曼荼羅の心
吉武 隆善 (大分県中津市 弘法寺の住職)
もみじの季節になりました。私が住んでいる大分県耶馬漢(やばけい)は、全国的にももみじがきれいなところです。以前、私は高野山に住んでいましたが、大門から少し東に行った伽藍の手前のもみじは、オレンジと黄色が混ざったような色が朝日に反射して心が純真になるような色でした。テレビで見た嵐山のもみじは、それは鮮明な赤色でした。所が変わればもみじの色もいろいろと変わるものだなあと、つくづく感心しました。しかし、それもやがて落ち葉となって散ってしまいます。実に無常であります。
「無常」とは仏教用語で、この世の万物は常に消滅流転してはかないものだ、という意味です。このように日常生活の中に溶け込んでいる仏教用語がたくさんあります。たとえば「精進する」とは、読んで字のごとし、精を出して進んでいくと いうことです。つまり、目的に向かって努力するといった意味です。また、「方便」という言葉もよくロにします。嘘も方便のように使いますが、方法を便利に使うというと ころから方法や手段のことを言います。止むを得ず嘘をつくことがあって も、それは相手のことを考える方法や手段の中で 嘘をついたということになるのです。
「因果」という言葉もよく耳にします。これも読んで字のごとし、原因があって結果があるということです。もみじは夏の間は青い葉ですが、太陽の光と秋の朝夕の冷え込み、雨の量などの原因をもらって、その結果赤くなるということです。ですから高野山のもみじはオレンジがかった色でしょうし、嵐山のもみじは鮮やかな赤、耶馬渓のもみじは真紅なのでしょう。そのもみじのどれがすばらしいか。好みはあっても、どれが良いかは言えないでしょう。
私たち人間はどうでしょうか。私たちはみんな父親と母親から生まれてきます。父と母が結婚するという原因があって、その結果私たちは生まれてきます。また父や母やほかの家族にいろいろな育て方をされてきたと思います。家族構成もいろいろでしょう。だから十人十色といって、それぞれの顔、容姿、性格を持っています。そんな中で誰がすばらしい、誰が劣っているということがあるでしょうか。みんな違うからそれでいいのです。
皆さんは曼荼羅をご覧になったことがありますか。曼荼羅には実にたくさんの仏さまが描かれています。優しいお顔をした如来から菩薩、また憤怒相の怖い顔をした明王や天、近くで見ると本当にさまざまな仏さまが描かれています。そんなたくさんの仏さまが入り混じって、調和と秩序を表し、私たちに安らぎをもたらせてくれます。曼荼羅は大日如来を中心にして、内に外に上に下にとお互いに供養しあう仏の世界を表しています。相互に札拝し、供養する尊厳な関係があります。
いろいろな個性をもった私たちが、この曼荼羅のようにお互いを相互礼拝し相互供養すれば、この世が曼荼羅の世界、密厳国土の世界になるのです。それがお大師さまの願いです。一人ひとりが個性を生かしながら、曼荼羅のような世界をつくっていきたいものです。
参与770001-4228(本多碩峯)