木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

松本良順と海水浴と幸福と

2014年08月18日 | 人物伝
逗子海岸では、今年から遊泳者に対して、音楽禁止、飲酒禁止、タトゥー禁止など、かなり厳しい条件を突きつけた。
酒のみの私としては、飲酒禁止というのは辛いが、海の家内では呑めるらしいと聞いて、少しほっとした。
結局は個人のモラルに帰するとは恩うのだが、自分にとっての「好」が他人にとっての「忌」になる場合も多々あり、問題は簡単ではない。

海水浴と聞いて、思い出したのは、松本良順である。
明治18年頃、日本で初めて海水浴を推奨したのが良順だったからだ。
良順は、長崎海軍兵学校の講師だったポンペに、海水浴が健康によいと教えられた。
それ以来、良順は海に興味を持っていたが、神奈川県の大磯を旅したとき、大磯海岸が最も海水浴に適していると感じた。
そこで大磯の旅館「宮代屋(みやだいや)」の主人・宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強く勧めた。
大磯に日本で初めての海水浴場がオープンしたが、東京から歩いて来るにしては大磯は遠い。
明治20年に鉄道が開始となると、それまでは芳しくなかった客足が急に伸びて行った。
牛乳を日本に広めたのも、良順である。

良順は一般には知名度が少ないかも知れない。
吉村昭の「暁の旅人」の中の一説が分かりやすい。

洋学医の大家・佐藤泰然の子として生まれ、幕府奥医師松本良順の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医ポンペについて西洋医学を身につけた。江戸にもどって医学所頭取となり、幕府崩壊を眼にして奥州に脱出し、いずれも幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。

良順で思い出すのは、下岡蓮杖と並んで日本で写真の祖と言われる上野彦馬とのエピソードだ。
当時の器具では、写真を撮るためには5分以上も身動きをせずじっとしている必要があった。
写真を撮られると魂を抜かれると信じた写真嫌いの人間がほとんどだった。
モデルを引き受けてくれる人物はいなかった。
その際に、よく駆り出されたのが良順であった。
露出を稼ぐために白粉を顔に塗りたくられたまま、じっとしている良順を鬼瓦だと間違えた人もいる、という落ちもついている。
良順は義理固く、情に厚い面倒見のいい人間だったに違いない。

海水浴を勧め、牛乳を広めようとした頃、良順は新政府の兵部省に勤めるようになっていた。
大学東校(後の東京大学)が僻むほどの病院もオープンさせていた。
すべてが順風満帆のような良順順だが、現実はそうではない。
明治12年にはドイツに留学に行っていた長男・太郎を脱疽で亡くす。
明治26年には妻・登喜を劇症肺炎で亡くす。
さらに、同じ年、次男の之助を溺死で亡くす。

人生には色々な不幸があるが、配偶者や子供を亡くす経験は、不幸の中でも最たるものだ。
人格者で、面倒見のいい良順がなぜこんな不幸に続けざまに見舞われなくてはならなかったのだろうか。
「神様は耐えられる者には、強い試練を与える」だったか、「神様は、耐えられないほどの試練は与えない」だったか忘れたか、どこかで聞いた言葉だ。
だが、人間ってそんなに強いものじゃない。
少しのことで心が折れてしまうのが人間だ。

いい人間が必ずしも、幸福にならないのが人生のように思う。
もしかすると、良順はあまりにも自分に厳しい人間だったのかも知れない。
周囲にいた人間も良順の生き方に従おうとするあまり、ついつい自分を追い詰めて行ってしまった可能性もある。

いい人間。
幸福な人間。
どちらを選ぶのか。
両方選べれば問題はない。
必ずしも両立できないとも思えない。

二者択一ではなく、両方を選ぶ感覚。
自分も幸せ。
他人も幸せ。
WIN WIN の関係を求める気持ちが大事なのではないだろうか。

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