木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

天狗党の危うさ

2014年08月21日 | 江戸の幕末
福井県敦賀市。
敦賀駅からもそう遠くない地に、天狗党党首・武田耕雲斎の銅像が建つ。
銅像の脇には、歴代水戸市長らの名を冠した記念植樹が植わっている。
知る人は多くないと思うが、水戸市と敦賀市は姉妹都市なのだ。
水戸と敦賀の結びつきは、元治二年(1865年)まで遡る。
この年、京を目指して進軍していた天狗党の面々が敦賀の地で大量処刑に遭っている。
敦賀の人は天狗党に対して同情的で、切腹も許されず、罪人のように斬り捨てられた天狗党の諸士を手厚く葬った。
これが縁となって敦賀氏と水戸市の姉妹都市提携が結ばれた。

では天狗党と何か、天狗党の目的は何か、と言われると答が長くなる。
すごく乱暴な私見を披歴すると、「家中の派閥争いに勝つため」と言える。

水戸家では天狗党と諸生党と呼ばれる二代派閥がしのぎを削るように争っていた。
「争っていた」などという言い方は手ぬるく、「血みどろの抗争」とでもいったほうがいい、民族紛争にも似たドロドロの戦いを繰り広げていた。
徳川斉昭は名君だったと指摘する人もいるが、私はちっともそう思わない。

ここでは天狗党うんぬんを述べるのが本論ではないので、話を戻す。

捕えられた天狗党員は、取り調べを受けて、その結果により死罪か否かを決められたいた。
取り調べといってもごく簡単なもので、
「進軍中、お前は刀を取って戦ったか?」
の一問だった。
諾といえば死罪、否といえば死罪には処せられなかった。
NOといえば助命される。
Yesと答えれば打ち首に遭う。
隠れキリシタンの境遇にも似ているようにも思えるが、一種の危うさを感じてしまう。
捕えられた者は約800名。
刑死者は353名。
半数近くが自らの意志で死を選んでいる。
だが、果たして集団の中で自分の主張を表だって言える人間がどれほどいたことか。
武田耕雲斎の孫、武田金次郎が死罪を免れたのも、問いに対して、
「否」
と答えたからだ。
これは周囲の説得があったからに違いない。
家庭事情だとか、天狗党を守るためにだとか、自らの意思というよりも周囲に「選定」されて生死が決定されてしまったのではないだろうか。
先に「危うい」と述べたのは、この「集団的判断」だ。

幕末、水戸家は雄藩と並ぶほどの期待を浴びながら、近視眼的に「家中」での政争に汲々として、気が付いてみれば、維新の蚊帳の外に置かれていた。
優秀な人材も殺し合いで絶えていた。

幕末史上、最大の汚点とも言える天狗党の乱の事後処理だが、もしかすると、処罰した幕府側もこれまで多くの人間が「Yes」と答えるとは思っていなかったのかも知れない。
幕末の水戸家では自分の意見を言えるような雰囲気ではなかった。
自分の考えを主張すれば、簡単に抹殺されかねなかったのだろう。
高い教養を持ち、御三家としての格式も身分も持ち合わせた水戸家にあって、これほどひどい環境に陥ってしまった原因は何かと考えされられる。
原因は何であれ、個人個人が自分の意見を主張できる世界。
何よりも大事なものだと思う。

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