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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

商人八訓~渡辺崋山

2009年01月20日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
豊橋市西南の渥美半島に位置する田原は風は強いが、三河湾に面した温暖で風光明媚な地である。特産物としては、温室メロンが知られ、魚介類の恵みも多い。その地に、トヨタの高級車レクサスを造る工場があり、これまでは順風と思われてきた。それが、今回の経済不況で窮地に追い込まれている。
江戸時代に遡ってみると、田原民の暮らしは楽ではなかった。藩は一万二千石の石高しかなかったが、領内の人口は二万三百人(元禄九年)もいて、小藩であるが城持である。武士といえども、敷地内に屋敷と畑があるのが普通で、昼間は畑を耕す半農のような格好だったという。
この地で最も有名な人物といえば、渡邉崋山であろう。崋山は、寛政5年9月16日(一七九三年)に生まれ、天保十二年十月十一日(一八四一年)に自害した。通称を登(のぼり、のぼる)と言った。
余談になるが、崋山の「崋」の字は、三五歳ころまで「華」で、それ以降は、あまり馴染みのない字の「崋」を用いるようになった。
この崋山ほど「愚直」という言葉が似合う人物を私は他に知らない。
絵画はプロ級で、詩もよく行い、能吏、経世家としても一流であったが、一生涯貧乏生活の中にいた。
器用に振る舞えば、もっと楽な暮らしもできただろうし、彼くらいの才能があれば、たとえば、平賀源内のような斜に構えた部分が態度に現れても不思議ではなかった。
だが、崋山は、どんなに手柄を立てても、自慢する風も、飾るところもなかった。
損得、という概念がなく、たとえ藩主であろうとも自ら信じる道を直言することが多く、藩主も崋山の意図をよく汲み取った。
蛮社の獄で理不尽な仕打ちを受け、更には心ない同僚の中傷のために、自害をする段になっても、自らを「不忠不孝の徒」と言うだけで、何の恨み節もなく果てていった態度は、殉教者の感すら受ける。
ある時、崋山に親しい商人が「何か書いて下さい」と頼んだことがあった。
「書けた」という返事をもらって、商人が崋山の所に行くと、画ではなく、文字が書かれていた。
これが、崋山の「商人八訓」といわれるものである。
「武士の商法」と揶揄された武士層である崋山が書いたのも興味深い。

一・先ず朝は召使より早く起きよ
一.十両の客より百文の客を大事にせよ
一・買手が気に入らず返しにきたらば売るときよりも丁寧にせよ
一・繁盛するに従って益々倹約をせよ
一・小遣は一文よりしるせ
一・開店の時を忘るな
一・同商売が近所に出来たら懇意を厚くし互に励めよ
一・出店を開いたら三ヶ年は食料を送れ


この文句を今でも飾っている商店が田原にはあると言う。
確かに、現代でも通用する訓戒ではないだろうか。
古くはITバブルの崩壊、最近ではアメリカサブプライムローン問題など、現在の不況を引き起こした理由は色々ある。だが、人間の欲望をことさら刺激することによって、景気拡大をしてきたツケにより被っている部分が多いのではないだろうか。今の不況を、崋山が生きていたら、どう見るのだろう。

田原城址桜門

崋山作「花卉鳥虫蔬果画冊」

崋山神社にある崋山像


「崋山渡邉登」 財団法人崋山会

渡邉崋山 田原博物館HP


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吉田松陰から新成人へ

2009年01月05日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
新聞で成人式開催のニュースを読んだ。
昔は、成人の日は一月十五日であり、成人式もこの日に行われるのが普通だったが、今はGWに行う地域もあるらしい。
新成人の前で識者と言われる人が挨拶するのだが、今の世の中で胸を張って若者の前で話をする資格のある「大人」がどのくらいいるのだろうか。
勿論、自分を含め、甚だ頼りない。
今から百五十年少し前に、元服する甥に幽閉先から成人の心構えを諭した人物がいる。
二十一回猛士こと吉田松陰である。

凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣(きんじゅう)に異なる所以(ゆえん)を知るべし

これは松陰の有名な言葉であるが、口語に訳すると「この世に生を受けたからには、人は動物と違う理由を考えなければならない」となる。
この文句は、「野山文稿」の中の一文で、士規七則と題されたものの第一番目にある文である。原文は歯切れのよい漢文で書かれている。
もともと、この文は松蔭が甥の元服を祝って書いたものであるが、この時、松蔭自身もまだ二十六歳。松蔭は松下村塾の塾長のイメージが強く、老成した人間と想像している人もいるかも知れないが、享年は三十歳であり、死ぬまで熱い思いを胸に抱く若者であった。
この士規七則の内容は、松蔭が常々考えていたことであるが、自戒の意味も込めて書いたのかも知れない。
現代の若者には、ぴんと来ない部分もあるだろうが、ごく大雑把に内容をダイジェストすると、以下の通りとなる。

一.人は生き方の基本が忠と考にあることを知リ得てはじめて、動物と区別される。(*原文下記)
一.天皇が日本を尊い国に足らしめている貴重な存在であることを知らなければならない。
一.質素倹約を心掛けよ。
一.武士道において最も大事なのは義である。義は勇気により行動に移され、勇気は義によって確かなものになる。
一.読書を通じて古今の賢者の言葉を知れ。
一.友を選べ。
一.死而後已。

最後の一句は「死して後にやむ」と読む。
桂小五郎や乃木希典もよく口にした言葉であるが、「死ぬまで努力し続ける」という意味。

松蔭は、上記の七則を要約して、まず志を立て、交友関係を慎重に選んだうえで、読書により先達の知識を学べば立派な成人になれる、としている。
現代でも十分通用するアドバイスではなかろうか。

(原文*)凡生為人、宜知人所以異於禽獣、蓋人有五倫、而君臣父子無最大、故人之所以為人、忠孝為本

先進社 吉田松陰・佐久間象山

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毛利元就・三本の矢と虫けらたち

2008年12月21日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
毛利元就が三本の矢を示し、一本では折れやすい矢も三本束ねると折れにくい、だから、兄弟も力を合わせるように、と子供たちを諭した話は有名である。
実際に元就が、子供たちを前にしてこのようなデモンストレーションをしたとは思いにくいのだが、この話の素となるような書を元就は残している。
山口県の毛利博物館に残されている「毛利元就三子教訓状」と呼ばれているものである。
この書は、弘治三年(1575年)に表されたもので、元就をして「これまで山々申したいと思っていたことは、これで言い終わった」と言わしめるものであった。
元就と言うと、勇将のイメージがあるが、この書を読むと、まず文頭で「この書状の中にも誤字もしくは『てにをは』の誤りもあろうからご推量願いたい」と実に細かい断りを入れていることに驚かされる。
また、「元就は意外にもこれまで多数の人命を失ったから、この因果は必ずあると心ひそかに痛く悲しく思っている」などと書き、別の項では、「朝日を拝んで念仏を十遍づつ唱える」、「元就は不思議に思うほど、厳島神社を大切に思う心があって、長年の間信仰してきている」と信心のほどをのぞかせている。
三本の矢に準じたことはしばしば述べられているが、「事新しく申すまでもなく、三人の間柄が少しでも疎隔することがあれば、三家は必ず共に滅亡するものと思われたい」と書かれた辺りに元就の気持ちが凝縮している。
三矢とは、隆元(毛利)、隆景(小早川)、元春(吉川)の三兄弟であるが、元就には、この三人のほかにも、六人、全員で九人の子供がいた。
この文書が書かれた弘治三年には、まだ元治、元康、秀包の三人は生まれていなかったので、この当時は、六人兄弟である。
元就は、三兄弟以下の三人についても、ちゃんと書いている。
以下に記す。
「ただいま元就には虫けらにも似た分別のない庶子がいる。すなわち七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶(もととも)などである。これらの内で、将来知能も完全に人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ何方の遠境になりとも封ぜられたい。しかし大抵は愚鈍で無力の者であろうから、左様な者に対しては如何様に処置をとられても、それは勝手であって何の異存はない」
あまりにひどいような……。
原文で見ても「唯今虫けらのやうなる子ともとも候」と間違いなく、虫けらなどと言われている。
人情としては、虫けらと呼ばれた庶子がどう成長したか調べてみたくなる。

元清 ・・・ 備中猿掛城・三村氏の一族穂井田元資の養子となり、数々の武功を挙げ、広島城の構築にも活躍。享年四十七歳。
元秋 ・・・ 月山富田城(島根県安来)の城主となる。享年三十四歳。
元倶 ・・・ 石見国出羽元祐の養子となるも、十七歳で夭逝。

ちなみに、三兄弟の享年を見てみると、
隆元(六十四歳)、隆景(六十五歳)、元春(五十七歳)と「虫けら」と呼ばれた庶子よりも高齢である。
しかし、一番高齢まで生きたのは、元就で、七十五歳の歳に没している。
いずれにせよ、元就の実子たちは、関ケ原の戦いの翌年までには全員が没し、その後は初代長州藩主となった元輝ら、元就の孫たちの時代となる。


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近藤勇の首と団子~法蔵寺(愛知県岡崎)

2008年12月20日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
近藤勇が板橋の刑場の露と散ったのは、慶応四年(1868年)の春。斬首刑により切り取られたその首は塩漬けにされ京都三条大橋にて晒された。
この斬首というのは、ただ単に犯罪者を死に至らしめるだけでなく、死んだ後も胴体と頭を別々にされているため成仏できない、という仏教的な恐怖を与えるためであった。死体も打ち捨てで、遺族が引き取ることもできない。
大物政治犯となった近藤勇の場合も遺体は、埋められていたものを有志が掘り起こしたとされているが、真偽のほどは分からない。
晒された首は、後日、行方不明になったと言う。首の場合は、遺体と違って目立った所に置かれていた訳だし、セキュリティシステムもない時代の話であるから、夜陰に紛れて奪取することは可能だったのであろう。
しかし、首を奪っても朝敵となった新選組幹部の首を堂々とは葬れない。秘密裏に行われたことであるから、近藤勇の体、あるいは、首が最終的にどこに埋められているかについては、分からない。
そのため現在、近藤の墓ないしは首塚と呼ばれているものは、国内に数カ所ある。
今回、私が訪ねた岡崎市の法蔵寺もその一つである。
寺の看板にある由来を要約する。
三条大橋に晒されていた近藤の首を奪取した同志は、かつて近藤が敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に供養してくれるように申し入れる。和尚は、39代目の貫主になることが決まっていた法蔵寺に近藤の首を密かに持ち込み、塚を建立した。
真偽については、十分な確証がないため触れない。
ただ、この寺はさすがに岡崎だけあって、家康ゆかりの寺でもある。
家康は幼少の頃、この寺で学問を学んだこともあると言い、門前には、家康手植えの松(今の松は後に植えられたもの)がある。
徳川ゆかりの寺に、近藤の首伝説が残るというのも、何かの因縁である。
この寺は、旧東海道筋にあり、門前では昭和の初め頃まで、法蔵寺団子なる名物が売られていた。
一本の串に指で平たく潰した五つの団子を炙り、溜り醤油で味付けしたものだと言う。
炙られた団子のいい匂いに誘われて、大いに売れた。盛時には遠方からわざわざ買い求める人もいるほど人気を呼んだらしい。
近藤勇の首塚説が浮上したのは、昭和30年代であるので、それまでは、法蔵寺は、団子で有名な寺だったということになる。

寺内にある近藤勇の胸像


寺の全景

法蔵寺の地図

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ペリー肖像画三態

2008年12月09日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
名古屋のボストン美術館で、「ペリー&ハリス展」が開催されている。
マシュー・カルブレイス・ペリーが「黒船」を率いて浦賀にやって来たのは、嘉永六年(一八五三年)。軍艦サスケハナ号を擁した艦隊による軍事力を誇示し、翌年の安政元年には日米和親条約を締結させた。この「事件」ともいえる一件は、日本国内を激しく揺るがし、日本は攘夷から開国へ繋がる波に巻き込まれていく。
ペリー(Matthew・C・Perry)は、漢字を当てると「彼理」となるが、オランダ語読みに、「ペルリ」と表現された。「まつちうぺるり」、「マツラウペルリ」などとも呼ばれたが、「惣大将へろり」という呼び方になると、著しく迫力に欠ける。
この時、ペリーの肖像画も多く描かれた。日本には、写真がなかった時代でもあり、その肖像画は多くは想像で描かれた。
中にはペリーが見たら、怒り出しそうな絵もある。
端から見るのは、あまりにも面白いので下記にアップしてみました。
一番下にあるのがアナポリス海軍兵学校博物館に飾られているジェームズ・ボーグルという人が描いたペリー像だが、デフォルメがあるとしても、まったく同一人物だとは思えない。
ボストン美術館の「ペリー&ハリス展」は、今月の21日まで。観ていない方は、お急ぎを。
 → ボストン美術館HP



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水野忠邦③~奢侈禁制

2008年11月24日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
株仲間の解散は、一部の商人の特権を剥奪し、自由競争力を高めることによって物価の安定を図ろうとするものであった。
この大鉈が振るわれたのには、問屋仲間が生産地の商人などの仲間外商人たちに流通ルートを攪拌され、弱体化したという背景がある。弱まった力を回復しようと問屋仲間は、幕府の命に反しても、買占めや値待ちなどの物価騰貴となる行為を繰り返さざるを得なくなっていたのである。
さらに、忠邦は銭の公定歩合を引き上げて、物価の安定を狙う。金利の引き下げ、最低賃金の制定なども併せて法令化する一方、町民にはありとあらゆる奢侈禁制の足かせをはめた。
たとえば、女性の髪結い禁止や、縁側での将棋禁止(火事のおそれあり)、寄席の縮小、薬湯の禁止など、微に入り、細に亘るものであった。
収入源である年貢でも、幕府は苦戦している。
延享元年(1744年)には180万1855石であった年貢収納量は、天保七年には103万9970石にまで減少している。
これには、天保期が記録的な不作の年が多く、離農者も多かったことにも起因しているが、農民の積極的な抵抗力が強化されたことが最大の原因である。
経済市場の発展の前には農村も無関係ではなく、多くの情報も流れ込んできていた。
農村近郊での地場産業には、農業に従事しているよりも有利な賃金を得られる場も現れ、離農者も多く見られるようになった。また、在農者であっても米以外の作物を作ったり、内職により農産物以外の商品を作って販売を行う者も見られるようになった。年貢供出にあたっては各地での米の値段(石代)がそれぞれ制定されたから、農民の中には、自分の土地での石代よりも安い産地の米を購入し、その分を納入することも行われた。
この農民層の節税対策とも言える努力の成果あって、たとえば河内若江郡小若江村などでは、天保十三年の祖率は表向き70%という高率であったのに、実際は26.8%でしかなかった土地もある。
また、天保期は、慶応に続いて江戸時代でもっとも百姓一揆が多かった年でもある。一揆の内容もこれまでの強訴中心のものから、打毀しなどより過激なものに変化していた。
天保期に入ると、年貢の取り決めも幕府が一方的に通達し得るものではなくなっていたのである。
忠邦退陣の直接的なきっかけとなったのは、上知令である。
上知令とは、江戸、大坂十里四方を天領にするという案である。利害が複雑に絡むこの案には代地の問題や、地元住民たちの反対が多く、幕府にも強引に押し切れる威厳はなかった。
反対者の多さに驚いた将軍家慶により、この上知令は撤回させられ、忠邦も老中の座を追われることになる。
天保の改革は、時代錯誤で甘い現状認識の上に立脚したものだと捉えるような論調もしばしば見かける。
井関隆子という旗本夫人は、忠邦に対して次のような意見を述べている。

政治に関わる人は、いくら金銀を積み上げても、うまくはゆかない。人々を慈しむ心こそ大切であり、人を思いやる心があってはじめて、従うものである。
それなのに、上の御為といって、人々を苦しめ、世の騒ぎになるようなことを企てるのは、むしろ罪人ともいうべきである。この人はそれほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは、多くの人々の恨みによるものであろう。


この文が旗本、いわゆる身内によって記されたのは注目に値する。「人々を慈しむ心」がある政治家などというのは、近年も含めていた試しがないと思うのだが、忠邦の政策には、強硬論ばかりで暖かさの欠片もないのも事実である。剛ばかりで柔がないと、息が詰る。これは、忠邦自身の生き方だったのかも知れない。
ただ、「我には性欲を律する克己心がある」と自慢した松平定信よりも、何人もの妾を囲っていた忠邦のほうが人間くさいような気がする。
また、忠邦は緊張すると吃音する癖があり、将軍に謁見する際も、人を通じて、自分の癖を事前に知らせている。小心なところのある忠邦としては、落ち目になった途端、手のひらを返すように寝返っていった人間を見て、随分と落ち込んだのではないだろうか。
方法論はどうあれ、幕末近くなり信念を持った武士が少なくなった中、忠邦が出色の人物であったことには、間違いがない。

忠邦は、一度、老中を罷免された後、翌年に再び老中に返り咲いている。
忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。
この頃の忠邦は開国派になっていたと言うが、真偽のほどは分からない。

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水野忠邦②~十組問屋の解散

2008年11月23日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
徳川の江戸時代は独裁政治だったと思っている人もいるかも知れないが、幕府の力は独裁を行えるほどは強固でなかった。武家社会においても藩の移封や改易は幕府が自由自在に行えるものではなく、他人が納得しうる理由付けが必要であった。商人に対して行われた棄捐令の類は問答無用の踏み倒しであるが、貸すほうにしても、そのリスクはある程度計算済みであっただろう。
支配者層と被支配者層という二元的な捉え方をするならば、この両者の利害はまったく対立する。戦国時代であるならばともかく、泰平の世が続いた江戸時代においては、商人にとって支配者層である武士は利用すべき存在に成り下がっていた。
支配者層というプライドがあるから、武士層も商人の力を肌で感じていても、その力を積極的に評価することができなかった。
水野忠邦にしても、同様である。
忠邦は、分限を越えた贅沢、奢侈が風俗の廃頽、物価の騰貴など諸悪の根源であるという信念を持っていた。
天保期に入ると、地震や火山の噴火などの天災が相次いで起きたが、とりわけ天保四年から続いた農産物の不作は、大規模な飢饉を招き、物価上昇を引き起こした。更には天保八年に大坂で起きた大塩平八郎の乱が、物価上昇に拍車を掛けた。
天保十二年十二月、忠邦は水戸徳川斉昭の意見を取り入れて、江戸の日用品を扱う株仲間である十組問屋を解散させた。
それまでも、忠邦は再三にわたって、諸価格の値下げを商人に命じていたが、商人たちが要請に耳を応じなかったためである。
幕府としても株仲間から入る冥加金には未練が残ったが、背に腹は代えられなかったのである。
(以下次回)
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水野忠邦①~青雲之要路

2008年11月22日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
水野忠邦の評判は芳しいものではない。
明治の時代まで30余年となった天保において、最後の悪あがきともとれるような天保の改革を行い、幕藩体制の立て直しに尽力したのが忠邦である。
唐津から浜松へ転封し、中央界への強い憧れと野望を抱く忠邦は、自ら「青雲之要路」と名付けたサクセスストーリーを組み立て、夢を着々と現実のものとしていく。その様子からは、実務や根回しにも長けた能吏としての一面を覗くことができる。豊穣の地唐津から、浜松へ移る時の藩士達への説得、老中になるための人脈の選定、賄賂の使い方など、善し悪しはともかく、その行動は的を射たものである。
忠邦が藩主として、もっとも力を入れたのは幕藩体制の立て直しであり、そのために再編による強化を狙った。この時、忠邦は収入源である対農民政策に最も重きを置き、更には質素倹約による風紀粛正を図ろうとした。しかし、生産能力にも倹約にも限界がある。その分は富商からの借財によって賄ったが、しばしば、浜松藩はこの借金を踏み倒した。商人の犠牲により、藩政建て直しを行おうとする政策は表層的なもので、長続きはしない。
商人にも現代のような税金を掛け、奪い取るのではなく、合理的に搾取すればいいのではなかったか、と思うのだが、経済の動きは複雑で支配階級である武士にはよく理解できなかった。
たとえば、浜松では、綿が特産物であり、忠邦としては、綿を専売制にしたかったのであるが、実際は専売制はとれなかった。これは、経済市場が多様化・自由化してきて、為政者の力を以てしても統制不能な状況に陥っていたことを示す。市場規模が大きくなればなるほど、この傾向は強くなる。地方ですら、このような状況であるから、幕府においては、商人を思い通りに操ろうとするのは、至難の業であった。
これらの関係は、かつては政府統制であった米の流通制度にも似ている。
米は、生産者から農協(あるいは商人系集荷)を通じ、経済連(あるいは集荷組合)を通して、さらに全農(あるいは全集連)を経て入札され、登録卸売業者から小売業者へ販売されるのが正規のルートであった。
消費者としては、米は米屋さんから買うしかなかったのであるが、今では食管法が変わり、生産者からも直接買うことができるし、ドラッグストアやガソリンスタンドでも米を販売している。
これも、経済市場の変化が、ボトムアップの形で法律を変更させた一例である。
これと同じことが、江戸の中期以降は、頻繁に発生していた。

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水野忠辰

2008年11月19日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
元文二年(1737年、将軍は八代・徳川吉宗)、岡崎藩に若き藩主が誕生した。水野忠辰(ただとき)14歳。
彼は学問好きで、経済難にあえぐ藩政を儒教の教えにのっとって、改革しようとした。
徹底した節約や人材登用などは、取り立てて目新しい政策ではなかったが、かといって机上の理想論ではなかった。
藩の現状をよく認識したうえでの、具体的かつ有為な案が多かった。忠辰は封建制度のもたらす悪弊が藩に広がり始めていたことを自覚し、積極的な対応策をとろうと画策する。
重臣たちが門閥を形成して、権力を集中しようと腐心しているのが藩政腐敗の原因の温床となっているとし、中級以下の武士であっても実力があれば取り立て、門閥政治に対抗しようとした。
養子制度なども中下級武士にも有利なように改定し、若い層の支持を得た。
また、一部の家老に対しても、処分を加え、先制攻撃に成功した。
しかし、その後の忠辰の運命は過酷である。
結託した家老軍のボイコットに逢い、藩政は立ち行かなくなった。
結局、家老たちの言いなりになるしかなく、せっかく中下級から登用した者たちも罷免するしかなかった。
失意の忠辰は狂ったように放蕩を始め、家老たちへのあてつけで、湯水の如く金を浪費した。見かねた実母・順性院は、一命を賭して我が子を諌めようと自裁したが、忠辰は却って、自暴自棄の度合いを高めた。
家老たちは、忠辰を座敷牢に閉じ込め、幕府には「発狂」として届けた。
忠辰は座敷牢で憤死する。享年29歳。

江戸時代、それも中期以前、忠孝の精神は絶対であったかのような印象がある。
だが、結局は今も昔も人の感情や欲望には、たいした変わりがない。
為政者に求められるのは思いつきではなく、ビジョンである。
忠辰の政策は、ミクロで見れば優れた部分が多かったし、方向も間違ってはいない。
だが、到達地点も示されていなかったし、一命を賭してまで成し遂げる覚悟もなかった。
若かったから、無理もない、とも言えるかも知れない。だが、若くても大事を成し遂げた人物もいる。吉田松陰も亡くなったのは三十である。

最近、人間の実力というものを考える。
人には得手、不得手があって当然だが、オールマイティにすべての分野において高得点な人がいいのだろうか。それとも、不得意分野の得点は低くても、得意分野が突出しているのがいいのだろうか。
アインシュタインだったと思うが、高額の小切手を栞代わりに使い、そのままなくしてしまったエピソードが残っている。ノーベル賞を取るような科学者が、日常生活で物忘れが激しく、預かった原稿などもすぐなくしてしまうとしても、笑い話になるかもしれない。けれども、一般のサラリーマンが、ミスプリントや、計算ミスを繰り返していると、それだけで、全体像までマイナスイメージになってしまう。

話は戻る。
忠辰は希望に燃え、ある程度の信念も持っていたが、覚悟が足りなかった。根回しをするだけの智力もなかった。自己認識も低かったといえる。
だが、わたしは好きである。
与えられた権限を天賦のものとして、なあなあで上手くやっていこうとすれば、忠辰も可能だった。
それを敢えて、改革を行おうとしたのは、若さゆえといえなくもないが、青臭いような若者が、老練な家老連中を相手にして敵わなかったとしても恥ではないと思える。

ちなみに、この忠辰は、天保の改革で有名な水野忠邦の曾おじいさんにあたる。
(2013.1.22加筆修正)

水野忠邦 吉川弘文社 北島正元
大名の日本地図 文春新書 中嶋繁雄

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福本清三さん

2007年07月25日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
久々にハリウッド映画「ラスト・サムライ」を観た。
その理由は福本清三という人の書「おちおち死んでられまへん」という本を読んだからだ。
福本さんは脇役、というか脇役の脇役、エキストラ専門の俳優である。役柄は斬られ役がほとんどだと言う。
その本を読んでいて面白かったのは、福本さんはフリーの俳優ではなく、東映の契約社員で、月給制であり、定年もある、ということである。
俳優というと華やかなものを想像しがちであるが、大部屋付と呼ばれる福本さんのような存在なしには、映画も成り立たないのが事実である。
さすがに豊富な経験の持ち主だけあって、面白いエピソードがたくさんあるのだが、主役俳優について絶対に悪口を言わないところなど、さすがである。
新幹線に置いてある雑誌の「エッジ」に掲載されていたのだが、昔の俳優は色男でも顔が大きかった。現在、小顔の俳優がもてはやされるのは、求められる俳優に可愛らしさ、少年性が求められるからだという。本書にも、北大路斤也の父親である市川右太衛門について述べている部分がある。この御大も例に漏れず、顔が大きかったと言う。旗本退屈男の撮影の時である。そのビッグフェイスに白いドーランを塗りたくり、つけまつげをして、額に三日月傷の市川御大に斬りかかろうとする若かりし頃の福本氏。「ぬぬっ」とにらみつける御大。「その顔の大きいこと!」、あまりの怖さに斬り込めず、「斬り込み方が遅い!」と御大に叱られてしまったそうである。異形とも言えるような大げさなメイクのビッグフェイスに至近距離から睨まれては、確かに迫力満点で怖かったのでないかと思う。その点では、今どきの小顔ベビーフェイスで睨まれても迫力はありゃしない。
その福本さんが、「ラスト・サムライ」に出演することとなる。
トム・クルーズ演じるオールグレン大尉の見張り役兼警護役(サイレント・サムライ)という設定で出演。
福本さんは、この映画では、変なあごひげと月代をしっかり作っているせいか、猿っぽい顔になってしまっているが、浪人の髪型にすれば、痩せ形と相まって表情次第では残忍にさえ見える人なのだが。
アメリカへ入国する時のエピソードが面白い。
映画は全て地毛で行くでいくという前提で、頭の両側の髪を長いまま残し、トップをばっさりとカットした福本氏。逆モヒカン刈の様相である。そのままではさすがに不審がられるだろうと、野球帽を被って入国審査へ。パスポート所得時はパンチパーマ。野球帽を取るように言われ、指示に従うと、見たこともないような異様な髪型が・・・。さすがに自由の国アメリカでも仰天したらしい。ヤクザではないかと疑われた福本氏はなかなか入国できなかったと言う。
五百人のエキストラを使い、準備と撮影で三ヶ月の期間を要したというハリウッド映画。
永らく日本映画の内部を見て来た福本さんをうならせるのに十分。
最初にこの映画を観た時は、どうしても時代考証に気が行きがちで、「あそこは違うな」「ここも違うな」などとチェックしてしまったが、福本さんに言わせるとスタッフは、「どうやってこんなに調べたかと思うほど資料をあたったみたいだ」とし、「見事な時代考証だ」と言わしめている。
考えてみれば、日本の時代劇だっておかしなものだ。
「ひとぉつ、人の生き血をすすり、ふたぁつ、不埒な鬼を」なんて言ってる間に斬りかかってきけばいいわけだし、どういう訳だか主人公の背後に回った敵もひとりひとししか斬りかからない。おまけに斬った死体もいつの間にかなくなっている。人を斬った時の「ぶしゅ」などという効果音もおかしなものだ。
背景にしても、奉行所の門にわざわざ「南町奉行所」と書かれていたり、居酒屋などの設定もメチャメチャである。
それから考えてみれば、「ラスト・サムライ」の間違いを責めてもいられない。
DVDの付録として、背景を作った人たちのインタビューも収められているが、このインタビューも興味深い。
リリーなんとかという女性なのだが、1876年と1877年の差異にこだわっていて、1877年には電話線が架設されていたというこで、電話線のある明治の東京の風景が描写されている。この場面は、前近代と近代が交わるところとして、必要性を感じていたのだろう。1877年には西郷隆盛の西南の役が起こっているので、この映画のモデルがその辺りにあることも分かる。そして確かに日本で最初に電話が通じたのが1877年であるから、しっかりした時代考証ということになる。
ただし、日本人としては桜と藤が同時期に咲いていたり、黄色のピーマンが農家に植えられていたり、ともっと気になるがいくらでもあるのだが。
この映画の振り付けは「グラディエーター」の振り付け師が行ったということで見応えがある。ただ、回転技しながら敵を斬るなどというのは、長い日本刀向けでないような。
あと、これは日本の時代劇にも言えることだが、刀を鞘から抜くときに金属音がするが、あれは気になります。鞘は木製であるから、金属音はしません。細かいことですが・・・。

おまけですが、効果音についてこんなHPを見つけました。興味がある方はどうぞ。

「おちおち死んでられまへん」 福本清三 小田豊二 集英社文庫