聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヘブル 11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、
11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、
11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。
11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

この箇所を読むと、信仰に生きれば、誰もがどんな試練をも耐え抜くことができ、力強い歩みを続けていくことができるかのように思えるかもしれない。
しかし、実際には、ここに名前の挙がった人たちでさえ、悩み、つぶやき、時には神の御心を損なうような歩みもたくさん積み重ねている。
いわゆる、普通の人間なのである。
しかし、神の御心に従うべきかどうか、究極の選択を迫られた時には、やはり「神に従う」ということを選び、決断し、行動してきた、ということであろう。
そういった出来事がクローズアップされているからこそ、彼らの信仰の生涯が素晴らしいものに見えるのであろう。
そんな「信仰の生涯」を送った信仰の祖を見上げながら、我々もまた、彼らと同じように主なる神のみを恐れ敬い、神が備えて下さる約束のものを求めながら、信仰の生涯を歩んでくことは、ここでの勧めの中心なのであろう。
彼らに比べたら、なんとちっぽけなことで悩んだり恐れたりしているのだろうか、などと悩むことがあるかもしれないが、そうではなく、彼らもまた、恐れ、悩み、苦しんだのである。
ただ、ここぞという時には、主なる神に従ったのである。
それはどんな時かと言えば、もはや自分の力ではどうするこもできない絶望的な時にこそ、彼らは神に立ち返り、神を頼り、神に従ったのである。
多くの信仰者が迫害に苦しみ、殉教していった者たちもいる。
そんな彼らも、死の瀬戸際まで追い詰められ、もはやこれまで、という中で、キリストへの信仰が最後の望みであったであろうし、人が死ぬ直前に想うことは「神様、助けて!」という信仰の叫びなのだろうと思う。
死の直前だけでなくとも、我々はいつでも死に瀕しているし、何度も絶望の淵に立たされる。
だからこそ、神を求める信仰が必要であるし、養われていくのかもしれない。
願わくは、多くの試練を経ない、平穏な生涯を歩み続けたいところであるが、何気ない平凡な日常の中にも、主なる神を求め、祝福を祈りつつ歩み続けていけるように。

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