木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ニコライ祭

2011年02月16日 | 人物伝
今日はニコライ祭が行われる日である。

東京のお茶の水にニコライ堂という教会がある。
設計は、ジョサイア・コンドル。
日本でも人気の高い設計家の手による教会は建物としての認知度が高いが、冠となったニコライの名を知る人は少なくなった。
このニコライは幕末から明治にかけてキリスト教の一派である正教会の教えを広めるために来日したロシアの宗教家である。
ニコライが初来日したのは、1861年。江戸時代が終焉する7年前。まさに、幕末の混乱期である。
ニコライは、鋭い観察眼と正確な情報処理能力を持っていた。
日本人の宗教観などについても、正鵠を得た意見を述べており、徳川政権下における一般市民についての考察も興味深い。


「これが専制政治と言えるだろうか? 一切抗言できぬ服従と盲従はどこにあるのだろう? 試みにこの国のさまざまな階層の人々と話を交わしてみるがよい。片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう」

「民衆について言うならば、日本の民衆は、ヨーロッパの多くの国民に比べてはるかに条件はよく、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これらの諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだ不満だったと言うのだ! 商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはそおの税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれもが役人を軽蔑していて、「連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは禄でなしだ」と言っている。
 そして民衆はおしなべてこの国の貧しさの責任は政府にあると、口をそろえて非難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、毎夜、歓楽街は楽と踊りとで賑わいにあふれているのである」


このニコライの論文は1869年(明治二年)に書かれたものである。その当時、ニコライが滞在していたのは、函館であったが、北の地にあって、日本を見る目は驚くほど正確である。
上に引用した文も、現在でも通用する部分の多い日本人論ではないだろうか。

幕末から明治にかけて、日本に来た外国人は、多くがキラキラと輝くような使命感を持っていた。
物事が始まる黎明期の、ワクワク感が満ちていたのである。
日本における文化面の向上は、ニコライのような外国人の力が大きかった。
日本人も使命感の他に大きすぎる野心を持った人間が多かったが、それでも明治は活況に満ちていた時代ということができよう。
明治に比べて、現代日本の閉塞感はいったい、何なんだろう。

正教伝道の使命に燃えたニコライは、母国ロシアが日本と抗戦している間も日本に留まり、明治最後の年となった明治45年(=大正元年・1912年)の今日、永眠し、谷中墓地に葬られた。

ニコライの見た幕末日本 ニコライ(中村健之助訳) 講談社学術文庫

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