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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

坂本龍馬の筆跡

2010年05月12日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
NHKの大河ドラマの影響はかなりのもので、坂本龍馬が人気である。

世の中には色んな鑑定があるもので、筆跡による性格の鑑定というものもある。
宮地佐一郎氏は、その第一人者であるが、坂本龍馬の筆跡を鑑定したことがある。
龍馬の字は、丸みが強く、鋭角が少ない。
これは、人との衝突を好まない性格。
自在の連綿線ともいえるものがあり、ここからリズム感や運動神経が発達していると感じるという。
文字と文字の間も、どこにもつぶれて苦しくなる空間がない。
これは気配りに通じ、龍馬と会った人は警戒心を抱かないと想像する。
あと、龍馬の字は、行の下のほうが左へずれる傾向がある。
このような字を書く人は、楽天家で、発想力が豊かで気配りに優れた人物であると鑑定しておられる。

傾向的には、豊臣秀吉と似ている字であるそうだ。
龍馬と秀吉。
あまり似ているとは言われたことのない二人だが、意外なところから、意外な関係が語られるものである。




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土井聱牙・どいごうが

2010年02月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
土井聱牙
河合継之介の生涯を描いた司馬遼太郎の「峠」に土井聱牙という人物が登場する。
長編小説の中、わずか三ページ弱の登場だ。
聱牙は、津で土井塾を開き、後に藩校である有造館の五代督学(校長)になった人物である。

(河合継之助は)内心聱牙など一文の価値もないと見限っていた。聱牙には言説があって行動がない。
「彼は用いられざることを憤っている」と、のちに継之助はいった。
「不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ」と継之助はいうのである。


司馬の筆にかかると、けんもほろろに描かれてしまっている。どうも、司馬は藤堂家が嫌いなのか、津の人物に対しては評価が厳しい。津城の天守閣は五層で、旅人はその見事さに驚いた、などと間違いをいくつか犯しているのも、そのせいだろうか(この頃、津の天守閣は焼失してしまい、なかった)。

先日、津へ取材に行っていて、聱牙の子孫に当たる方とお話する機会を得た。
江州日野の楓井(かいで)家に養子に行った次男・純の嫡流の方で、津城のすぐ近くで日本料理店を営んでおられる。

聱牙は、奇人としての行いで有名であった。
ひどく暑がりで、夏は素っ裸で過ごしたという。
暑くなると、裸のまま庭に出て、私塾の生徒に水鉄砲を持たせた。
簡易シャワーであり、気持ちよさに聱牙は奇声を上げて喜んだ。
この声を聞くと、近所の人は夏の到来を実感したという。

奇行ばかりが喧伝されがちな聱牙あるが、実際の思想はどのようなものだったのだろう。
当時、聱牙は「聖人論」という自書の中で孔子を否定したということで知られていた。
聱牙によると、孔子は儒学の祖として尊ばれているのであり、それならば盗賊団を作った人物も祖として尊ばれるべきだ、としている。
「わたしに言わせれば孔子のどこに徳があるというのだろうか」とまで言っている。
そこから考えれば、彼が佐幕派寄りの思想があったとは考えにくい。
彼に言わせれば(大きな声では言えないが)徳川家康は江戸時代という時代を作った祖として尊ばれているだけだと考えた。
実のところ、孔子否定は、幕府の基本思想・朱子学の否定にもつながるが、津の歴代督学は、自らの思想を政治の場面に持ち出さなかった。

津・藤堂家というのは、複雑な立場で、外様であるにもかかわらず、徳川家からの信頼が厚く、親藩に準ずる扱いを受けてきた。
伊勢に近い立地条件から、勤王思想も強い。
伊勢参りの客が立ち寄る観光国として開放的な土地柄でもあった。そのためか、海外からいちはやくカメラを購入するなど、進取の気性も持ち合わせていた。
様々な思想がミックスされていて、一方的な佐幕・倒幕を声高に論じるほど単純な風土ではなかったのである。

話を聱牙に戻す。
小心な人物が本心を見抜かれまいと、豪放磊落な人物を演じることがある。聱牙は小心であったと思わないが、司馬も描いていたように、照れ性だったように思う。
天の邪鬼でもあったのは間違いない。

聱牙は、若い頃、本の読み過ぎで極端に目が悪くなった。読書を制限しろという助言も無視して本を読み続けたため、ついに左目が完全に見えなくなってしまった。
勿論、それでも、聱牙は読む量を落とさなかった。
そんな聱牙であるから、生徒に対する指導には厳しいものがあった。
授業でも筆記は許されず、音読による暗記が求められた。
それも大声での朗読なので、生徒の声は枯れていることが多かった。
私塾を開いている頃は、有造館へのライバル心もあったのだろう。

ある時、聱牙は尋ねられた。
随分、厳しい教育方針だが、落ちこぼれた生徒はどうするのだ、と。
聱牙は答えた。
「私の言う事を聞かないで落ちこぼれた生徒は放っておく。私の言うことを聞いて、なお生徒が落ちこぼれるのであれば、それは教師の責任なので一命を賭しても教えぬく」

聱牙がよく書した言葉に「開物成務」という語がある。
易経の中の言葉で、人々の知識を拓いて、物事を成就させるの意。
東京の優秀な学校である開成学園の由来でもある。

「天下に棄才なし」も聱牙の言葉である。厳しい反面、生徒には愛情を注いだ。
有造館の歴代督学は、研究者よりも、教育者としての一面を大事にしていたように思う。


楓井家に伝わる藤堂家からの礼状

峠 司馬遼太郎(新潮文庫)
叢書・日本の思想家39 橋本栄治 明徳出版社

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細井平洲

2009年12月03日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
パソコンの調子が非常に悪い。そろそろ買い換え時なのかなあ・・・

時代の波は著名な人さえも忘却の彼方に押しやってしまう。
その中で自らの名を冠した記念館が造られている人物は希有といってもいいのだろう。
今回取り上げた細井平洲は、米沢藩主・上杉鷹山の師として有名である。
平洲は享保十三年(1728年)の生まれで、享和元年(1801年)に亡くなっているから、江戸中期の儒学者である。
晩年には尾張藩校・明倫館の督学を勤め、平洲の講義を聴こうとした者が建物の内外に鈴なりとなったという。
生まれは知多郡平島村。現在の愛知県東海市である。ブドウ畑が点在する地に、平洲記念館は建っている。

平洲の学問の特徴としては、実学を重んじ、平易な言葉を使っている点が挙げられる。
平洲は学問が象牙の塔にこもることを恐れ、辻説法を行っていた。今で言えば、ストリートミュージシャンの感覚に近い。
街頭での辻説法を聞いたのが、上杉鷹山の部下であり、その線から平洲は鷹山の師となった。
寛政の三奇人と呼ばれた高山彦九郎も平洲の門人であった。

実際の平洲の教えとはどのようなものであったのだろうか。
一部を引用してみる。

およそ、才能あり学問のある人を育てるには、農夫が野菜を育てるようにするべきであって、菊好きが菊を育てるようにすべきではない。野菜を育てるということは、よきも悪しきも皆養い育てることであって、よきにしも悪しきにも、どれにもこれにも、使い道はあるものである。菊を育てている人は、自分の心にそぐわない花を発見すると、必ず刈り取って捨ててしまうであろう。〈教育とは〉概略このようなものなのだよ。

書物で博く学ぶこと、その学んだことを考えることとが、両者相共に補いあって、学問・修養は深まってゆくものだというのが古聖人の教えなのだ。


東海市では平洲の業績を今に伝えようと、かなり尽力している。
平洲記念館も名誉館長に作家の堂門冬二氏を迎え、HPも充実した内容になっている。
細井平洲の名は全国区ではないが、こうした郷土の文化的偉人を後世に伝えようとする行政の働きは、非常に有意義であると思う。



平洲をモチーフにしたキャラクター「へいしゅうくん」

嚶鳴館遺稿・初編 小野重行 東海市教育委員会

平洲記念館HP

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深川八郎右衛門

2009年11月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
今日十一月十一日は第七代深川八郎右衛門の命日である。
深川八郎右衛門と言っても、あまり馴染みがないと思うが、「半面は海水漫々、半面は蘆萩《ろてき》叢生《そうせい》し」と言われたぬかるみの地を江戸時代初期に埋め立て、人間の住めるような地に改良した功労者である。
深川の地名は、この深川八郎右衛門にちなんでいる

江東区出版の「江東辞典」によると、

江東区は、天正年間に摂津の人、深川八郎右衛門が深川町を、万治元年に相模の人、砂村新左衛門が砂村新田をそれぞれ開発したのを初めとする比較的新しい町です(~序文から)

とある。
何となく自分の記憶と違ったので、矢田挿雲の「江戸から東京へ(六)」を引っ張り出してみると、

慶長年間、伊勢の人深川八郎右衛門が落雁のようにこの低地に降りて、開墾事業をこころみた

何だか気になってしまい片っ端から家にある町名辞典を調べてみたが、三省堂の「江戸東京学辞典」の記載が信頼できそうである。

『新編武蔵風土記稿』によると、深川の開発は慶長元年(一五九六年)にはじまる。海辺の萱野であったこの地を、摂津国から東国に来た深川八郎右衛門が開発し、徳川家康の命によりその苗字をもって村名としたとある。

また、深川の地名には、フカ(=鮫)があの川筋にも多く上がって来たからだ、という説もあるが、この説は先の矢田挿雲が「ワニだったら川筋に上がってくるというのも分からなくないが、鮫が川に上がってくるものか」と一蹴している。

何だが、深川八郎右衛門から話が大分ずれてしまった。

この八郎右衛門は、家康公の御墨付きもあり、世襲制で代々、深川家長子が八郎右衛門を名乗り、二十七町ならびに村方の名主役を務めることとなる。
その七世八郎右衛門のとき、清住町に大達孫兵衛なる者がいた。その孫兵衛が土地を退転する際に、組合一同に不行き届きがあったと叱責を受けた。
親譲りの義侠心を持つ八郎右衛門は全ての責任は自分にあるとし、一人獄に下った。
結局、七世八郎右衛門は獄中死してしまい、名門は家名断絶してしまう。
驚いたのは町民である。八郎右衛門の徳を深く感謝した町人たちは、八郎右衛門の遺骸を是非にと請うて深川家菩提寺である猿江泉養寺に厚く葬った。
その後も二十七町で経費を持ち寄り、毎年供養した。
何かにつけ、損か、得か、という打算主義の信者になりがちな現代の我々にとって、何だか気持ちのいい話である。


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高山彦九郎②

2009年08月22日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
インターネットを見ていたら、高山彦九郎は今で言ったらオタクのような存在だったかも知れない、という記述を見つけた。
最初は随分、突飛な意見だと思っていたがよくよく彦九郎の行動を見ていくと、確かにオタクっぽいところがある。
彦九郎は日記マニアであり、コレクターでもあった。彼が集めていたのは全国の美談といった類のものだ。
もっと系統立てて、風俗なども書いていたなら、たとえば「守貞漫考」のような歴史的資料になっただけに、残念である。
彦九郎が現代に生きたなら、さしずめ熱心なブロガーになったであろう。

彼を一言で表す漢字は「純」だろうか。
彦九郎は経世家というが、学者ではない。一派立てて、学説を論じた訳でもないのだが、強烈といってもいいほどの尊王、あるいは敬親といった考えを持って、各地を遊説して廻る。

この彦九郎の一大転機ともいえるのが、光格天皇に拝謁したことであろう。一途な彦九郎は、ますます尊王思想に傾倒するようになり、後に尊号問題では京師にうまく利用されたとも言えなくもない。
尊号問題とは時の光格天皇が実父である閑院宮に太上天皇の尊号を与えたいと主張し、それを松平定信が大反対したという事件を言う。
天皇に在位しなかった親王に天皇の称号を与えるというのはどう見ても異例で、定信の反対意見のほうが筋が通っていたが、朝廷は、繰り返し認可するように主張した。

この問題は、実は江戸と京の綱引きであり、京の揺さぶりであった。
この時、京側のPR担当として彦九郎は活躍するのであるが、幕府から見れば、目の上のたんこぶに等しい。
次第に要注意人物として危険視されるようになり、西国に活動の場を移すが、西の地に行っても、依然、幕府側の監視は厳しく、ついに自刃してしまう。

彦九郎は、優れた思想を遺した人物ではない。
しかし、幕末の志士にも少なくない影響を与えた。
それは彦九郎の思想よりも、彼の純な行動によるところが大きかったのである。

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高山彦九郎①

2009年08月19日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
寛政の三奇人と言われたのは、林子平、蒲生君平、高山彦九郎の三人である。
現代となっては、林子平の知名度が一番であろうか。
ちなみに高校の参考書を読んでみると、ちゃんと三人の名前は挙がっている。

寛政時代の経世家、高山彦九郎(1747~93)が尊王思想を説いて全国をめぐり、蒲生君平(1768~1813)は歴代天皇の陵墓の荒廃をなげいて「山陵志」を著し(中略)、いずれも尊王を説くものの倒幕を論じたものではなかった。

外圧の接近とともに、幕政に警鐘を鳴らしたのは海防論であった。(中略)寛政時代には、仙台の人林子平が「海国兵談」を著して海防を厳にすべきことを説いた。


子平の「海国兵談」は、*付きで欄外に引用までされている。

日本は海国であり『細カに思へば、江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也』と説いて海防の必要を説いた。

この文頭の文句は大学入試にも出題されたことがあるほどで、やはり子平の知名度は抜きん出ている。
君平も宇都宮に蒲生神社が建てられ、学問の神様として名高い。

他の二人と比べて彦九郎はどうであろうか。
彦九郎も高山神社が建てられ、記念館も生まれ故郷の群馬県にはあるが、変なところで最も有名である。
それは京都の京阪三条。
彦九郎は土下座という別名で知られていると言う。
そこには彦九郎が膝をついた姿勢の銅像があり、待ち合わせ場所として有名だそうだ。
だが、地元民でも銅像の主である彦九郎が何をした人物であるか知らない人が大部分であるし、名前すら知らない人も多い。
実は銅像がモチーフとしているのは、土下座をしているわけではなく、御所を見た際に思わず膝まづいた姿勢らしい。

では、彦九郎とはどのような人物であったのであろうか?
次回に内容を見てみたい。

「詳細日本史研究」 笠原一男 (山川出版社)

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幕末のイケメン・渋沢平九郎

2009年08月08日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
「悲劇の戊辰戦争」という本を読んでいると、南條範夫氏が書いた榎本武揚の項の文が目に付いた。

榎本は、堂々とした体つきの、非常な美男子であった。この点では、明治元勲のだれもかなわない。彼が宮中に出仕すると、女官たちが騒ぎ立てたといわれる。

そう言われてみると、榎本も整った顔立ちのように思えるが、稀代一と言い切っていいものかどうか。
では、誰が幕末一番のイケメンだったであろうか。暑い夏の暑気払い程度に考えてみたい。

まず、思いつくのは新撰組土方歳三。沖田総司はそんなに二枚目でなかったというのが通説となっているが、歳三は函館で田本研三が撮ったと思われる写真によりイケメンの座を獲得している。
おまけに歳三の写真は、目元に修正も加えられイケメン度を増している。

続けると、木戸孝允なども男前で、よく一緒に写った伊藤博文は木戸の引き立て役のようになっている。
勝海舟も小柄ながら母性本能をくすぐりそうな顔をしている。財閥の大物となった薩摩の五代友厚もなかなかいい顔である。個人的には、山岡鉄舟などもいい顔だと思う。
中には徳川慶喜をイケメンという人もいる。龍馬をイケメンという人もいるが、贔屓倒しのような……。

歴史的には著名ではないが、イケメンとして人気ある人物に池田筑後守がいる。筑後守は、遣欧使節団の正使として巴里に赴いた人物であるが、若くして政治から離れしかも、早世してしまったためあまり知られていないが、「いい男」であるのは間違いないであろう。
下に島霞谷の手になるスケッチを掲載したが、同じ時期に描かれた同じ遣欧使節団の一員、河田相模守も甘いマスクの「いい男」である。

その中であえてイケメンNo1を選ぶとしたら、個人的には渋沢平九郎を推したい。

平九郎は、天野八郎一派により彰義隊を追われた渋沢成一郎の養子である。平九郎は、振武軍参謀として現在の埼玉県本能市の入間川と高倉方面で官軍と激突。激闘のすえ、敗戦した平九郎らは顔振峠から黒山方面に逃走したが、追い詰められてこの地で自決した。

越生町のHP

幕末の人物といっても、何回も写真を撮っている伊藤博文のような人物は例外で、一葉の写真しか残っていない人物が多い。そうすると、その一枚の写真写りというのが、その人の評価にも関わってくる。
たとえば、中原中也も帽子を被った例の写真の写りがよかったから更に名声を得たとも言える(?)し、松平容保なども写真写りがよかったといえる。
平九郎も、残っている写真は紛れもなくかっこいい。
いかがでしょうか?



池田筑後守


河田相模守


渋沢平九郎

幕末諸隊 秋田書店 栗原隆一
悲劇の戊辰戦争 小学館
島霞谷 松戸市戸定歴史館
幕末の志士199 学研

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龍馬・総司の字体

2009年08月05日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
新人物往来社から沖田総司、土方歳三、坂本龍馬の三士の手紙の複製が発刊されている。
手紙の他に小冊子がついているが、その記事の中で興味深かったのは、筆跡鑑定である。

性格分析を行っているのは、筆跡鑑定家の森岡恒舟氏。

大変面白かったので、上の三人の性格分析をまとめてみる。

沖田総司・・・優秀な運動神経の持ち主。重い剣を遣う。迫力と非情さを感じる。人から頭を押さえられると反発する。人から支配されるのを好まない孤高型。心身のどこかに苦しいところが感じられる。字体としては源義経と似ている。

土方歳三・・・頭領的立場よりは付いていくほうで、感受性豊かでロマンチストである。明治に生まれてきたらピアニストになったかも知れない。剣の腕は抜群のものを思わせる。

坂本龍馬・・・字からは運動神経のよさを感じると言う。発想力が豊かで角が立たず、どこにも苦しいところがないように気を配る。楽観的で、豊臣秀吉の字体と似ている部分がある。


驚くほど当たっているが、三人の性格は周知なので、もっとあまり知られていない人の性格もみてもらいたいように思う。


坂本龍馬が姉に宛てた手紙

沖田総司、土方歳三、坂本龍馬の手紙 新人物往来社


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戸部新左衛門

2009年01月29日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
先日、豊橋の吉田城を見に行った際に、歴代の城主の中に戸部氏という人物がいるとの記述を目にしていた。
名古屋市緑区に戸部氏の碑があると聞き、行ってみると、戸部新左衛門が吉田で暗殺されたという説明文がある。先日の文が頭に残っていたから、すっかり吉田城主が暗殺されたのだと思った。
これが勘違い。
調べてみると、吉田城の城主であったのは、戸部氏ではなく、戸田氏であった。
天文六年(一五三七年)に吉田城主となった戸田金七郎宣成という武将であり、天文一五年(一五四六年)まで城主を勤めている。
一方の殺害された戸部氏は、戸部新左衛門政直。新左衛門殺害の経緯を調べると、黒幕は、織田信長。
新左衛門は、もともと信長の家臣であったが、義元有利とみるや、今川側についた。これを知った信長の怒りは大きかった。
信長は、義元側が内部から瓦解することを狙って新左衛門の筆跡を真似て偽の手紙を作成し、わざと義元の目に触れるようにした。新左衛門が再び信長方に寝返るような内容の手紙である。この手紙を読んだ義元は、新左衛門に釈明の余地も与えずに斬り捨ててしまう。
勢いに乗った信長は同じような風評作戦を再び使用し、笠寺城主の山口教継をも、義元に殺させている。
似たようなケースが連続して起こったので、新左衛門と教継を同一人物だとする説もあるが、粘着気質のある信長のことである。これでもか、という作戦は、信長らしいように思えるし、実際には、よく分からない(ウィキペディアでは、戸部新左衛門を笠寺城主としている)。
いずれにせよ、これでは、義元側の部下は、命賭けで就いていく気にはなれない。
桶狭間の戦い以前に勝敗はついていたとも言える。
さらに調べていくと、NHKで放映されている「忍たま乱太郎」に同名の戸部新左エ門なる人物が出ている。
どうして、このようなマイナーな人物がモデルとなっているのかと思っていたら、「忍たま乱太郎」の作者尼子騒兵衛氏の友人が戸部氏の子孫であったからと言う。尼子氏は、、時代考証家の名和弓雄氏に教えを請うていたし、いかにも、通好みの設定である。
今回の件では、自分としては二転三転した新しい知識が入って面白かった。


吉田城趾は、豊橋公園として整備され、豊橋市役所もこの地にある。昭和29年には隅櫓が再建された。
今回は携帯の画像を利用したら、サイズが大きくなった。これくらいのほうが、見やすいかも。


新左衛門の碑のある地には、大きな楠があり、目の前は幼稚園。地域の人が花を添えているようで、何となく暖かい雰囲気であった。

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藤堂高虎・遺訓の謎

2009年01月23日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
藤堂高虎が伊勢伊賀(現在の津市)に入府したのは、一六〇八年。関ヶ原の合戦より下ること八年。ここに三十二万三千石の伊勢藤堂家が誕生する。
昨年は、高虎入府二百年にあたる年であり、津市でも色々なイベントが行われた。
高虎というと巨漢で身長が百九十cmもあり、馬にまたがると、足が地に着いたという。その頃の馬が体高の低い日本馬だったこともあるが、高虎が大きかったことに変わりはない。
高虎は、みかけとは違い、極めて繊細な神経の持ち主だった。考え方も独特なところがある。
関ヶ原の合戦で東軍について勝利を収めた高虎は勝利後、石田三成に自分の戦略について意見を求めている。三成が指摘した欠点を高虎は真摯に捉えて反省したと言う。
高虎が亡くなったのは一六三〇年(寛永七年)十月五日であるが、高虎の遺訓を大神朝臣惟直(おおみわのあそんこれなお)という人物が一六三四年に書き残している。これが、「高山公二百条」と呼ばれるものである。
第一条は、よく知られたもので「寝所を出るよりその日を自分が死ぬ番と心得ておくべきである。このように覚悟しておけば、物に動ずる事がない」から始まる。
この編者である大神朝臣惟直という人物は、従来佐伯権之助惟直であるとされてきたが、このような人物は実在しないことが分かってきた。
佐伯氏は、初代を惟定と言い、もともとは九州大友氏に仕える武将であったが、大友氏失脚後の、文禄二年から高虎に仕えるようになって、頭角を現した。惟定は一六一八年に死去。二代目惟重は、一六四五年に死去している。
時期的に言えば惟重が合うのだが、惟直と名乗る確証がない。
書き手は、はっきりせず、偽の遺訓ではない、という可能性も100%撤廃できない。
果たして誰が書いたのか、謎である。
だが、内容は、いかにも高虎が考えるようなものである。今に通ずるものも多い。中でも「数年昼夜奉公をつくしても気のつかない主であれば、譜代であっても暇をとるべし。うつらうつらと暮らすのは意味がない」と断言している内容など、高虎らしい。
時代は下って、幕末~明治期。
藤堂高猷(たかゆき)は、鳥羽・伏見の戦いで、当初は幕府側についていたが、後に新政府軍に寝返り、幕府軍敗走の原因を作ったと言われる。
処世術ともとれるこの身の変わり方は、高虎伝来のものであろうか。


津城址 御城公園として整備されている


公園内の高虎像 逆光気味で御尊顔がよく分からないが、プロペラのような兜は豊臣秀吉より授けられたものとされる

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