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修行僧の手記 『利他の心』
愛媛宗務支所下 龍岡寺住職 渡部悠弘
修行の道場での厳しく制限された生活。その中でも、ごく限られた我々修行僧の”楽しみ”のようなものがある。一つは週に一度日曜日に設けられた、生活用品などの買い出しに山内のお店に出かけられる「外出時間」である。息詰まる修行生活の「ひと時のオアシス」とでも言えるだろう。しかし日常的に修行生活中に組み込まれながら、意図せずに私達の心を癒していたもの・・・・それは食自(じきじ・食事)の時だったのではないだろうか。精進ではあるが、カレーの時などは仲間たちのテンションが目に見えて上がっていたように感じたものだった。大きな法会の時のお供え物のお菓子のお下がりなど、普段ならさして嬉しくもないものかも知れない。しかし、このいろんな面において制限された環境におかれると、人の嗜好性や味覚までも変えてしまうほどの影響があるかもしれない。
二00八年五月五日(月)
本日は、人生初の「托鉢に行く」へ行く。
私達はこの托鉢でどんな事を感じとることが出来るのだろう。半人前にも満たさない私達のお経で、一体誰に何を施すことが出来るのだろう。甚だ疑問は残るものの、今自分自身で出来る事を精一杯やるしかない。そのお宅の幸せを祈り、至心にお唱えするしかないのだ。お大師さまのお誓いされた、世を救い人々の利益(りやく)を施す「済世利民(さいせりみん)」の一端を担うなどとは憚れることだが、少なくともその第一歩であることには間違いない。文字通り、これが私達の僧侶人生のスタートなのだ!!
専修学院の毎年の恒例行事「托鉢行」は高野山の麓の町、「九度山」で行われる。毎年のことなので、地域の皆さんは慣れたものである。我々修行中の僧侶の受け入れ態勢は万全、土壌は整っているという訳だ。恥ずかしながら、ドキマギとしているのは他でもない、我々の方だけということだ。まだ般若心経ですら覚えたての新米の修行僧。そんな私達の拙い読経に対しても、手を合わせて深々と頭を下げられ、ご浄財を差し出す方々。多くの人の「心」そのものを与かったようなものである。私達新米のお坊さんにとって初めての利他行・・・・誰かのための行を積むこと。でも、考えてみると私のこれからの人生はそうした、誰かのために何かを施そうとする、利他の人生になるのではないだろうか?
あの時、私のお坊さんの人生で「托鉢行」を行うのは、これで最後なのかもしれない。そう考えながらお経を唱えていた。しかし現在、我が愛媛青年教師会で、この度の東日本大震災の被災地への義援金を托鉢にて募る活動を展開中。私は自分が生活する地域全体を各戸一軒一軒托鉢させていただいているのだ。お宅の玄関先でお経をお唱えする度に、あの九度山での托鉢の記憶が蘇る。修行時代にたった一日だけ行った托鉢行。あの時はただ必死で、多くは汗と共に流れ落ちたように思う。だが今、あの時とは明らかに違う考えが胸の内から湧き上がっている。檀家さん以外の人々や宗派が違い、信仰が違う人々。お寺やお坊さんに対して、考え方も見方も違う若い世代の方々。あたたかいお心もあれば、冷たい視線も感じる中での托鉢の読経。
自坊の本堂で檀家さん達を集めた法会の中での読経とはまるで違う感触。こんな中でただ一心に目の前のお宅の為を思いひたすらにお唱えする。そしてその果てにお受けする、これまた誰かの為を思い差し出された「利他の心」。
私達が出来る事など、実はほんの些細なものでしかない。しかしこの多くの人々の小さいながらもぎっしりと詰まって重い、誰かの為を思った「心」を繋ぐ役目を担わせていただいていることに感謝しながら、私は今日も托鉢の読経をお唱えする。 合掌
参与770001-4228(本多碩峯)