果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

まんだら ー 曼陀羅ー

2011-05-29 14:54:47 | 日記・エッセイ・コラム
 

 

Amida17

郷里に建立 碩峯

 観音さんはどこに

 といえば、浅草にあるというが

 それは本当の観音さんではない。
    向こうにあるのは
 お互いの観音さんの影法師である。
自分の姿が映っているのですよ。
    外には何もない。
あるのは自分である。
私達は外にばかり気をとられていると、
掌中の珠を失ってしまう。

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如実知自心

真実のわが心を知る
          「大日経」
            碩峯書

まんだらのこころ

▼多数決は正しいのか
 ある村でお堂を建立して、そこにお地蔵さんか観音さんのいずれかを祀ることになりました。で、どちらのほとけさまを選べばよいか・・・・・・?

 この問題も、われわれ人間が決めることの出来ないものです。
 こう云われますと、どういうふうに決めればよいのでしょうう?何かいい智慧がありますでしょうか?
 必ずある人は多数決で決めればいいといいます。
 しかし、それは本質的に間違ったやり方です。
 多数決というのはこの場合は地蔵さんと観音さんの人気投票ならいいのですが、その場合はほとけさまに対する尊崇の念がありません。
 日本人は多数決は最も民主的でいいものと信じられていますが、多数決というものは本質的にいかがわしいものです。たとえば古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、多数決によって死刑になったとか、多数の人間が間違った判断をしたのです。ナチス・ドイツの出現も、ヒットラーは合法的に政権を獲得したといわれています。別段、クーデターを起こしたわけでもなく、暴力革命によって政権を獲得したのでもありません。多数の民衆の支持を得て政権の座に着多数の民衆の支持を得て政権の座に着いたのです。多数の人間が間違った判断をしたことになります。
 今日の日本の政治を観ていましても多数決だとか何々属とか云いまして多数をバックに政争が起こったりしておりますが、国民はその争点、或いは人間にとって何が真実なのかを見極める必要もありましょう。政治家として最も必要とする理念の持ち主であることが大切です。
 地蔵さんがいいか、観音さんがいいか、多数決で決めて、その人間の判断が間違っていない保障がどこにありましょうか?こんな問題に多数決を適用してはいけないのです。

 ▼神社のお祭りの御みこし

 それではどうしますか?「上半身は地蔵さん、下半身は観音さんにしますか・・・。それとも前半身が地蔵さん、後ろ半身は観音さん・・・そんな像をつくりますか・・・」と、こんな
会話が現実に起こりそうです。
 実際笑っていられい真剣な腹立ちさがおこりますね。
 お寺や神社の修復などのときに現実にこのような問題が起こっている。
 最終的に多数決で決定するという前提で議論がなされることなど見かけられると思います。
 多数決というのも、所詮は多数の人間の判断(それは本質的に「妄想」といってよい)に権威を与えるものです。端的にいえば、「妄想」を権威化するものです。そして、地蔵菩薩と観音菩薩の「合成仏」なるものをつくり上げてしまう。こうなったら正に人間の「妄想」です。
 こんなことをしたら唐時代の僧侶かまくもうそうなから――「莫妄想」(妄想する莫れ)――と叱られます。
 それではどんなやりかたがよいのでしょうか? 井深大と並ぶソニー株式会社のファウンダー(創業者)盛田昭夫氏。
 終戦の翌年、焦土の上に前身企業である東京通信工業を設立して以来、盛田は井深とともに半世紀にわたってソニーを慈しみ育て、国内外のあらゆる意味でのトップ・ビジネスへと導いてきた方です。私は1966年頃、スウェーデン国商社ガデリウスに勤務時、当時、世界的に優良品質のルーマ・ランパン社のモリブデン、タングステン・ワイヤーを担当し、ソニー株式会社がマイクロテレビの開発に取り組んでいました。盛田氏に何度かお目にかかりカソードヒーター用に採用して頂きました。その後、盛田さんは研究者として、更に経営者としても勝れた才能を発揮されたことはあまりにも有名です。盛田さんは「アメリカの経営手法はボート経営、日本の経営は御みこし経営」といわれていました。
 ボートの競技を見ますと目的であるゴールを見つめているのはコックス唯一人、他の漕ぎ手はマルっきり反対方向を向いて一心不乱に漕いでいる。これに対して祭りの御みこしは小さな御みこしを体力のある大勢の男が、お宮さんに通ずる路を担いで通るのですが、よく観察すると誰一人目標に向かって担いでいるとは思われない。ある者は左の方向に、ある者は右の方向に、ある者はお宮とは反対方向に力を入れて担いでいる。御みこしは波のうねりの如く練り歩く。それでも時間にはゴール地点のお宮の鳥居をくぐる。
 盛田昭夫氏はボート競技は時間を争うことは勿論ご承知の上、経営工学とでも云いましょうか、これに対して、経営は一度の勝負を試みるのでない。御みこしは担ぎ手が一人一人役目を荷い、正に曼荼羅(まんだら)です。以前に紹介しましたサーカー競技がこの御みこしに共通した心を持っていると考えます。全員がルールの中で犯してはならない行為を認識実行し、残りの無限の行為を駆使し、観客も一喜一憂する。実はここに大切なことが含まれている サッカーボールの動きの軌跡が御みこしの練り歩く軌跡に等しい。

 ▼役割分担の思想

 どちらも一人一人がしかもその観客までも役割分担をしている。正に曼荼羅です。
  空海密教の曼荼羅の中心は大日如来ですが、大宇宙という虚空の中にすべてが役目を持って生かしあいしている絶対的実在でありますように、サッカー競技や御みこしもみんな、それぞれ自分の役割を持っているのです。
 企業でも社長には社長の役割、守衛には守衛の役割があります。その役割においては上下はありません。それが「まんだらのこころ」です。
 観音さまとお地蔵さまとお釈迦さまいずれが偉いか?
 空海密教でも観音さまと地蔵さまと或いはお釈迦さまと大日如来といずれが偉いか?
 ピラミッド型組織を前提にすればお釈迦さまが一段上であるかもしれないし、大日如来が一段上であるかもしれませんが、「まんだら」の―精神からすれば、どのほとけさまにもお任せしてしまうのです。もしかすると任された地蔵さんと観音さんが「君が行ってくれたら、いや、あなたが行ってあげたら?」譲り合うのでしょうか、それともジャンケンで決めるの
でしょうかね。それなら村人達がジャンケンをして決めたらよいのです。その心が争いのない決め方だと思います。昔から純情な子供達の楽しい遊びの中にジャンケンがありました。勝ち負け関係なくお寺の鐘が鳴るとわが家路に帰って行きました。

 ▼ほとけも人間も、

   すべての生き物が同格平等

 実はこの仏さまにお任せする方法は真言密教にあります。
       ――投華得仏(とうげとくぶつ)――
 といって、古くから使われてきた方法です。
 真言密教では入門の儀式に「結縁灌頂」(けちえんかんちょう)が行われてきました。「灌頂」といいますのは、頭頂に水を灌ぐ儀式です。これは昔インドの王様が即位したとき、四海の水でもって灌頂の儀式をやったことにちなんだものです。
 真言密教では、まず信者になる者に結縁灌頂の儀式を受けさせます。”結縁”とありますように仏さまと縁を結ばせるのですね。
 しかし、ほとけさまと縁を結ぶといっても、仏教には数多くのほとけさまが存在しています。信者はどのほとけさまと縁を結んでいいのかわかりません。そこで、縁を結ぶほとけさまを決めるかためとうに、「投華得仏」(げとくぶつ)がおこなわれます。
 実はここが非常に重要なのです。
――どのほとけさまであってもよい――のです。何故ならどのほとけさまも同位同格だからです。一番偉いほっとけさま存在いたしません。
 空海密教では、大日如来が一番偉いのではないか・・・。と言われる方がおられますが、大日如来は他の諸仏諸尊と次元の違った仏であって、大日如来はが他の諸仏より「偉い」わけではありません。それに、「まんだら」の思想においては、ほとけさまと人間は同格です。ほとけさまと人間ばかりでなく、あらゆる生き物が同格です。ほとけさま・人間・動物・植物、すべてが同格です。
 キリスト教においては、神と人間の間には断絶があります。神は人間より無限優位に立つ存在であり、人間は神の前に唯ひれ伏すばかりです。
 しかし仏教においては、ほとけと人間に断絶はありません。キリスト教においては、人間は万物の霊長として他の動物を支配する立場にあります。人間は文句なしに「偉い」のです。他の動物より優れ存在として神に造って頂いたのです。
 その意味で、キリスト教の考えた方はピラミット的です。
 仏教は違います。仏教においては、人間と他の動物、植物とは、みんな同じ存在です。人間のほうが「偉い」といった考えがありません。
   ――出会いの偶然性――
 を尊びます。偶然に出会ったその出会いを喜びたいが為です。 お地蔵さんか観音さんか、私達村人が決めるのではなく、お地蔵さんと観音さんに委ねます。そうすると、そこに偶然性があります。御みこし、サッカーでもその進行に偶然性があるからすばらしいのです。これが「まんだら」の考え方です。

 ▼ほとけさまに出会えてよかった!

 投華得仏(とうげとくぶつ)の儀式は、具体的には、結縁灌頂を受ける信者が目隠しされて、曼荼羅の前に立たされます。
 曼荼羅というにのは密教寺院にある仏さまがいっぱい描かれた図です。ここでは簡単な説明にします。
  曼荼羅とは、
  ――ほとけさまの集合体――
と考えて下さい。曼荼羅を床に敷き、目隠しきみしされた信者が華(櫁)を曼荼羅に投げます。その華は曼荼羅に描かれたいずれかのほとけさまの上に落ちます。お地蔵さんの上に華が落ちた人はお地蔵さんを阿弥陀さんに華が落ちた人は阿弥陀さんを観音さんに落ちた人はそのほとけさんをいつも大切に念じ続けるのです。これが「投華得仏」(とうげとくぶつ)です。
 何事も偶然の出会いだと認識すれば、その偶然の出会いを大切にし、確信するまで高めてゆく努力がなされます。つまりいつもゼロからのスタートです。
 「投華得仏」(とうげとくぶつ)で出会ったほとけさまの方から選んでくださったのだとと認識して「そのほとけさまと出会ってよかった!このほとけさまこそ、私の仏さまだ!」といえるようにしっかり拝むのです。
       終わり

平成11年元旦号「観音たより」 発行・編集人本多碩峯