木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

堀与兵衛①

2009年08月24日 | 江戸の写真

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古写真研究家の森重和雄さんから、近藤勇の写真は京の堀与兵衛が撮影したことが判明したとの連絡を頂いた。
古写真研究というのはあまり耳慣れない言葉かも知れないが、奥が深い。
ごく簡単に言うと、古い写真のうちどの写真がオリジナルであるかとか、写真の真偽、撮影者、撮影日時などを解明していく研究で、パズルのような根気のいる研究である。

たとえば、土方歳三の最も有名な写真である洋装軍服姿も、今多く目にするのはオリジナルではなく、目元に修正が施された加工品である。
なぜそのような写真が出回ったかというと、幕末期の志士たちの写真は、今日でいうブロマイドとして流通されていたからである。見栄えがいいように、顔に修正が加えられ、トリミングが行われた(中には江藤新平のように斬首刑後の晒し首をブロマイドにされてしまった者もいたが)。
また、写真を写真で撮影するということも多く行われたようで、複写品も多い。伝えられる写真が偽物である場合は簡単に分かるが、オリジナルかどうか、というのは簡単には分からないそうだ。

幕末志士の肖像写真の中で、一番有名なのは、坂本龍馬のものであろうか。
この写真は、よく上野彦馬が撮影されたとされるが、実際に写したのは彦馬のところに修行に来ていた井上俊三である。
一般の人には井上俊三と聞いてもよく分からないに違いないし、龍馬を撮影したのは彦馬だと書いてある本も多い。
冒頭の堀与平衛にしても同じである。知名度は低い。
大体、幕末の写真家というと、西に上野彦馬、東に下岡蓮杖しかいなかったかのように思う人も多いだろう。
司馬遼太郎も、「燃えよ剣」の中で彦馬が近藤勇を撮影するような場面を描いていたし、大島昌宏は「幕末写真師 下岡蓮杖」の中で蓮杖が近藤を撮影したように描写している。
けれども、この両名とも近藤勇も土方歳三も撮影していない。

じつは、時代も慶応期ともなると、写真家の数は両手でも数えられないほどの人数に上っていた。
江戸薬研堀「影真堂」の鵜飼玉川を初めとして、京の堺町御門前「大与」こと堀(大阪屋)与平衛、彦馬門下からは京の知恩院の近くに写場を構えた亀谷徳次郎、明治期になって天皇の御影を撮影することとなる内田九一、蓮杖門下としては横山松三郎がいた。そのほか、一橋家に召抱えられた島霞谷、北海道では魁といえる木津幸吉(なぜか志村けんにそっくり)、その弟子の片脚の写真師、田本研造(森重さんの研究により、例の歳三の写真を撮ったのは研造とされる)など、綺羅星のような写真師が誕生していたのである。

中には、さきの島霞谷の妻・隆(りう)のように女性の写真師もいた(もっとも、実際に活動するようになるのは明治期になってからであろう。その頃には井上俊三の妻・さと亀谷徳次郎の娘・とよのように女性写真師も多くなってくる)。

何だか、堀与衛平に行く前までに長くなってしまったので、与衛平については後半に書かせてもらいます。



森重和雄さんの研究はこちら