果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

曼陀羅の心  生か せいのち

2011-12-02 20:05:52 | 高野山
 

Koyasan_sinpo_2
 

曼荼羅の心 

             吉武 隆善 (大分県中津市 弘法寺の住職)

 もみじの季節になりました。私が住んでいる大分県耶馬漢(やばけい)は、全国的にももみじがきれいなところです。以前、私は高野山に住んでいましたが、大門から少し東に行った伽藍の手前のもみじは、オレンジと黄色が混ざったような色が朝日に反射して心が純真になるような色でした。テレビで見た嵐山のもみじは、それは鮮明な赤色でした。所が変わればもみじの色もいろいろと変わるものだなあと、つくづく感心しました。しかし、それもやがて落ち葉となって散ってしまいます。実に無常であります。

 「無常」とは仏教用語で、この世の万物は常に消滅流転してはかないものだ、という意味です。このように日常生活の中に溶け込んでいる仏教用語がたくさんあります。たとえば「精進する」とは、読んで字のごとし、精を出して進んでいくと いうことです。つまり、目的に向かって努力するといった意味です。また、「方便」という言葉もよくロにします。嘘も方便のように使いますが、方法を便利に使うというと ころから方法や手段のことを言います。止むを得ず嘘をつくことがあって も、それは相手のことを考える方法や手段の中で 嘘をついたということになるのです。

Img003

 「因果」という言葉もよく耳にします。これも読んで字のごとし、原因があって結果があるということです。もみじは夏の間は青い葉ですが、太陽の光と秋の朝夕の冷え込み、雨の量などの原因をもらって、その結果赤くなるということです。ですから高野山のもみじはオレンジがかった色でしょうし、嵐山のもみじは鮮やかな赤、耶馬渓のもみじは真紅なのでしょう。そのもみじのどれがすばらしいか。好みはあっても、どれが良いかは言えないでしょう。

  私たち人間はどうでしょうか。私たちはみんな父親と母親から生まれてきます。父と母が結婚するという原因があって、その結果私たちは生まれてきます。また父や母やほかの家族にいろいろな育て方をされてきたと思います。家族構成もいろいろでしょう。だから十人十色といって、それぞれの顔、容姿、性格を持っています。そんな中で誰がすばらしい、誰が劣っているということがあるでしょうか。みんな違うからそれでいいのです。

 

 皆さんは曼荼羅をご覧になったことがありますか。曼荼羅には実にたくさんの仏さまが描かれています。優しいお顔をした如来から菩薩、また憤怒相の怖い顔をした明王や天、近くで見ると本当にさまざまな仏さまが描かれています。そんなたくさんの仏さまが入り混じって、調和と秩序を表し、私たちに安らぎをもたらせてくれます。曼荼羅は大日如来を中心にして、内に外に上に下にとお互いに供養しあう仏の世界を表しています。相互に札拝し、供養する尊厳な関係があります。

  いろいろな個性をもった私たちが、この曼荼羅のようにお互いを相互礼拝し相互供養すれば、この世が曼荼羅の世界、密厳国土の世界になるのです。それがお大師さまの願いです。一人ひとりが個性を生かしながら、曼荼羅のような世界をつくっていきたいものです。

参与770001-4228(本多碩峯)

 

 



 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


今、よみがえる『中門』  大いなる御誓願の追想

2011-12-02 16:40:50 | 高野山
 

Shinpo04
 

 

今、よみがえる『中門』

 

          ~大いなる御誓願の追想

        高野山開創千二百年記念大法会事務局

 

金剛峯寺が管理する森林は、二千ヘクタール(大阪ドーム約六百個分)もの広大な面積に及びます。

Nakamon_zai_1
 この度、八期中門の再建工事に用いられる木材は、この森林から産出した樹木を用います。このうち、主な用材であるヒノキは、樹齢三百年から四百年生のもので、 幹廻りは二メートル以上にも及ぶ見事な大径木です。

Nakamon_zai_2

 これらの優良なヒノキを産出する森林は、数知れない大師末徒のお力添えによって、先人が植樹、間伐など、適正な森林監理を行うことによって、育まれたのです。そして、私達の時代の中門再建工事に使うことが出来たのです。

  樹木は伐採された時点で、植物としての生命は終わりますが、育まれた土地で建造物となることで、千年以上存在し続けることが可能です。

  まさに樹木は形を変えて、「活かされて、生きていく」と言い換えることができるのではないでしょうか。

Nakamon_zai_3_2

 しかし、優良な木材、優れた建築技術、そして大師未徒の思いだけでは、再建された中門は末永く存在することはできません。

 個々の建造物には、それにまつわる文化があります。そして、その文化を守ってきた要因があります。
 高野山の場合、周囲を取り巻く自然、特に森林が存在したからこそ、真言密教という宗教文化が今日まで伝わり、私達大師未徒がお大師さまのみ教えに触れることが出来たのです。

  「密教文化の継承」と「森林の保全」は、これらを共に行っていくことが「高野山を守っていくこと」、つまりは「お大師さまのみ教えを後世に伝えていくこと」、ひいては「再建される中門を末永く後世に伝えていくこと」となるのです。

 お大師さまのみ教えには、「共利群生」という言葉があります。この言葉は、自然と人とがバランスを保ちながら、調和し、共に存在していくという意味です。

 平成二十七年の「高野山間創千二百年記念大法会」は、まさに「共利群生」を今一度考え、省みる絶好の機会であり、「中門再建」は、そのシンボルなのです。                            (TS

参与770001-4228(本多碩峯)

 

 

 

 

 

Nakamon_zai_3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




一年を振り返って         高野山新報

2011-12-02 12:26:17 | 高野山
 

Koyasan_sinpo
 

一年を振り返って

 総本山金剛峯寺執行長

 高野山真言宗宗務総長

                       庄 野 光 

 

Matsunaga_kancho

 

Ichinen_furikaeri_2
 

本年は災害の多い年でありました。三月十一日発災の東日本大震災にはじまり、台風六号・十二号・十五号の来襲、極地的な集中豪雨などにより各地で大被害を被りました。さらに、福島第一原子力発電所の事故による放射能の拡散という事態まで発生しました。

  本宗におきましては、大震災発生当日に災害対策本部を立ち上げ、現地へ担当者を派遣し被害調査にあたり、援助物資の配付に着手しました。一方で、全国の寺院教会に義捕・支援金の拠出を依頼し、被災地の自治体、関係宗団へその金員をお届けし、被災した寺院教会へ復興助成金の配布をいたしました。現在は、宗教家の使命である「心のケア」を中心とした料援活動に取り組み、足湯隊による傾聴ボランティアと森林セラピー活動を続けています。

 資金を提供していただき、かつ地道で献身的な救援・支援活動を続けていただいている皆様方に衷心より敬意を表し、感謝申し上げます。

 明るい出来事もありました。三年後に迎えます「高野山開創千二百年記念大法会」の最大の事業であります「中門再建」の地鎮祭を七月十五日に松長有慶座主・管長現下のお導師のもと厳修いたし、いよいよ再建に着手いたしました。

 明春には法要日程を確定し、いよいよ実動体制に入ります。

 大法会の気運を盛り上げるために、事業内容につきまして、随時各部門より情報を発信して参ります。

  国際交流におきましても成果をあげることができました。

 念願でありました米国における現地法人の資格を取得することが出来ました。これによりまして、停滞気味でありましたアメリカにおける国際布教の宣揚に道筋がつけられることになります。

 高野山大学創立百二十五年記念事業として、ダライ・ラマ法王十四世のご来山を得ました。講演・対話をはじめ、チベット密教金剛界マンダラ港頂を開蓮していただき、感動と感銘を多くの参加者に体感いただきました。

 また「日本イタリア文化交流記念大会」が大師教会大講堂におきまして大々的に開催されたとともに、管長祝下の名代として四之宮東京別院主監を団長とする、声明・雅楽団がフィレンツェ・ヴエツキオ宮殿で公演し、ヴァチカンを表敬訪問をいたし、イタリアとの国際交流を深めて参ります。

 読者各位には、なお一層の宗・本の護持・興隆のためのご協力を懇請申し上げますとともに、新しい年が輝かしいものでありますようお祈り申し上げます。      合掌 

参与770001-4228(本多碩峯)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ご縁をいただいて高野山へ     

2011-11-19 17:32:24 | 高野山
 

Koyasan_sinpo
ご縁をいただいて高野山へ          

           ▽筆者は大分県中津市の 弘法寺 住職 吉武 隆善
         
 皆さんは高野山へお参りされたことがありますか。高野山は宗旨、宗派にかかわらず誰もがお参りできる、とてもすばらしいところです。私は先日、駐在布教のため久しぶりに高野山へのぼらせていただきました。駐在布教とは、大師教会において十善の戒をお授けすることと、金剛峯寺の新別殿において、お参りさ
れた方に本山を代表してご挨拶させていただきお話をさせていただくことです。 そこでいつも感じるのは、高野山にお参りされる方々が種々様々であることです。年齢も赤ちゃんから高齢の方までおられますし、日本のみならず外国からもたくさんの方々がお参りされます。
 私は金剛峯寺にお参りされた若い男の子や女の子たちに、どうしてお参りに来たのか訪ねてみました。答えは決まって「ただ何となく」です。私が「弘法大師って知ってる?」と開くと、「教科書で見たことがあるけど、あまりよくは知らない」と言います。しかし、そのあと必ず言うのが、「知らないけど何か高野山っていいところやね。来てよかった」という言葉です。そこで私は、「こうしてお参りできるのは、高野山やお大師さまにご縁があったということよ。そのご縁を大切にしてね」と言います。

 

Img003

 高野山は今から約千二百年前の八一六年、弘法大師によって開かれたところです。最初お大師さまは京都の東寺にいらっしゃり、たくさんのお弟子さんたちを見ておられました。しかし、京都は多くの人で賑わい、弟子たちがついきれいな女の人に気がいってしまい修行に専念できないので、どこか修行に適した場所はないかと考えたのでした。そしてお大師さまは、昔登ったことがある山のことを思い出されたのです。その山は深山幽谷の地で、その形はまるで仏さまの座布団のような蓮の形をしています。そこに国家と修行者のための道場を開こすと思いました。そして何より、お大師さまは高野山をご入定の地としてお選びになったのです。
 お大師さまはご入定なされる前に、このようなお言葉を残されています。「虚空尽き、衆生尽き、捏磐尽きなば、我が願いも尽きなん」ー1この世がある限り、この世で迷い苦しむ人がいる限り、私は最後の一人まで救いますよ、とおっしゃっておられます。まさに気の遠くなるような月日です。
 またお大師さまは、ご入定される前にすべてのお弟子さまをお集めになられ、このようなお言葉も述べられています。「これからは、このようにみんなと会うこともなくなるでしょう。そのときには絵に描かれた私の姿、石や木に刻まれた姿を私だと思って、私の名前を呼んでください。そのときには体を幾千万にでも分けてその方の傍に行き、その方たちをお救いしますよ」
 何十人、救いを求止の身を幾イお救いすり慈悲のお心でしょう。そんなお大師さまが今もいらっしゃる高野山だからこそ、みんなは何かしら引き付けられ、ご縁をもらってお参りできるのです。

 参与770001-4228(本多碩峯)


浄土思想と説話

2011-11-18 21:47:27 | 高野山
 

Koyasan_sinpo

 

文学に見える高野山千二百年点描

 

浄土思想と説話

 

 高野山高等学校教諭 山本 七重

 

 今回は、鴨長明(二五五~一二一六)が鎌倉時代に書いた 『発心集』という仏教説話集の中にでてくる「高野の南筑紫上人、出家登山の事」というお話をご紹介します。あら筋は以下の通りです。

 

 主人公は、南筑紫上人と呼ばれる人物で、もとは九州において莫大な財産を所有していた豪農でした。ところがある日、自分の財産の多きに疑問を持ち、財産も妻子も捨て、裸同然の姿で東方に向かって歩きかけました。そのことを知った十二、三歳の娘が父を連れ戻そうとして、その袖にすがるのですが、父は娘に向かって刀を抜き自らの髪を切って出家の意志の固いことを示します。その後、この南筑紫上人は高野山へ登り学問修行に励み極楽往生を遂げる、というもの。

 

 さて、この『発心集』が書かれた鎌倉時代は、高野山をはじめとして全国的に浄土思想が盛んでした。この浄土思想とは、ごく簡単に説明しますと、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを願うもので、ひたすら念仏を行いました。日本では特に源信(九四二~一〇一七)の『往生要集』という書物が大きな影響を与えたといわれています。

 

 『発心集』 の作者である鴨長明も晩年、この『往生要集』を座右において愛読したとのことで、『発心集』 の各説話にもその痕跡が見られますが、この「南筑紫上人」の説話も、浄土思想の風が高野山まで吹いてきた中で、現世ではなく、来世を真剣に求めた僧の話として、賞賛されています。

 

また、この説話には、浄土思想と同時に人間が持つ「執着」について脱する事の大切さも説かれています。

 

 この説話の最後の方の言葉は「惜しむべき資財につけて厭心を発しけむ、いとありがたき心なり」(普通の人間であれば当然惜しむであろう財産を因縁として、出家する心を発こしたのはめったにない、すばらしいことである)となっていますが、これは、遁世者の名誉や財産をいかに克服するかという大きな課題に対する例話としてかたられたもので、原文をご紹介できずに残念ですが、緊張をもった美しい文章で語られています。

 

 仏教では、地位や名誉、あるいは財産など名利を否定し、修行を進めますが、この話も財産の否定とともに修行による往生を勧めたものです。

 

 この説話から私たちも、「物にとらわれない心」について考えたいものであう。

 

 なお以下は余談ですが、日本語には「掛詞」(同音異議を利用して、一語に二つ以上の意味を持たせる)や「縁語」(言葉と意味以上の縁ある言葉)などの特性がありますが、学生時代にこの説話を勉強した時、ユーモアーのある国文学の先生がクイズを出され「袖にすがって引き留めようとした娘に、父親は刀を抜かずに何といえば良かったか」と質問された。ある学生が、「離せばわかる(話せばわかる)ですか」と答えると、先生すかさず「座布団二枚」と言われ、教室は笑いに包まれた。・・・・・・学生時代の古典文学に関する楽しい思い出です。                                       合掌

 

Sashie02
       参与770001-4228(本多碩峯)






無意識の思いやり   生かせいのち」

2011-11-01 19:00:45 | 高野山
 

Koyasan_sinpo
     無意識の思いやり

        吉武 隆善(大分県中津市弘法寺住職)

 

 思いやりには二通りあると思います。一つは意識を持ってやる思いやり、もう一つは無意識のうちに出る無条件の思いやりです。私たちは大人になって、その無意識の思いやりを忘れかけているかもしれません。

  数年前、電車に乗って出かけたときのことです。私は始発から乗ったのでゆっくりと座れましたが、駅に止まれるにつれて立つ人が増えてきました。そのとき一組の老夫婦が乗ってこられました。すぐにでも代わってあげたいと思ったのですが、その老夫婦から私の座席まで少し距離があり、電車の揺れでここまで来るのは大変だろうと思って、なかなか声を掛けられずにいました。

  そんな折、一人の人が「ここに座ってください」と座席を空けられました。声を掛けられたのは私より後ろの席の方でした。老夫婦は人ごみをかけ分けて、私の座席の横を通って、声を掛けてくださった方の座席へと嬉しそうに行かれたのでした。私は何とも恥ずかしい気持ちで一杯でした。何も考えず「こちらへどうぞ」となぜ言えなかったのか、後悔ばかりが後を絶ちませんでした。

Img003_2

 私たちは何かするにあたって、頭の中で考えて気構えてしまうところがあります。そして、それがかえって仇になってしまう場合があります。良いと思ったことをすぐに行動に移せなくなってきました。困っている人がいれば、さっと手を差し伸べられる行動、誰かのために無意識に出るやさしさ、それが仏教でいう「慈悲の心」なのです。

  入院している友達のお見舞いに行った帰りのことです。友達の病室を後にし、エレベーターに乗り込みました。途中の階でエレベーターが止まると数人が待っていて、その中に、三歳ぐらいの子供を抱いたお父さんらしき人とパジャマを着たお母さんらしき人が仲睦ましく話をしていました。入院しているお母さんを、お父さんと子どもがお見舞いに来たのでしょう。子どもは、「ニコニコ」してお母さんの言うことを聞いています。

  みんながエレベーターに乗り込み、その子もかわいい笑顔で「また来るね」と言いながらお母さんに手を振り、最後に乗り込みました。そしてエレベーターのドアが閉まるや否や、男の子はお父さんの胸に顔を埋めて「お母さん」と泣き出したのです。今まで笑顔だった子どもが、母の姿が見えなくなったことを確認すると同時に、「ワァーワァー」と泣きだしたのです。

  我慢していたのでしょう。母の前で泣けば母が悲しい思いをします。それを知ってか知らずか、我慢していたものを吐き出すように泣いたのです。お父さんは「また来ような」と言いながらわが子の頭を撫ぜていました。わずか三歳の子どもが母のことを思ってしたこの行動に何の策略もありません。これこそが無意識に出た無条件の思いやりだと思いました。

  般若心経の中に無意識界という部分が出てきます。これは、意識で見る世界ではないということです。意識せずに、ただ本心のまま出てくるやさしさこそ、本来の仏の心であります。日々の生活のなかで無意識に出るやさしさ、慈しみの心を磨いていきたいものです。

参与770001-4228(本多碩峯)


覚海上人の七生譚

2011-10-25 14:13:59 | 高野山
 

Koyasan_sinpo

文学に見える高野山千二百年点描く 

 

 

覚海上人の七生譚

 

 高野山大学教授 下西 忠    

 

高野山増福院の門前に「覚海大徳翔天之菖跡」と大きな石碑がありますが、それは覚海が仏法の護持のため天狗になって、中門の扉を翼にして天に飛び去ったという伝説によって書かれたものです。高野に登山した谷崎潤一郎がこの伝説をもとに 『覚海上人天狗になる事』という小編を書き

 

ましたが、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』には、検校覚海が七度生まれ変わったという前生譚が書かれています。前生とは、この世の中に人間として生まれてくる以前に生を受けていた世の意で、前世のことをいいます。

 

覚海は貞応二年(一二二三)八月十七日、八十二歳で亡くなりました。武家が台頭し、保元の乱、平治の乱を通して平氏が実質上の政治的実権を貴族から奪い取ったいった時代、さらにその平氏が源頼朝に敗れ、西海の藻屑となり滅亡していった世の激動期を生きた人物でありました。また承久の乱の顛末(てんまつ)を見聞したであろうことを考えると、覚海は、ある意味で日本の大きな激動期にその生涯を生きたことになります。また彼の没年、貞応二年といえば、延慶本『平家物語』によれば、平氏の象徴ともいえる平清盛の女(むすめ)、建礼門院(高倉天皇中宮、安徳天皇母)が波瀾万丈の生涯を閉じた年でありました。

 

覚海は建保五年(一二一八)に高野山の検校になり、承久二年(一二二〇)検校の職を辞しました。高野山の検校までのぼりつめた覚海は、前生を知ろうと弘法大師に祈念したところ、大師は彼の七生、つまり天王寺の海の蛤(まぐり)であったのが、あるきっかけで犬となり、さらに牛、そして馬になって熊野詣をし、さらにすすんで最終的に高野の検校になっているのだと告げたというのです。舎利讃歎の声、誦経(じゅきょう)、念仏、陀羅尼なんどの声を聞くたびに転生していったというのです。天王寺から熊野、そして高野というルートはさまざまな想像をかきたてますが、ここでは紙面の都合ではぶくことにします。

 

天仁三年(二一〇)大安寺で行われた百数十日間の法談を記した『百坐法談聞書抄』に悪業のみつくる男の前生譚が伝わっています。閻魔王の前に連れていかれた男は、法華経を読んだ功徳でもって現在僧侶となつていると答えると、閻魔王はこの男の七生の先の事を知らなかったと恥じて、いよいよ仏法を修行せよと帰したという話があります。何事においても結縁は空しからずということでありましょうか。

 

 

 

 

 

 

Sashie01

参与770001-4228(本多碩峯)


加行への道       修行僧の手記

2011-10-24 14:26:07 | 高野山
 

Koyasan_sinpo

 修行僧の手記 高野山専修学院物語~その七~

 加行への道

  愛媛宗務支所下 龍岡寺住職

                           渡部 悠弘

 二〇〇八年七月二十四日(木)

 

私達が、春からの僧堂生活を始めて三カ月ほどが経過した。そして第一学期の総まとめである期末の試験が行われる。しかし試験が始まるからといって、当然そのための時間が与えられる訳ではない。普段通りの生活を淡々と過ごしながら、自分で予習の時間を作っていく。いつもと変わらずに、仏さまと向き合いながらの生活の中で、それぞれの思いを胸にして時が過ぎ去っていく。そしてこの日、三日間の試験を終えて一学期が終了する。その後約二週間の間、我々はそれぞれ自坊へ戻り、忙しい〝お盆″の時期の加勢をするのだ。

 この僅かな休暇を終えると、いよいよ真言僧侶の必須の行。百日間の「四度加行」が始まる。ここまでの修行生活が厳しく抑制されたものであったのは間違いない。しかしひと度「加行」が始まれば、規制は更に強まることになる。時間制限付きで使用可能だった寮の公衆電話も撤去され、更に新聞など外界からの情報も一切断ち切られる。週に一度の買い出しの外出もなくなる。生活必要品は、斑でまとめて頼む形で購入し、徹底して厳しくチェックされる。このように加行の間の規律は完全に強化されるのだそのため加行を目前に控え、道場内には一種独特の緊張感が漂い出す物々しい雰囲気の中、どんな事が待っているのか解らないまま、私はただその時を迎えるしかないのだ。

  数日前のことだ。朝のお勤めの時に誰かが先生に注意されていた。どうやら、読経の時の態度が怠惰な感じだったからだ。両手に持つ経本の位置も低く、アクビをしながら疲れている様子だったらしい。先生が注意する内容を聴いていて、大体の察しはついた。いつもなら激しい口調で指導されそうなものだが、何故かその時は声を荒げる訳でもなく、落ち着いた静かな冷たい声色で「君達のその読経の態度は正しいと思うか?決して経文を粗末に扱ってはいかん」。そう、諭されたのだ。

Kagyo_2

 我々が専修学院での僧堂生活を始めて三カ月。

 私達は一体何のために修行をしているのだろうか。自坊の跡目を継ぐためだろうか?ほとんどの人間がそうだろう。自分自身の精神を鍛えるために?自らの人生を見つめ直すために?そんな者もいるのかもしれない。しかし、実はそれはほんの表面的なもので、我々が求めなければならないのは、そのずっと奥に在るもの、そう、お大師さまが命を懸けてお誓いなされた「衆生済度」の実践であり、微力ながらもお大師さまの御願にお応えするその姿勢である。

  これから「加行」に入れば、ひたすら目の前の本尊さまと向き合う行に徹することになる。それは即ち自分自身の内面奥津くに対時することに他ならない。しかしそうして突き詰めた先には、再びその心を人々へ向ける行が待っている。普段の周りの仲間達と関わる生活も、「加行」 での個々での修行も、別々に見えて実はその奥で繋がっている。つまりお経に記される一旬一旬の文字の旬義を捉え、大切にお唱えするということこそが「加行の道」 への最初の一歩として重要な歩みとなるものだと感じたのだった。

                               合掌

        参与770001-4228(本多碩峯)


台風十二号 災害ボランティア活動を実施 高野山高等学校

2011-10-22 18:43:15 | 高野山
 

41
台風十二号 災害ボランティア活動を実施

 高野山高等学校ではこの度の台風十二号による被害に対し、岡部観栄学校長指揮下、校内において災害ボランティア隊を結成。平成二十三年九月十日(土)、和歌山県東牟婁郡古座川町でボランティア活動を実施した。

 今回参加した隊員二十名(男子生徒八名、女子生徒五名、教職員七名)は十日、午前六時にマイクロバスで学校を出発。龍神スカイラインが今回の台風による土砂崩れで通行禁止のため、花坂から海南に抜け、紀伊半島を直下、一路古座川町に向かった。古座川町は串本のすぐ南に位置し、古座川は全国でも有名あさな清流。

 ボランティア隊は午前十一時、古座川町ボランティアセンター本部がある古座川町中央公民館に到着。関係者の皆さまから歓迎のお言葉をいただいた。昼食後、すぐに今回作業する高瀬グランド(若者広場)に移動。担当者のご説明によると、グラウンドを囲む金網(約三m)の高さまで水が押し寄せたという。近くにある老人ホームも民家も一階が浸水。ボートで避難したとのこと。想像を絶する光景。お年寄りもおられ、どれだけ怖かったろうか。グラウンドの入口付近には各ご家庭からだされたか家財道具やごみ等が山積みになっており、処分の手も間に合わず、そのままになっている。

 今回の任務はグラウンドの傍にあるクラブハウスと倉庫の片づけ。泥にまみれた備品を全て外に出し、屋内を清掃し乾かす。真夏を思わせる炎天下、皆黙々と活動し、午後三時に予定の作業が完了した。本部に戻り、作業終了の報告。午後四時、皆さまの温かい笑顔にお見送りいただきながら帰途についた。ほんの三時間程の作業だったが、如何に過酷であったかは、帰路の車中の静けさが物語っていた。

 しかし、現地では明日からも作業は続く。かなりの長期戦が予定される。皆さまのご健康と、日本有数の景勝地として名高い古座川町に一刻でも早く戻られることを心から祈りたい。

Photo

Photo_3

Photo_5

2_2

22

23

31

32

33

以下に、今回のボランティアに参加した生徒たちの感想をお伝えします。

自分の目で見て驚く     宗教科三年 金尾 采花

 TVでは被災地の映像を見ていましたが、自分の目で直接見て、言葉になりませんでした。女子は若者広場にある、クラブハウスの清掃を担当しましたが、浸水で壁や天井がボロボロで、床には泥や水が溜まっていました。

 今回は、一つの部屋だけに集中したので、床もきれいになりましたが、天井はいつ落ちてもおかしくない状態です。地元の皆さんは本当に大変な思いをされています。

被災された人たちに教えられ      宗教科三年   鈴木 透馬

 自分は、今回初めて「被災地」という場所にボランティア活動に行きました。現場はどのようになっているのか、被害はどれぐらいなのか、いろいろなことが頭をよぎりました。いよいよ作業場所に到着し、倉庫の片づけを担当しました。中はすべて水浸しでした。片づけをしながら、「台風十二号でこんなにたくさんの被害が出ているのなら、東日本ではどれだけの被害が出ているのだろうか」と改めて自然災害の恐怖をしりました。

 しかし、そんな中でも気付いたのは、被災された人たちの姿です。一番辛い思いをされているはずなのに、くじけず、前に進んでいく姿を見て、僕も頑張らなければと思いました。今回、このボランティアに参加できて、学ぶことが多くありました。

 

 復興のご苦労を知る   宗教科三年   桑原 良碩

 今までテレビでしか見たことがない。被災地に行き、お手伝いするという貴重な体験をさせていただきました。 

 思ったことは、やはり、その場でしか分らないようなことがたくさんあり、皆さんが復興のためどれだけご苦労されているかが分りました。少しでもお手伝いができて良かったです。

 

 人のお役に立ちたい     普通科三年  桝田  岳

 私が今回ボランティアに参加したのは、何か人の役に立ちたいからでした。一人でも多くの人を助けてあげたい。じっとしていられない。東日本大震災が起こった時、私は本当に心が重苦しかったです。僕が行けば、何人かの人が少しでも早く助かるかもしれないのに。ですから、担任の先生から今回のボランティアのお話を聞き、すぐに参加を決意しました。

  現地の方々は、大変な被害を受けているのに、ほとんどの人が笑顔で迎えて下さいました。心の強い人たちだなと思いました。作業は本当に大変でしたが、ボランティアセンターの方に「助かったよ、ありがとう」と言って頂き、またこのような機会があれば、参加して、少しでもお役に立ちたいと思いました。

 

普通の生活に感謝       宗教科一年 片山 雅夫

 

 台風十二号の被災地に行かせていただき、思ったことは、自分がいかに恵まれているか、普通の生活に感謝しなくてはならないということです。これまで、いつも自分は普通の生活に不満をもっていました。ですが、被災地の状況を見た時、自分がいかに恵まれているかということに気付きました。

  これからは毎日の生活に感謝し、積極的にボランティアをしたいと思いました。

 

自然の怖さを初めて知る       普通科一年 阪口 和博

   ボランティアに行かせて頂いて思ったことの一つは、僕らにできることはわずかであるというここです。倒壊した家のが往きの撤去等を想像していましたが、実際にできにのは、倉庫の整理だけしした。三時間半ほどの仕業でしたが本当に大変でした。次に行くことがもしあれば、もっと動いて、被災した人達のお役に立ちたいと思います。

   二つ目に思ったことは、ゴミの量と臭いです。木の破片やタンス、機械本など、様々な物が捨てられて、山のようになっていました。それを見て、僕は自然の怖さを初めて知りました。近くには普通の住居や介護施設などがあり、大量のガレキから出る臭いの中で毎日暮らすのは本当に大変なことだと思いました。

  僕達は今回、倉庫の整理しかお手伝いできませんでしたが、少しでも、ほんの少しでもお役にたてるよう心がけたいです。

                     参与770001-4228(本多碩峯)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2



Photo_4



Photo_2

 

 

 


仏の世界  生かせ いのち

2011-10-19 11:42:23 | 高野山
 

Koyasan_sinpo

仏の世界           生かせ いのち 

 

                    古武隆善(大分県中津市 弘法寺 住職)

 障害者ふれあいサマーキャンプに当時小学校三年生の息子を連れて参加したことがあります。今まで障害者と関わったことがない息子が、変な目で見ないだろうか、妙な言動を発しないだろうか。いろいろなことが頭に浮かび、とても不安でした。

 現地に着くと、地元の大人、子ども、障害者とその付き添いの方、そしてレクリエーションボランティアの方がいました。年齢もさまざまで、幼時から長年者まで幅広い層でした。たくさんのゲームをして、みんなが一つになり、たくさんの笑いがあり、大変楽しい時間を過ごさせてもらいました。なかでも一番うれしかったのは、息子が何のこだわりもなく障害者の人たちの中に入りこみ、楽しく遊び、お話していたことでした。

 私にも同じような思い出があります。小学校三年生から春休みを利用して、自坊の団体でお四国を各県ずつ四年間かけてお参りしました。

Img003
そのとき、大学生のお姉さんと一緒でした。、お姉さんは小さい頃の高熱が原因で、足と手と言語に障害をもっていました。話すのが少し不自由でしたが、とてもやさしく、ユーモアたっぷりの方でした。私はお姉さんにべったりついて手をつないでお参りを続けました。やさしいお姉さんができたことがうれしく、お姉さんの障害についてはまったく考えも感じもしていませんでした。

 しかし、高学年になったとき、お姉さんに寄せられる人の目が気になるようになりました。今までお姉さんの障害のことを深く考えていなかった私ですが、お姉さんと一緒にいたら私も同じだと思われると思い、お姉さんの手を振りほどいて先にどんどん歩き、言葉も交わさなくなったことを覚えています。心の中ではいけないとわかっているのですが、道行く大人たちの視線がとても痛く、お姉さんを無視するようになりました。「私とお姉さんは違うんだ。私はちゃんとしゃべれるし、走ることだってできるんだ」。

 私とは違う、それが差別なのです。何日間かお姉さんを無視して離れて歩きました。しかし、お姉さんはいつもと変わらぬ笑顔で接してくれました。何事もなかったように接してくれたお姉さんに、涙の出る思いと、幼い頃の切ない思いでが残りました。

 子どもの目には本来、差別というものはないのです。それはすべて大人が作り出したものです。お大師さんのお言葉の中に「生きとし生けるものの本体は、本来仏と同じ徳を備えて差別のあるものではない。このことを悟らないために衆生は長く苦しみ、このことを悟る諸仏は永久に安泰である」とあります。

 子供は大人より仏に近いかもしれません。障害者ふれあいサマーキャンプを見て、高齢者、成人、子供、障害者が一つになり、共に生き楽しんでいる姿こそ本来あるべき姿だと思いました。これがお大師さまのいう、すべてが仏と同じ徳を備えていて、差別のないことをを悟る仏の世界です。すべての人がともに認め合う仏の世界をつくってまいりましょう。                                      

          参与770001-4228(本多碩峯)