聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




2テモテ 3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
3:17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

キリストに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける、ということは、おおよそ事実であろと思う。
けれども、それは「避けられないだろう」という意味であって、クリスチャンはみな迫害を受けなければならないとか、受けるべきであるといった意味ではないだろう。
信仰に忠実に生きようとするなら、どこかで信仰とは相いれない価値観や勢力とぶつかってしまうだろうし、その時、様々な軋轢が生じることは避けられないし、それはごく当然起こりうることである。
そんな時、忍耐強く生きることが求められるのも事実であるが、その前に「信仰に生きる」ことを徹底していれば、それで十分なのだろうと思う。
信仰の戦いは、こちらから挑んでいくような戦いではなく、命の約束を奪い取ろうとするものや、キリストの恵みを無にしようとする様々な誘惑との戦いであって、他宗教や人との争いを喚起するような類のものでもない。
信仰に生きる者は、無用な争いを引き起こすことはするべきではないし、ましてや、信仰を理由に戦争をはじめるなど愚の骨頂であろう。
信仰は、人々に真の平安をもたらすものである。
キリストが敵意を引き受けて、真の平和をもたらされたように、神に仕える人もまた、キリストにならい、平和を生み出す努力を惜しまず歩んでいくべきであると思う。

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