木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

吉良上野介と東条城と葛飾北斎

2014年06月04日 | 江戸の人物
愛知県の吉良は、県外の人にはあまり知られていないだろうが、リゾート地である。
ワイキキビーチなる海水浴場もある。
どこかの国とは違って、きちんとハワイから名前使用の許可を取っているところが日本らしい。

この地名を名字として名乗るようになったのは、足利義氏の長男・長氏で、時代は承久三年(1221年)にまで遡る。
この流れが、忠臣蔵で有名になったあの吉良氏に繋がる。
居城は東条城。

忠臣蔵はいかにも日本人好みの話で、赤穂は義士、吉良は悪い殿さま、という図式が出来上がっているが、田沼意次のように必ずしも吉良上野介だけが悪かったのではないというのが近年の通説に変わってきているようである。
考えてみれば殿中で斬りかかった浅野内匠頭{たくみのかみ}のほうが一方的に悪い訳で、切腹のうえ御家断絶の処置は厳し過ぎたとは言えない。
トップの無分別な行動で職を失った赤穂藩士のその後の身の処し方は立派とも捉えられるし、切腹といった罰が科せられた時点で伝説となった。

一方で哀れなのは、吉良藩士である。
もし討ち入りの際、返り討ちにしていたら「忠臣蔵」はどのように変わっていたのだろう。
実際は、返り討ちどころか四十七士が怪我人二人だけだったのに対し、十七名もの死者を出している。
そのうえ、吉良上野介義央{よしひさ}の息子・吉良義周{よしちか}は、討ち入りの際、背中を斬られていたところから逃げたのではないか、との嫌疑を掛けられ、諏訪に流された。
そのうえ、赤穂浪士に味方する世論にも影響を受け、吉良家は所領を没収され、東条城も廃城となる。
義周は、この事件の四年後に、配流地の諏訪で二十二歳の短い人生を終えている。
このとき、義周の死を看取った旧臣は、二人だけだったと言われている。
赤穂浪士が英雄視されるなか、武士の身分も失い、周囲から冷たい目で見られた吉良藩士こそ、悲劇的だ。

ところで、討ち入りの日の死者の中のひとり、小林平三郎央道が葛飾北斎の祖父だったとう説がある。
この説はどうも眉唾ものだが、話のネタとしては面白い。

もうひとつ、内匠頭と上野介の確執が、塩を巡るものとする説がある。
赤穂の塩の製造方法を教えて欲しいといった上野介の申し出を内匠頭が断ったことから確執が生まれたとする説だ。
吉良の塩は、饗庭塩{あいばじお}と呼ばれ良質の塩であった。
その証拠に、下って大正三年に塩業整理が行われたときも、東日本では宮城県、千葉県と並んで三大産地として存続された。
赤穂の塩はにがりが多く、吉良の塩はにがりが少ない特徴があるが、必ずしもにがりの多い塩がいい塩とは限らない。
どうもこの説も疑わしい。


東条城の城址は「古城公園」として物見やぐらが再建されている。しかしどうにも中途半端という印象を拭えない。場所も分かりにくい。


かつては饗庭塩として名声を博した吉良塩も今では単発で作られるのみ。高校生が授業の一環として作っているというが、地域活性化のためにもぜひレギュラー商品化してほしい。

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