木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

近藤勇の首と団子~法蔵寺(愛知県岡崎)

2008年12月20日 | 江戸の幕末
近藤勇が板橋の刑場の露と散ったのは、慶応四年(1868年)の春。斬首刑により切り取られたその首は塩漬けにされ京都三条大橋にて晒された。
この斬首というのは、ただ単に犯罪者を死に至らしめるだけでなく、死んだ後も胴体と頭を別々にされているため成仏できない、という仏教的な恐怖を与えるためであった。死体も打ち捨てで、遺族が引き取ることもできない。
大物政治犯となった近藤勇の場合も遺体は、埋められていたものを有志が掘り起こしたとされているが、真偽のほどは分からない。
晒された首は、後日、行方不明になったと言う。首の場合は、遺体と違って目立った所に置かれていた訳だし、セキュリティシステムもない時代の話であるから、夜陰に紛れて奪取することは可能だったのであろう。
しかし、首を奪っても朝敵となった新選組幹部の首を堂々とは葬れない。秘密裏に行われたことであるから、近藤勇の体、あるいは、首が最終的にどこに埋められているかについては、分からない。
そのため現在、近藤の墓ないしは首塚と呼ばれているものは、国内に数カ所ある。
今回、私が訪ねた岡崎市の法蔵寺もその一つである。
寺の看板にある由来を要約する。
三条大橋に晒されていた近藤の首を奪取した同志は、かつて近藤が敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に供養してくれるように申し入れる。和尚は、39代目の貫主になることが決まっていた法蔵寺に近藤の首を密かに持ち込み、塚を建立した。
真偽については、十分な確証がないため触れない。
ただ、この寺はさすがに岡崎だけあって、家康ゆかりの寺でもある。
家康は幼少の頃、この寺で学問を学んだこともあると言い、門前には、家康手植えの松(今の松は後に植えられたもの)がある。
徳川ゆかりの寺に、近藤の首伝説が残るというのも、何かの因縁である。
この寺は、旧東海道筋にあり、門前では昭和の初め頃まで、法蔵寺団子なる名物が売られていた。
一本の串に指で平たく潰した五つの団子を炙り、溜り醤油で味付けしたものだと言う。
炙られた団子のいい匂いに誘われて、大いに売れた。盛時には遠方からわざわざ買い求める人もいるほど人気を呼んだらしい。
近藤勇の首塚説が浮上したのは、昭和30年代であるので、それまでは、法蔵寺は、団子で有名な寺だったということになる。

寺内にある近藤勇の胸像


寺の全景

法蔵寺の地図

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