果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

御蔭に気付く    生かせ  いのち

2012-04-22 16:09:17 | 高野山
 

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生かせ いのち

 お陰に気付く

  私達は加持力という言葉をよく使います。真言宗ではたいへん大事な言葉です。仏さまが与えてくださる力を「加」そして受け取る力を「持」といいます。この二つが相まって一つのお蔭をいただけるのです。では、加は常に注がれているのか時々注がれるのかを考えると、やはり常に注がれているのではないかと思います。太陽がそうです。曇っていても雨が降っていても快晴であっても、同じ強さで照ってくれるから地球はお蔭をいただいている。これを有難いと感じるか当たり前だと感じるかで随分違ってくると思います。

  お大師さまは、「真言は不思議なり、観諦すれば無明を除く」とおっしゃっています。拝むことは不思議なのです。s真摯に祈って、きちんと受け止めなければなりません。今がだめだと言わず真に、今あるところが、幸せなんだと説いて食えているのが真言宗のみ教えだと思います。

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  ではたくさんの雪が降ります。雪が雨だったらすぐに流れてしまいますが、積雪が春になってだんだんと溶かされ、南部に川となって水を注いでくれるから今がある。拝んだものに対してすぐに利益を求める人がいますが、そうではなく、今行った善行がいつか他の人の役に立つことを願わなければならないと思います。

  あるとき師僧が、こんな話をしてくれました。師僧が子どもの頃のことで、今から八十年ぐらい前のお話です。師僧は農家に生まれたやんちゃな末っ子です。毎日とっぷりと日が暮れるまで外で遊ぶような元気な子でした。小学校五年生のある日のことです。二月の寒い日に、やはり暗くなるまで外で遊んでいました。家に帰るとお母さんが台所で食事の支度をしてくれていて、先にお風呂に入るように声を掛けてくれました。

  お腹もすいていましたが、体が冷えきっていたのでお風呂に飛び込みました。当時五右衛門風呂です。格子から風が吹き込んできてぞくつとしました。そのとき外からお母さんの声がして「ぬるくない?沸かそうか?」言ってくれました。バチパチという音がして、しばらくすると底からだんだん温かくなってきました。子ともながらに「ありがたいなあ、極楽じゃ」と思ったそうです。五分、十分とたって体が芯から温まってきたとき、頭の上にピチヤツと雫が落ちて、またぶるっとしました。そのとき思ったそうです。

  そうだ。僕は今、十分に温まっているけれど、外にいるお母さんはどうだろう。そこは温かいはずがない。寒い思いをして僕のために薪をくべているんだ。そして、自分は一体何をしていたんだろう。偉そうなことを言っても風呂一つ自分では入れない。こうやって多くの陰なる力、お蔭をいただいて生きているのだと思い、少し反省する気持ちになって、そろそろ農家の仕事の手伝いや家のことをやっていかなければならないと目覚めたそうです。

  「お陰」とみんな簡単に言います。しかし、本当に間近で、毎日毎日お陰をくださっている人やものたちがあるということに気付かなければ、寂しいせいかつになるのではないでしょうか。

  筆者は岡山県倉敷市 高蔵寺  住職 天野高雄 

本多碩峯 参与 770001-42288


~大いなる御誓願の追想 今、よみがえる『中門』 その九

2012-04-04 16:43:17 | 高野山





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~大いなる御誓願の追想

 

高野山開創千二百年記念大法会事務局

  九度山の慈尊院から「高野山町石造(こうやさんちょういしみち)」を通って、高野山上の「大門」、壇上伽藍の結界の「中門」をくぐり、「根本大塔」などの諸堂に参拝することは既刊号で述べました。

  しかし、高野山への参詣は、「根本大塔」が終着点ではありません。さらに、町石道は続き、お大師さまがご入定されている「奥之院御廟」 へと向かいます。

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 この沿道には、金剛界(こんごうかい)曼荼羅(まんだら)の三十七尊の仏さまを表す町卒塔婆(ちょうそとば)(町石・ちょういし)が建てられています。

  真言密教の教義は、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだ)がその拠り所となっています。

お大師さまは、これら二つの曼荼羅を「金胎不二(こんたいふに)」、つまり、これら二つが一つとなって、生きたこの身のまま仏となる「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」 へと導かれると説かれています。

  高野山と慈尊院からなる浄土を描いた「高野山蓮華曼荼羅図(こうやさんれんげまんだらず)」(宝永七年二七一〇)報恩院蔵)という資料があります。

  この資料には、慈尊院は蓬華の葉、そこから高野山上までの町石道を茎、山上の中心部を八葉の蓮華の花として描いています。さらに、中心部から奥之院までの町石道を茎、奥之院を三弁の蓮華の花として表しています。

  そして、山上の主要な諸堂である「奥之院御廟」、「大門」、「大塔」、「金堂」、「御影堂」、そして「中門」も記されています。

  この図からも、高野山参詣の修行は、山上の霊場だけでなく、山下の慈尊院から伽藍まで、そして伽藍から奥之院まで、町石道を一貫して参詣することが本来の修行の道程であることがわかります。

  高野山に何度も参詣にお越しになられた方は、大勢おられると思います。しかし、町石道を歩き、町卒塔婆の一つ一つに手を合わせて祈り、奥之院御廟までお参りされた方は少ないのではないでしょうか。

  すべての道程を踏破することは、大変なことです。ですが、本来の高野山の参詣方法、そして修行道場がどのようなものであるかを知った上で、たとえ一部の区間でも、できる限り自らの身体を使って、参詣することは大変重要です。

  それは、真言密教の説く悟りへの方法として、出来るだけ自らの身体の感覚を使い、仏さまを観じ、祈ることが大切とされているからです。(T・S)

本多碩峯 参与 770001-42288

 


花はす物語   生かせ いのち

2012-04-04 14:35:20 | 高野山
 

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花はす物語

  北原 隆義

  蓮は泥水の中から美しい花を咲かせるので、人の生き方の理想にたとえられたり、仏さまの慈しみのはたらきにたとえられたりします。私たちが目にする仏さまの多くは端正な蓮の花の台(うてな)の上にいらっしゃいますが、それはどうして蓮の花でなければならなかったのでしょうか。

   冬の間、暖かい泥の中で十分な休息をとった蓮根は、春になると茎をぐんと伸ばし、水の上に左右に巻いた状態の葉を出してきます。そして水面にのぞかせた小さな葉っぱから地上の空気と光をいっぱいに吸い込んで、今度はもっと立派で大きな葉を立ち上げます。やがて夏が近づくと、大きく茂った葉の問から花の蕾をすっと水面にのぼらせてきます。 

  一つの蓮の花の寿命はわずか四日間です。開花一日目、真夏の早朝の午前五時ごろ、蕾の状態の花はゆっくり口をあけて徳利の形になります。色もだんだん濃くなってきます。しかし午前八時ぐらいになるともう閉じはじめ、花は一旦眠りにつきます。開花二日目、花は今度は夜中の一時ごろから開きはじめます。そして午前七時から九時ごろにかけてお椀の形になり、このとき色も香りも最も強く鮮やかになります。しかし昼ごろにはまた蕾の状態に戻ります。

   開花三日目、やはり夜中の一時ごろから花は咲きはじめ、午前六時ごろにはお椀形、九時ごろには皿形になります。花は大きく開くのですが、もう色も香りも弱くなり、花びらも一枚一枚ひらひらと散っていってしまいます。昼からは花は半分閉じた状態となり、いよいよ最後の夜を過ごします。開花四日目、夜中の一時ごろから咲きはじめ、午前六時ごろには完全に開き、午後にはひとひらもなくなり、花托(かたく)と呼ばれる花の台だけが残ります。ですから、蓮の花の本当に勢いのある様子を見ようと思えば、まだ朝もやが残っているような早い時間に足を運ぶ必要があるのです。昼から行っても花のお休み中の姿を眺めることになりますから要注意です。

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 以前、福井県の南条というところに蓮の花を訪ねて行きました。そこは日本で一番大きな蓮の花畑で、夏になるとあたり一面、ピンクや白色の花と高貴な香りでいっぱいになります。花畑の間に設けられた道をのんびり歩いていると、子どものころ、茎を手折って葉の上で水玉をくるくる回して遊んだことを思い出しました。そういえば茎を折ったとき、蓮の甘い独特の香りがしました。

  昭和天皇は昭和六十三年の夏、闘病生活の中でこんな歌を詠んでいらっしゃいます。「夏たけて堀のはちすの花みつつはとけの教え憶う朝かな」。

  御所のお堀に咲く蓮の穏やかで尊い様子をご覧になって、陛下はどんなお気持ちだったのでしょう。戦争があり、そして敗戦があり、それでもくじけなかった人々を思う陛下の心もまた、蓮の花のような尊く汚れのないものだったのかもしれませんね。皆さんの家の近くに蓮の花の咲く場所があれば、今年の夏はぜひゆっくり見にお出かけください。蓮はきっと何物にも汚されることのない命の本当の姿を見せてくれることでしょう。

  ▽筆者は石川県七尾市

  妙観院の副住職です。

 本多碩峯 参与 770001-42288


葬儀について  その(一)

2012-03-22 18:22:48 | 高野山
 

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葬儀について    その一

 

-仏教が取り組む葬儀の意味と意義-

 

平成23715日 在家仏教協会 札幌会場定期講演会公演より

 

北海道深川市丸山寺住職  高畠俊孝

 

 現在の日本には数多くの宗教が存在するなかで、葬儀となれば80%を超える人々が仏教で葬儀を執り行わっている現状は、いかなる訳でしょうか。

  人の死、それをどう考え、どう対処してきたか、その役割を大きく担ってきた仏教、葬儀のあり方とその意味と意義について考えてみたいと思います。

  葬儀はきわめて多層的な構造を持った儀礼です。仏式といっても、すべての儀式や作法、道具が仏教に由来するものではありません。むしろ仏教式といったものはごく一部で、多くのものは民族信仰や神道、儒教、道教等他の要素に拘わっています。

  古代より人間には肉体と霊魂というものがあり、死によって肉体は滅びるが、霊魂は滅びないと考えられてきました。古代の日本人は死を「ケガレ」と考えました。「ケガレ」とは「不潔」と結び付けて考えますが、そうでなく、「ハレとケ」でケは「気」で、元気とか陰気の気です。私達は年をとると気が滅入り、弱まってきます。それで「気が枯れ」ケガレです。それが段々と転化してケガレが不浄を表すようになりました。死が穢れと言う場合は不浄の概念も含むようになったのです。

  昔の人は死者の持っている穢れは肉親や周囲の人に伝染すると考えました。そこで死の穢れの期間を明確に規定したのです。それが四十九日です。この期間を「忌」といいます。「忌中」とは社会的に四十九日行動を慎む、他の人とは接触してはいけないと強制されました。一方「喪」とは自発的に故人のために自分の行動を慎む事を言います。喪は忌と違い社会から行動を規制されるわけではないのです。

  この意味で日本人はお葬式において肉体の処理と魂の処理の両方を行ってきました。人間が共同体を形成し、文化が生まれ、その時葬儀が生まれたのです。世界中のどの民族でも営むといえます。これは人間以外の動物にはありません。だから人間固有の習俗、儀式といえましょう。

現代の葬儀は大半が仏教で執り行っております。そこで葬儀と仏教の繋がりを考えてみましょう。

 本来仏教は葬儀と関係していません。お釈迦さんが亡くなられる前にもお弟子さんに自分の葬儀は在家の人達にまかせて、弟子たちは修行に専念せよといわれ、葬儀は在家の人々が執り行いました。

  かって日本では僧侶による葬儀をやっていませんでした。鎌倉。室町時代に個別的に葬儀を行った形跡はありますが、一般的に儀式化されてはいませんでした。僧侶が本格的に葬儀をはじめた時期と理由は、江戸時代の檀家制度です。江戸ん濃幕府はキリシタンの取り締まりのために、日本人全員をお寺に登録させました。その登録は「宗門人別帳」といい、人別帳によって当寺の檀家であると証明しました。それが檀家制度です。キリシタン式の葬儀を取り締まるために、葬儀は僧侶によって執り行うように命じたのです。それまでは誰が葬儀をやっていたかというと、村の長老でした。大家族制度の本家の主人が葬儀の執行人になっていました。村の長老は神主でもあったのです。

  葬儀を執り行うようになった僧侶は、それまで行っていた出家者(お坊さんの仲間)の葬儀をするようになりました。そこで人が死んだらどうするかと言えば、死者を出家させ、お坊さんにして葬儀する形式が取られたのです。

  出家するときは師について戒律を授かります。これを「受戒」といいます。これを約束して弟子となりこの時、師から付けてもらうのが「戒名」です。浄土真宗では「法名」といいます。また日蓮宗では「法号」と呼びます。仏法の心髄に導き、煩悩の苦しみから救う「引導」を授け、成仏へ導くのです。

  仏教には各宗派があり成仏の方法論も違ってきます。そのため読まれるお経が異なるだけなく、導師の所作も異なり、使われる仏具も違ってきます。同じように読経しているようですが、法要に込められたものは皆異なります。

  ここからは各宗派によっての考え方を簡単に示しましょう。

 つづく

本多碩峯 参与 770001-42288







筆くらべ   生かせ  いのち

2012-03-16 20:02:46 | 高野山
 

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筆くらべ いかせ いのち

                          北原 隆義 (石川県七尾市妙観院 副住職)

 先日、古書店で「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」という本を買い求めました。ページをめくっていると、弘法大師さまにまつわる昔話が載っていました。題名は「筆くらべ」といいます。

  平安時代の三筆といえば、嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三人で、いずれ劣らぬ書道の名人でした。彼らの文字は中国的な書風で、力強く、豊かな風格がありました。そのなかで空海は弘法大師と呼ばれ、真言宗の開祖であるばかりか当代きっての知識人で、いろは歌の作成からお饅頭の紹介にいたるまで、始まりのよくわからないものはみんな弘法大師の発案とされているほどです。

  あるとき嵯峨天皇が空海を呼び寄せ、「私の持っている書を見せてやろう。良い手本になるぞ」と、たくさんの書を見せてくれました。「見事なものでございますな」と空海が頷くと、帝はその中でもとりわけ優れた筆跡で書かれたものを得意そうに広げました。「これはすごいぞ。唐の国の誰かが書いたものだろう。名前はわからないが誠にうまい。どう真似てみてもこのようには書けない。私の宝物だ」と目を細めます。「ごもっともでございます」と空海も頷きます。帝の様子を見ていれば、どれほどこの書を大切にしているか見当がつきます。「さすがに唐の国は広い。これほどの名筆家がいるとは、ほとほと感心してしまうほどじや」。

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やがて空海は一礼して呼吸を整えると、「実はこれは私めが書いたものです」と言いました。帝はきょとんとして「そんなばかなことが…」と言うと、空海は重ねて「本当でございます」と答えます。「いや、それはない。第一そなたの筆跡とまるで違うではないか」と帝は笑います。空海は少しも騒がず、「ご不審はもっともでございます。ですが、軸から紙を少し剥がして糊付けされたところをご覧ください」と帝に申し上げました。
 そこで家来に命じて隠された部分を見させると、確かに小さな文字で青龍寺沙門空海と記されてありました。弘法大師空海が唐の長安に渡り青龍寺で修行を積んだのは本当のことやす。沙門というのは僧侶のことで、このように署名するのが昔からの習慣でした。帝は「うーん」とうなると、しばらくして兜を脱ぎ「見事じゃ。しかしどうして筆跡が今と変わっているのじゃな?」と尋ねました。「はい、国によって書き方を変えたからでございます。唐は大きな国ですので、このように強く、勢いよく書くのが相応しいでしょう。その点日本は小さな国ですので、それに従って細かく綿密に書くようにしております」。「なるほど、そなたの言うとおりじゃ」と帝は称賛して止まなかったということです。天皇もまた巧みな筆の使い手であったからこそ、お大師さまのすごさがよくわかったのでしょう。名人を知る人もまた名人だということです。

 

  著者の橘成季(たちばなのなりすえ)は九条家に仕えた名随身で、勤め退き、ゆとりの時間を使って本書の編集作業を行いました。これを読むと、当時の人達が弘法大師空海につぃてどう思っていたかがわかります。お大師さまの懐の深さと、人びとから敬愛されていた姿がほのぼのと浮かび上がってきます。

 

本多碩峯 参与 770001-42288 


きずな    ― 生かせ いのち―

2012-03-05 16:39:27 | 高野山
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―生かせ いのち―

高野山真言宗では、お大師さまの「生かせ いのち」のみ教えにもとづき、生きとし生けるものと、共に歩む教化活動を展開することをとおして、人権啓発を推進しています。
 毎年、この基本理念をもとにテーマを設定し、人権啓発作品を募集しています。

 平成二十三年度は、前年度に引き続き「きずな -生かせ いのちー」をテーマとしました。三月十一日、未曾有の災害・東日本大震災に、また度々の大型台風に襲われた日本社会では、復興に向けての連帯の輪が広がっています。日本漢字能力検定協会が公募した「今年の漢字」 にも「絆」が選ばれました。この字が選ばれたのは、災害で多くのものを失った悲しみから立ち直ろうとする被災者はじめ、多くの国民の前向きな気持ちの表れと思われます。自然の恐ろしさを目の当たりにして、命の大切さ、今ある命のありがたさ、人の絆の大切さを改めて知らされました。人を大切に、命を大切に、が人権の根幹です。

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「きずな」とは、人と人を結ぶものでもあり、この世界に存在するすべての生きとし生けるものをも結んでいるのです。今回は世界に網のように張りめぐらされた大切な「きずな」を通して命の尊さ、また個々の人権を守るかを題材に募集いたしました。
 本年度は、作文の部1,701点、ポスターの部278点、計1,979点にものぼる多くの作品が寄せられ、一般・高校生・中学生以下の三部門で、それぞれに審査いたしました。お寄せいただいた作品は、現代の社会事象を反映した作品が多く応募されました。応募者の大半が中高生です。それぞれの問題について良く学習されており、人権について真剣に考えておられることが伺えました。彼らは自身の体験や身近な問題を取り上げ、将来の展望を若者らしい素直な心を持って作品を応募しており、審査する者に感動や共感を与える作品が多くありました。
 これからも、この人権啓発作品の募集によって、青少年から大人にいたるまであらゆる年代で人権について考える機会の一助になっていただければ幸甚です。 宗団といたしましても、より充実した人権啓発活動を推進し、引き続き広く人権意識の高揚を図っていく所存です。
 最後になりましたが、ご協力いただきました各位、学校関係者、作品選考委員の皆さまに厚くお礼申し上げます。        合掌
 

 高野山真言宗宗務総長

      総本山金剛峯寺執行長
                 庄野 光昭
 
      本多碩峯 参与 770001-42288  

十二支のいわれ    いかせ いのち

2012-02-19 19:36:23 | 高野山
 

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十二支のいわれ いかせ いのち 

 北原隆義 (石川県七尾市 妙観院 副住職)

 十二支がどうしてできたのかを、昔話と本当の理由との二つお話しします。まずは昔話からです。

 昔々、ある年の暮れに、神さまが動物たちに「元旦に神殿に早く着いた順に、その年の大将にしてあげるぞ」と言いました。この話を開いた動物たちは、自分こそ一番になろうと仕度を始めました。でもネコちゃんはうっかり神殿に集まる日を忘れてしまい、仲良しのネズミさんのところに聞きに行きました。「ネズミ君、神殿に行く日はいつだっけ?」とネコが尋ねると、ネズミは思わず「元旦から人の家に行くものじゃないよ。二日に決まってるよ」と嘘を言いました。

 ネズミはこのとき牛小屋の天井裏に住んでいましたが、大晦日の夜に足の遅いウシがみんなより早く出発したのを見て、ちゃっかりウシの背中に飛び乗りました。ウシは暗い夜道を霜柱を踏みしめながら一晩かかって神殿へと向かい、門の前で夜が明けるのを待ちました。東の空が明るくなり一番鶏が鳴きました。門の扉がギギーつと開きかけたかと思うと、ネズミはぴょんと牛の背中から降りて扉の隙間から神殿に入りました。そしてまんまと一番最初に神さまに新年のご挨拶を申し上げたのです。

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 続いてウシが二番目となり、次に一晩に千里を駆けるトラが三番目となりました。その後からウサギ、タツ、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、ニワトリ、イヌ、イノシシの順で神殿に入りました。さて、二日の朝ネコが神殿に行くと、神さまに「顔でも洗って出直してきなさい」と叱られました。それ以来ネコは毎日顔を洗うようになりました。してネズミを見るとその時のことを思い出して追い回すようになったということです。

  では、十二支ができた本当の訳を話します。十二支は今から約三千五百年前に中国で考えられました。お月さまが満月から少しずつ欠けて小さくなり、月の光が見えない新月の状態になり、まただんだん太って満月の姿に戻ります。この間の日数が約二十九日で一カ月の単位ができ、それを十二回繰り返すと一年になります。やがてそれぞれの年に名前をつけて十二年で一回りする仕組みもできました。

 当時はまだ文字の読める人が少ない時代だったので、多くの人に親しみの深い動物の名前をあてはめたということです。そのときつけられた年号が子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戊・亥の十二文字だったそうです。ちなみに日本、中国、台湾、韓国では十二支の動物は同じですが、ヒョウやネコ、ワニが入っている国もあります。国によって若干の違いはありますが、親しい動物たちがそれぞれ一年を担当して次の動物に引き継いでいくということです。

 私はこれを、十二種類の動物が私たちを守ってくれるんだと受け止めています。動物たちへの尊敬の気持ちと親しみや信頼の気持ち、いろんな気持ちが心の中にありますが、彼らに見守られていると思うと「しっかりしなくては」と身が引き締まります。嘘偽りのない心を持ち、嘘偽りのない言葉を語り、嘘偽りのないまことの行いをする。いつもこのようにできれば有り難いですね。

      本多碩峯 参与 770001-42288

 


原子力発電によらない生き方を求めて   宣言文

2012-02-19 16:23:56 | 高野山
 

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全仏だよりから
「原子力発電によらない生き方を求めて」宣言文
   全日本仏教会では、「いのち」を脅かす可能性をもつ原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指すべく宣言文をプレスリリースいたしました。

宣言文 原子力発電によらない生き方を求めて

  東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避熊生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのrJかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもり多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被寓を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。 広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。

 日本は原子爆弾による世界で唯.の被爆国であります。多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射綿による被爆で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」 の尊さを世界の人々に伝え続けています。

  全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。

  私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。

 そして、私たちはこの間題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言いたします。

2011(平成23)年12月1日

 財団法人 全日本仏教会

       本多碩峯 参与 770001-42288

神さま仏さま  生かせ いのち

2012-01-31 10:48:40 | 高野山
 

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神さま仏さま

 

 北原 隆義

  私が大学に入りたてのころ、宗教学の講師の先生が「神というのは仏さまたちを守る守護神のことである」とおっしゃっていました。まだ高校を出たばかりの私は、あくまで仏さまを中心にすえて奉り、神々をその外側の守護者として一段下に見る教え方に多少の違和感を覚えながらも、その時はそのまま受け入れるしかありませんでした。大学で勉強し、やがて本山に勤務をし、かれこれ十二年余りを高野山で過ごすことになりながらも、ずっとその違和感がなくなることはありませんでした。 

 私の自坊は日本海の能登半島にあります。自然に恵まれた静かないいところです。古くから伝えられてきた風俗や祭礼、そしてそれらの拠点となるお宮やお寺がたくさんあって、自然とそういった場所へと足を運ぶ機会も増えてきました。そうするうち、お参りするお寺のそばには、必ずといっていいほどお宮が寄り添うように建っているのに気が付きました。

 

 いろいろ調べていくと、昔はお寺もお宮も一緒に祭礼などの行事を行い、神さまも仏さまも同じょうに地域の人達から尊敬されていたことがわかってきました。むしろ私たち日本人は、そうして神、仏の区別なく、尊いものとして千年以上も昔から祭り事を続けてきたのです。しかし、残念ながらそんな幸せな状態にもピリオドが打たれました。神仏分離令という詔が明治政府によって発令され、神々と仏さまは離ればなりました。そんな悲しい出来事の名残りで、お宮のそばに建つお寺のことを神宮寺といいます。

 

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 能登の国の一の宮を気多大社といいますが、このお宮の隣にも正覚院という神宮寺があって、昔から地元の人達の崇敬を集めてきました。数年前、お不動さまをまつる護摩堂の落慶法会が行われました。当日、いよいよお練りの出発を告げる号砲が鳴らされると、不思議なことにその瞬間、曇り空の向こうから太陽の光が差し込んできました。厳かな読経の声が聞こえてくると、私にはお宮もお寺もきらきら輝いているような気がしました。お宮の神さまもお寺の仏さまも一つにとけ合って時間を共有しているような不思議な感覚です。その日一日、お参りに来られた大勢の方々も、神も仏も木も草も建物も、にこにこ笑って過ごしまし た。

 

 正覚院は日本海を一望できる高台に建っています。この辺り一帯の浜辺は、水平線に夕陽が沈むサンセットビーチでもあります。このお寺に伝わるご詠歌の歌詞を紹介しましょう。「あなとうと、迷いも晴れて一の宮、浜の真砂に夕陽輝く」。水平線に静かに沈んでいく夕陽に照らされて、辺り一面は真っ赤に染まります。目に映るありとあらゆるものが黄金色に浮き上がるようなすばらしい夕映えです。神も仏も人も木も草花も、砂の一粒一粒さえも、すべてのものが時間を共有するかけがえのない瞬間です。本当のことが直接心に染みわたるというのは、こういうことだったのですね。神さまと仏さまだけではなく、いろんなものが一つだったのだ、と教えられたことです。

 

▽筆者は石川県七尾市 妙軌院の副住職です。

 


    本多碩峯 参与 770001-42288

 


報恩感謝  生かせ いのち

2011-12-24 19:26:08 | 高野山
 

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報恩感謝   吉武 隆書(大分県中津市 弘法寺 住職)
 お大師さまは何時も、「親の恩」についてお説きになっておられます。
恩を知り、恩に感謝し、恩に報いる。
 元バレーボール選手の川合俊一さんが、あるテレビ番組に出ていたときのことです。司会者が一つの段ボール箱を持ってきました。川合さんは中を見ると照れくさそうに笑いました。中にはお米やさつまいもや果物、そして手作りの餃子の具と皮が入っていたのです。
それは川合さんのお母さんからの荷物でした。恥ずかしそうに、そしてうれしそうに話されていた様子がとても印象的でした。それを見て、私はどこも同じだなあと思いました。そして数年前のことを思い出したのです。
 当時私は、大分県の自坊を離れ高野山に家族と住んでいました。そのときによく母が、お米やお供え物の野菜などを送ってきてくれました。「お茶菓子をいっぱいもらってあるからどう?果物はある?」と電話をくれては送ってくれました。あるときは「キャベツをいっぱいもらったから子どものお菓子と一緒に送ったよ。でも宅配の人がクまたか″って笑うね」という電話があり、次の日荷物が届きました。宅配便のお兄さんがやってきて、「大分からまた荷物です。いつもこんなに送ってもらって有難いですね」と言いました。 有難いl一家にある物を送ってきてくれるだけ、と思っていた私には忘れていた言葉でした。その日、荷物が届いた報告の電話をかけると、父が出て「いつもお母さんが一生懸命に荷造りをしているよ。汁が出ないかとか、入っているものが傷まないかとか気を遣っているみたいだよ」と言いました。その言葉が追い討ちをかけるように、当たり前だと思幸感謝の気持ちを忘れていた自分を、つくづく恥ずかしく思いました。「荷物が着いたからね」という言葉は出ても、「有難う」と心から言ったことはありませんでした。


 

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 お大師さまは「報恩感謝」ということをお説きになっておられます。私は仏門に入りながら報恩感謝の感謝という部分を忘れていました。今では宅配便のお兄さんの言ってくれた「有難いね」という言葉を「有難う」にかえて言っております。
 お大師さまは「性霊集」の中にこう説かれています。「我々が生まれ、我々が育つのは親の恩である。親の恩は高い天よりも高く、厚い地面よりも厚い。我々が身を粉にしても報いきれるものではない」。親は子を思い、報いを期待せずあらゆる愛情を注いでくれます。
しかし子は、親の愛は当たり前だと思っているところがあります。また、育ててもらったことは忘れて都合の良いときだけ親子であり、親に経済的能力がなくなれば見離す例も多くなっています。
 思い返してください。私たちはどうやって生まれ、どうやって育ってきましたか。今まで父母に対して感謝し、それに報いたことがありますか。
もう一度親の恩を思い返し感謝の気持ちを表してください。難しいことはありません。いつ何時でも「有難う」という言葉を言うことです。そしてそれに合掌をつけてください。心から合掌し「有難う」という言葉は、何にも勝る親に対しての一番の報恩になるのです。

  本多碩峯 参与 770001-42288