木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

商人八訓~渡辺崋山

2009年01月20日 | 江戸の人物
豊橋市西南の渥美半島に位置する田原は風は強いが、三河湾に面した温暖で風光明媚な地である。特産物としては、温室メロンが知られ、魚介類の恵みも多い。その地に、トヨタの高級車レクサスを造る工場があり、これまでは順風と思われてきた。それが、今回の経済不況で窮地に追い込まれている。
江戸時代に遡ってみると、田原民の暮らしは楽ではなかった。藩は一万二千石の石高しかなかったが、領内の人口は二万三百人(元禄九年)もいて、小藩であるが城持である。武士といえども、敷地内に屋敷と畑があるのが普通で、昼間は畑を耕す半農のような格好だったという。
この地で最も有名な人物といえば、渡邉崋山であろう。崋山は、寛政5年9月16日(一七九三年)に生まれ、天保十二年十月十一日(一八四一年)に自害した。通称を登(のぼり、のぼる)と言った。
余談になるが、崋山の「崋」の字は、三五歳ころまで「華」で、それ以降は、あまり馴染みのない字の「崋」を用いるようになった。
この崋山ほど「愚直」という言葉が似合う人物を私は他に知らない。
絵画はプロ級で、詩もよく行い、能吏、経世家としても一流であったが、一生涯貧乏生活の中にいた。
器用に振る舞えば、もっと楽な暮らしもできただろうし、彼くらいの才能があれば、たとえば、平賀源内のような斜に構えた部分が態度に現れても不思議ではなかった。
だが、崋山は、どんなに手柄を立てても、自慢する風も、飾るところもなかった。
損得、という概念がなく、たとえ藩主であろうとも自ら信じる道を直言することが多く、藩主も崋山の意図をよく汲み取った。
蛮社の獄で理不尽な仕打ちを受け、更には心ない同僚の中傷のために、自害をする段になっても、自らを「不忠不孝の徒」と言うだけで、何の恨み節もなく果てていった態度は、殉教者の感すら受ける。
ある時、崋山に親しい商人が「何か書いて下さい」と頼んだことがあった。
「書けた」という返事をもらって、商人が崋山の所に行くと、画ではなく、文字が書かれていた。
これが、崋山の「商人八訓」といわれるものである。
「武士の商法」と揶揄された武士層である崋山が書いたのも興味深い。

一・先ず朝は召使より早く起きよ
一.十両の客より百文の客を大事にせよ
一・買手が気に入らず返しにきたらば売るときよりも丁寧にせよ
一・繁盛するに従って益々倹約をせよ
一・小遣は一文よりしるせ
一・開店の時を忘るな
一・同商売が近所に出来たら懇意を厚くし互に励めよ
一・出店を開いたら三ヶ年は食料を送れ


この文句を今でも飾っている商店が田原にはあると言う。
確かに、現代でも通用する訓戒ではないだろうか。
古くはITバブルの崩壊、最近ではアメリカサブプライムローン問題など、現在の不況を引き起こした理由は色々ある。だが、人間の欲望をことさら刺激することによって、景気拡大をしてきたツケにより被っている部分が多いのではないだろうか。今の不況を、崋山が生きていたら、どう見るのだろう。

田原城址桜門

崋山作「花卉鳥虫蔬果画冊」

崋山神社にある崋山像


「崋山渡邉登」 財団法人崋山会

渡邉崋山 田原博物館HP


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