聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




ヨハネ9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
9:34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

神を信じない人は、神を信じる人の証しをも信じようとしない。
だから、もし私たちが証をして、それを聞いた人が信じてくれなくても落ち込むことはない。
ただ、この目を癒された人は、信じてくれるかくれないかに関わらず証をしたことは事実である。
つまり大切なことは、信じてくれるかどうかに限らず、証をするということ。
それが救われた者の務めである。
私たちの証しを聞いた人が信じてくれるかどうかは、証をする前からはわからない。
ただ、もし信じてくれたら嬉しいし、主もきっと喜んでくださることだろうから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )