デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




出エジプト記 28:29 このようにして、アロンは聖所に入るとき、裁きの胸当てにあるイスラエルの子らの名を胸に帯び、常に主の御前に記念とするのである。
28:30 裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主の御前に出るときに、その胸に帯びる。アロンはこうして、イスラエルの人々の裁きを、主の御前に常に胸に帯びるのである。
28:31 また、エフォドと共に着る上着を青一色の布で作りなさい。
28:32 その上着の真ん中に頭を通す穴をあけ、そのへりは革の鎧の襟のように縁取りをして破れないようにする。
28:33 上着の裾の回りには、青、紫、および緋色の毛糸で作ったざくろの飾りを付け、その間に金の鈴を付ける。
28:34 金の鈴の次にざくろの飾り、金の鈴の次にざくろの飾りと、上着の裾の回りに付ける。
28:35 アロンが聖所で務めをするとき、この上着を着ける。それは彼が中に入って、主の御前に出るときにも、立ち去るときにも、鈴の音が聞こえるようにして、死を招くことがないためである。
28:36 また、純金の花模様の額当てを作り、その上に印章に彫るように「主の聖なる者」と彫りなさい。
28:37 次に、この額当ての両端に青いねじりひもを付け、ターバンに当てて結び、ターバンの正面にくるようにする。
28:38 これがアロンの額にあれば、アロンは、イスラエルの人々がささげる献げ物、つまり、聖なる献げ物に関して生じた罪を負うことになる。また、彼がそれを常に額に帯びていれば、彼らは主の御前に受け入れられる。

詩篇 115:1 わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって。
115:2 なぜ国々は言うのか 「彼らの神はどこにいる」と。
115:3 わたしたちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる。
115:4 国々の偶像は金銀にすぎず 人間の手が造ったもの。
115:5 口があっても話せず 目があっても見えない。
115:6 耳があっても聞こえず 鼻があってもかぐことができない。
115:7 手があってもつかめず 足があっても歩けず 喉があっても声を出せない。
115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は 皆、偶像と同じようになる。
115:9 イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
115:10 アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
115:11 主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
115:12 主よ、わたしたちを御心に留め 祝福してください。イスラエルの家を祝福し アロンの家を祝福してください。
115:13 主を畏れる人を祝福し 大きな人も小さな人も祝福してください。
115:14 主があなたたちの数を増してくださるように あなたたちの数を、そして子らの数を。
115:15 天地の造り主、主が あなたたちを祝福してくださるように。
115:16 天は主のもの、地は人への賜物。
115:17 主を賛美するのは死者ではない 沈黙の国へ去った人々ではない。
115:18 わたしたちこそ、主をたたえよう 今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。

フィリピ 1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


昨日、礼拝について話し合う委員会が行われ、4月から転任してきた私の率直な感想を聞かせて欲しいということで、これまで奉仕した教会の礼拝とちがうところや気になった点などあれば、教えて欲しいとのことであった。
ずっと自分の教会しか知らない方にしてみれば、他の教会がどんなスタイルで礼拝を守っているのか興味があるようである。
とりあえず会堂の大きさなどの違いによる賛美歌の響き方などについて話したが、礼拝全体の流れに関しては、それほど大きな違いはない。
多少の差異はあっても、だいたいどこの教会でも同じようなスタイルであろう。
しかし、改まって礼拝とは?といったことについて考えてみると、はじめて教会に来られた方などには、おかしいなと思うようなことは幾つもあるのだろうなあと思わされる。
たとえば、献金など、はじめて教会を訪ねた人がつまづきやすいものの一つであろう。
献金の仕方などについても少し話し合ったが、委員の一人がのお母さまが通っている教会では、会堂の入り口に献金箱が設置してあって、会堂に入るまでに捧げたい人だけが捧げる仕組みなのだそうで、礼拝中に献金を捧げる時間はないそうである。
賛否は別れるかもしれないが、いろいろと配慮することを考えた結果なのだろう。
牧師の服装や髪型なども、どうだろう。
はじめて来られた方もだが、毎週お会いする方々に、不快な印象を与えていないだろうかとおもうこともある。
けれど、礼拝とは何か、神の恵みを受け取り、感謝し、祈り、賛美する場であるといったことを思うなら、そこにあずかる人たちがどういうスタイルでいようと、本当は何ら問題ないし、むしろ、ボロボロのまま集ってもいいのではないだろうか。
聖書の中でイエス様が語られている放蕩息子のたとえでは、放蕩の限りを尽くした息子は、きっと着の身着のままで、ボロボロの服を着て、身なりもうす汚れたまま父のもとへ帰ってきたことだろうし、父はその息子を見て喜んで抱きしめたのである。
恰好など、本来はどうでもよい。
本当に重要なことを見分け、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
たとえどんなに罪深い愚かな者であろうとも、ありのままで神の招きに応じ、心から信頼して神のもとへ立ち返ることができるようと願うものである。



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