座まうけして煤逃げの老ばかり 加古宗也
煤竹の投げ出されある雪の上 大橋宵火
煤逃げにして煎餅を伴へる 山本一歩
老夫婦鼻つき合せ煤ごもり 鈴木花蓑
煤払火の見の北はいつも蒼し 大峯あきら
煤掃の音はたとやむ昼餉かな 正岡子規
一函の皿あやまつやすゝ払ひ 召波
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冬ぬくし海をいだいて三百戸        長谷川素逝

2018-12-24 | 


冬ぬくし海をいだいて三百戸        長谷川素逝


【冬暖か】 ふゆあたたか
◇「冬ぬくし」 ◇「暖冬」(だんとう)

冬は寒い。しかし、二、三日または数日にわたって現れる暖かい陽気はうれしいもので、俳句では多く、こうした気分が詠まれる。

例句              作者
冬ぬくし天平仏に母の笑み 平野無石
親たちばかり暖冬の杉ばかり 齋藤美規
寺の名で寺が探せぬ冬ぬくし 能村研三
そつとして置いてもらへば冬ぬくし 岩上とし子
伎楽面赤き鼻梁垂れ冬あたたか 大谷碧雲居
校庭の柵にぬけみち冬あたたか 上田五千石
母鹿は何時も母の瞳冬ぬくし 豊田ふじを
冬あたたか五十のわれに母在れば 大野林火
墓地といふ冬あたたかきところかな 村上喜代子
暖冬の猫が目につく偶数日 伊藤トキノ
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初氷尾を大切に尾長跳ぶ  堀口星眠

2018-12-23 | 


初氷尾を大切に尾長跳ぶ 堀口星眠

初氷】 はつごおり(・・ゴホリ)

その年初めての氷結。寒気の始まりを示す。しかし、どこかに寒さの到来を楽しむ風情もあり、それを愛でる余裕もある。朝起きて初氷を見たときの新鮮な感動はうれしいものである。

例句 作者

大いなる旦の星や初氷 桂 白雨
かんばせのくもり美し初氷 上田五千石
藁を焚くけむり野面の初氷 面来痴草
初氷面皮のごとく剥したる 稲垣きくの
有明の消ゆる早さよ初氷 上甲平谷
初氷夜も青空の衰へず 岡本 眸
初氷尾を大切に尾長跳ぶ 堀口星眠
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一族郎党が沈んでゐる柚子湯かな   八木忠栄

2018-12-22 | 


一族郎党が沈んでゐる柚子湯かな   八木忠栄

季語は「柚子湯(ゆずゆ)」で冬。冬至の日に柚子湯に入ると、無病息災でいられるという。句は、古い田舎家の風呂場を思い起こさせる。作者は、ひさしぶりに帰省した実家で入浴しているのだろう。台所などと同じように、昔からの家の風呂場はいちように薄暗い。そんな風呂に身を沈めていると、この同じ風呂の同じ柚子湯に、毎年こうやって何人もの血縁者が同じように入っていたはずであることに思いが至った。息災を願う気持ちも、みな同じだったろう。薄暗さゆえ、いまもここに「一族郎党が沈んでゐる」ような幻想に誘われたと言うのである。都会で暮らしていると、もはや「一族郎党」という言葉すらも忘れている始末だが、田舎に帰ればかくのごとくに実感として想起される。そのあたりの人情の機微を、見事に骨太に描き出した腕の冴え。すらりと読み下せないリズムへの工夫も、よく本意を伝えていて効果的だ。なお蛇足ながら、「一族郎党」の読み方は、昔は「いちぞくろうとう」ではなく「いちぞくろうどう」であった。ならばこの句でも「いちぞくろうどう」と読むほうが、本意的にはふさわしいのかもしれない。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)

柚子風呂の柚子が赤子に蹴られけり 神原栄二
柚子湯出て夫の遺影の前通る 岡本 眸
柚子湯して妻とあそべるおもひかな 石川桂郎
小柚子手をつなぎ寄り来る冬至風呂 細川洋子
匂ひ艶よき柚子姫と混浴す 能村登四郎
柚子風呂に妻をりて音小止みなし 飴山 實
子の臀を掌に受け沈む冬至の湯 田川飛旅子
燈台に波あがる見て冬至の湯 針 呆介
柚子湯出て慈母観音のごとく立つ 上田五千石
白々と女沈める柚子湯かな 日野草城


両の手に何度も掬う柚子湯かな たけし
天井の染み見ぬふりの柚子湯かな たけし
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懐手して説くなかれ三島の死 阿波野青畝

2018-12-19 | 



懐手して説くなかれ三島の死 阿波野青畝

懐手】 ふところで


和服着用の際、寒さをしのぐために手を袂や胸元に入れること、またはその仕草。どこか不精で寒さに負けている感じがする。

例句    作者

懐手して説くなかれ三島の死 阿波野青畝

懐手あたまを刈つて来たばかり 久保田万太郎

?(えい)のごとゆらぎそめたる懐手 藤田湘子

夫と子をふつつり忘れ懐手 中村汀女

ふところ手して手の遊ぶたのしさに 皆吉爽雨

出獄のけふきて午後のふところ手 秋元不死男

山の子は山の入日に懐手 福田蓼汀

売文の徒に交はるやふところ手  野村喜舟
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永遠の待合室や冬の雨  高野ムツオ

2018-12-14 | 


永遠の待合室や冬の雨  高野ムツオ

何を待つ「待合室」かによって、この句の解釈は大きく変わります。すぐに思い浮かぶのは駅です。しかし、「永遠」という語の持つ重い響きから考えて、これはどうも駅の待合室ではないようです。もっと命に近い場所、あるいは、命を「永遠」のほうへ置くための場所、つまり斎場のことを言っているのではないかと思われます。この句はわたしに、過去のある日を思い出させます。どのような理由によってであれ、大切な人を突然失うことの意味を、わたしたちは俄かに理解することはできません。理解する暇もなく、次から次へ手続きは進み、気がつけば「待合室」という名の部屋に入らされ、めったに会うことのない親戚の中で、飲みたくもないお茶を飲んでいるのです。ひたすらに悲しみが押し寄せてくる一方で、よそ事のような感覚も、時折入り込んできます。切羽詰った悲しみと、冷えた無感情が、ない交ぜになって揺れ動いています。扉は開き、名が呼ばれ、事が終わったことが知らされ、靴を履き、向かうべき場所へ向かう途中で、明るすぎるほどの廊下へ案内されます。高い天井の下、呆然としてガラス張りの壁の向こうを見つめていました。その日も外にはしきりに、冷たい雨が降っていたと記憶しています。『生と死の歳時記』(法研・1999)所載。(松下育男)


【冬の雨】 ふゆのあめ
◇「寒の雨」(かんのあめ) ◇「寒九の雨」(かんくのあめ)

時雨の時季をすぎると、降る雨はいよいよ雪の混じる気配が感じられたりと、冷たく凍りつくようになる。細く降り続く雨は暗くわびしいものがある。しかし、雪国での雨はむしろ寒さのゆるびをともなう。寒の内に降る雨が「寒の雨」で、「冬の雨」よりさらに冷たく暗く侘しい気配があるが、一方で寒のゆるびを慶ぶ気持ちも含まれる。寒に入って九日目に降る雨を「寒九の雨」といい、豊年の兆しとするのはそうした思いもあるのであろう。

例句 作者       

クレーンのたたまれてゐる寒の雨 藤田弥生
油絵のたゞ青きのみ冬の雨 山口青邨
水漬きつゝ木賊は青し冬の雨 中村汀女
武蔵野を横に降るなり冬の雨 夏目漱石
石積んで舟かたぶくや冬の雨 羽原青吟 
面白し雪にやならん冬の雨 芭蕉
垣越しの一中節や冬の雨 永井荷風
うつほどに藁の匂ふや寒の雨 金尾梅の門
冬の雨崎のかたちの中に降る 篠原 梵
雁騒ぐ鳥羽の田づらや寒の雨 芭蕉
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遠しとは常世か黄泉か冬霞 中村苑子

2018-12-12 | 


遠しとは常世か黄泉か冬霞 中村苑子

【冬霞】 ふゆがすみ
◇「冬霞む」 ◇「寒霞」

霞は本来は春の季語。風のない穏やかなイメージをまとう語。たとえ冬の日であっても、否、冬の日であればこそかも知れない。霞の棚引く様はやさしさやのどかさをしみじみと感じさせよう。

例句   作者

山神楽冬霞みしてきこえけり 飯田蛇笏
松島の人住む島の冬がすみ 山口青邨
いまありし夕日の跡の冬霞 野沢節子
冬霞茶の木畑に出て見れば 富安風生
新宿が溺れて見ゆる冬霞 梅村すみを
町の名の浦ばかりなり冬霞 古賀まり子 
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一舟もなくて沖まで年の暮  辻田克巳

2018-12-09 | 


一舟もなくて沖まで年の暮  辻田克巳

見はるかす海原には、「一舟(いっしゅう)」の影もない。普段の日だと、どこかに必ず漁をする舟などが浮かんでいるのだが、今日は認めることができない。みな、年内の労働を終えたのだ。いよいよ、今年も暮れていくという感慨がわいてくる。句の要諦は、むろん「沖まで」の措辞にある。「年の暮」の季語は時間を含んでいるので、四次元の世界だ。その時間性を遠い「沖まで」と、三次元化(すなわち、視覚化)してみせたところが素晴らしい。つまり、意図的に時間を景色に置き換えている。作者は、見えないはずの「年の暮」の時間性を「沖まで」と三次元的に表現することにより、読者にくっきりと見せているのだ。ここで、読者は作者とともに遥かな沖を遠望して、束の間、ふっと時間を忘れてしまう。そして、またふっと我に帰ったところで、あらためて「年の暮」という時間を噛みしめることになる。へ理屈をこねれば、時間を忘れている束の間もまた時間なのだが、この束の間の時間性よりも、句では束の間の無時間性、空白性を訴える力のほうがより強いと思う。時間を束の間忘れたからこそ、あらためて「年の暮」の時間が身にしみて感じられるのである。「俳句界」(2003年1月号)所載。(清水哲男)

【年の暮】 としのくれ
◇「歳晩」(さいばん) ◇「年末」 ◇「歳末」 ◇「年の瀬」 ◇「年の果」 ◇「年の終」 ◇「年の残り」 ◇「年尽く」 ◇「年果つ」 ◇「年つまる」

12月も半ばを過ぎると、いよいよ正月の準備が始まり、年の暮の実感が生まれる。一年の節目としてのあわただしい暮しの中で、年を惜しむ心境や新年を待つ心持のないまぜとなった気持ちが重なる。

例句              作者

年暮るる振り向きざまに駒ケ獄 福田甲子雄
歳晩やものの終りは煙立て 能村登四郎
路の辺に鴨下りて年暮れんとす 前田普羅
年くれぬ笠着て草鞋はきながら 芭蕉
映すものなき歳晩の潦 永方裕子
うつくしや年暮きりし夜の空 一茶
小鳥屋は小鳥と居たり年の暮 林 翔
小傾城行きてなぶらん年の暮 其角
下駄買うて箪笥の上や年の暮 永井荷風
拍手してみんな留任年の暮 松倉ゆずる

人込みや病む人もいて年暮るる たけし

年用意喜寿も傘寿もまだ余生 たけし

線香を点してしまう年用意 たけし

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冬薔薇を揺らしてゐたり未婚の指 日下野由季

2018-12-08 | 


冬薔薇を揺らしてゐたり未婚の指 日下野由季

この薔薇が真紅の大輪の薔薇だとすれば、未婚の指、には凛とした意志の強さが感じられる。やや紅を帯びた淡く静かな一輪だとすれば、その花にふれるともなくふれた自らの左手に視線を向けた作者の、仄かな心のゆらめきや迷いのようなものが感じられる。二十代後半の同年の作に〈降る雪のほのかに青し逢はざる日〉とある。雪を見つめ続けている作者の中に、逢いたい気持ちと共にひたすらほの青い雪が降り積もってゆくようだ。そう考えると、雪のように清らかな白薔薇なのかもしれない、と思ったりもするが、いずれにしても掲出句の、未婚の指、にはっとさせられ、冬の澄んだ気配がその余韻を深めている。『祈りの天』(2007)所収。(今井肖子)

侮れぬ棘の枯色冬薔薇 たけし

冬薔薇色のあけぼの焼跡に 石田波郷
冬薔薇墓碑に刻みし齢若く 京極杜藻
冬薔薇や賞与劣りし一詩人 草間時彦
一輪の冬ばら投げてフィギュア終ふ 小川濤美子
尼僧剪る冬のさうびをただ一輪 山口青邨
冬薔薇おや指姫のひそみゐる 角川照子
大寒の薔薇に異端の香気あり 飯田龍太
冬薔薇日の金色を分ちくるる 細見綾子
冬薔薇石の天使に石の羽根 中村草田男
逢うてまた別れを思ふ冬薔薇 木村敏男
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胎児いま魚の時代冬の月  山田真砂年

2018-12-07 | 



胎児いま魚の時代冬の月  山田真砂年

胎児は十ヵ月を過ごす母胎のなかで、最初は魚類を思わせる顔から、両生類、爬虫類を経て、徐々に人間らしい面差しを持つようになるという。これは系統発生を繰り返すという生物学の仮説によるものであり、掲句の「魚の時代」とはまさに生命の初期段階を指す。母なる人の身体にも、まだそう大きな変化はなく、ただ漠然と人間が人間を、それも水中に浮かぶ小さな人間を含んでいる、という不思議な思いを持って眺めているのだろう。おそらくまだ愛情とは別の冷静な視線である。立冬を迎えると、月は一気に冷たく締まった輪郭を持つようになる。秋とははっきりと違う空気が、この釈然としない胎児への思いとともに、これから変化するあらゆるものへの覚悟にも重ってくる。無条件に愛情を持って接する母性とはまったく違う父性の感情を、ここに見ることができる。〈秋闌けて人間丸くなるほかなし〉〈虎落笛あとかたもなきナフタリン〉『海鞘食うて』(2008)所収。(土肥あき子)

沖波の命の尖り寒月光 たけし

寒月光やさしい嘘の見透かさる たけし

上弦の冬の三日月夜想曲 たけし


ガラス窓結核病棟冬満月 たけし

透きとうる女の鎖骨寒月光 たけし

夜勤明け冬満月のうすつぺら たけし

煙突と冬三日月の相寄りし 岸風三楼
寒月に水浅くして川流る 山口誓子
寒月の山を離れてすぐ高し 永方裕子
背高き法師にあひぬ冬の月 梅室
寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
妻遅し冬の三日月玻璃の隅に 加畑吉男
同じ湯にしづみて寒の月明り 飯田龍太 
寒月が鵜川の底の石照らす 栗田やすし
冬の月寂寞として高きかな 日野草城
冬の月より放たれし星一つ 星野立子
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鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽  金子兜太

2018-12-06 | 


鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽  金子兜太

大きな景を自身の旅への期待感で纏めた作品だ。加藤楸邨は隠岐への旅の直前に「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と詠んだ。楸邨の句はまだ東京にあってこれから行く隠岐への期待感に満ちている。兜太の句も北海道に鮭を食いに行く旅への期待と欲望に満ちている。雪後の天に怒濤を感じるダイナミズムと夕焼け空の色と形に肛門を感じる兜太のそれにはやはり師弟の共通点を感じる。言うまでもなく肛門はシモネタとしての笑いや俳諧の味ではない。食うがあって肛門が出てくる。体全体で旅への憧れを詠った句だ。こういうのをほんとうの挨拶句というのではないか。『蜿蜿』(1968)所収。(今井 聖)


 
横たわる鮭の涙目冬近し たけし

尖る歯を剥き出しの鮭下り簗 たけし

鮭遡る龍門の滝冬に入る たけし

言い分の貌にあらわる鼻曲がり たけし
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