木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

深川八郎右衛門

2009年11月11日 | 江戸の話
今日十一月十一日は第七代深川八郎右衛門の命日である。
深川八郎右衛門と言っても、あまり馴染みがないと思うが、「半面は海水漫々、半面は蘆萩《ろてき》叢生《そうせい》し」と言われたぬかるみの地を江戸時代初期に埋め立て、人間の住めるような地に改良した功労者である。
深川の地名は、この深川八郎右衛門にちなんでいる

江東区出版の「江東辞典」によると、

江東区は、天正年間に摂津の人、深川八郎右衛門が深川町を、万治元年に相模の人、砂村新左衛門が砂村新田をそれぞれ開発したのを初めとする比較的新しい町です(~序文から)

とある。
何となく自分の記憶と違ったので、矢田挿雲の「江戸から東京へ(六)」を引っ張り出してみると、

慶長年間、伊勢の人深川八郎右衛門が落雁のようにこの低地に降りて、開墾事業をこころみた

何だか気になってしまい片っ端から家にある町名辞典を調べてみたが、三省堂の「江戸東京学辞典」の記載が信頼できそうである。

『新編武蔵風土記稿』によると、深川の開発は慶長元年(一五九六年)にはじまる。海辺の萱野であったこの地を、摂津国から東国に来た深川八郎右衛門が開発し、徳川家康の命によりその苗字をもって村名としたとある。

また、深川の地名には、フカ(=鮫)があの川筋にも多く上がって来たからだ、という説もあるが、この説は先の矢田挿雲が「ワニだったら川筋に上がってくるというのも分からなくないが、鮫が川に上がってくるものか」と一蹴している。

何だが、深川八郎右衛門から話が大分ずれてしまった。

この八郎右衛門は、家康公の御墨付きもあり、世襲制で代々、深川家長子が八郎右衛門を名乗り、二十七町ならびに村方の名主役を務めることとなる。
その七世八郎右衛門のとき、清住町に大達孫兵衛なる者がいた。その孫兵衛が土地を退転する際に、組合一同に不行き届きがあったと叱責を受けた。
親譲りの義侠心を持つ八郎右衛門は全ての責任は自分にあるとし、一人獄に下った。
結局、七世八郎右衛門は獄中死してしまい、名門は家名断絶してしまう。
驚いたのは町民である。八郎右衛門の徳を深く感謝した町人たちは、八郎右衛門の遺骸を是非にと請うて深川家菩提寺である猿江泉養寺に厚く葬った。
その後も二十七町で経費を持ち寄り、毎年供養した。
何かにつけ、損か、得か、という打算主義の信者になりがちな現代の我々にとって、何だか気持ちのいい話である。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (アラタ)
2009-11-13 10:46:26
こんにちは。紗藤アラタです。
江東区在住なので、興味深く読ませていただきました。
それから、木村さんのプロフィールがバラエティーに富んでいて面白かったです(といって、いいのでしょうか??)
フェレットがお好きなんですね。可愛いですよね。
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Unknown (木村謙之介)
2009-11-18 00:14:41
アラタさん、コメントありがとうございました。僕の御祖先さんは、清澄に住んでいました。今の北の湖部屋のある辺りです。フェレットの名前は「シオン」君です。最近はウサギも飼い始めましたが、草食動物であるウサギにいじめられてしまう肉食動物のシオン君です。
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