箴言 28:3 貧しい者が弱者を搾取するのは 雨が洗い流してパンがなくなるようなものだ。
28:4 教えを捨てる者は神に逆らう者を賛美し 教えを守る者は彼らと闘う。
28:5 悪を行う者らは裁きを理解しない。主を尋ね求める人々はすべてを理解する。
28:6 貧乏でも、完全な道を歩む人は 二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。
28:7 教えを守るのは分別のある子。放蕩者と交わる者はその父を辱める。
28:8 利息、高利で財産を殖やす者は 集めても、弱者を憐れむ人に渡すことになろう。
28:9 教えに耳をそむけて聞こうとしない者は その祈りも忌むべきものと見なされる。
28:10 正しい人を悪の道に迷い込ませる者は 自分の掘った穴に落ちる。無垢な人々は良い嗣業を受ける。
詩篇 146:1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
146:2 命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。
146:3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
146:4 霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる。
146:5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人
146:6 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
146:7 虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
146:8 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
146:9 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
146:10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
エフェソ 2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
聖書には、主なる神様が私たちを救うため、私たちの罪の償いのために御子イエス様を十字架にかけられ、そのことを信じる者は救われる、ということが語られている。
しかし、そのように信じたからと言って、何かが変わるわけではない。
あいかわらず、罪を犯すこともあるし、決して聖人と呼ばれるような立派な信仰者に劇的に変わるわけでもない。
あいかわらず罪深い者である。
しかし、イエス様を信じるならば、全ての罪は赦されている。
それが神様の約束である。
エフェソの手紙の箇所には、かつてこの世の法則に支配され、肉の欲望や、心の欲するままに生きていた私たちは「死んでいた」者であって、イエス様を救い主として信じ、神に救っていただいた者は「生きている」と語られている。
実際には、一度も死んだこともないし、ずっと生きてきているけれども、イエス様を知らないで生きていた時は「死んでいる」も同然だというのである。
確かに、イエス様を知らないで生きていた時は、自分が何者なのか、どうして生きているのか、何をもって「生きている」と言えるのか、わからないまま、漠然と生きていたけれども、自分の生きる意味や目的が分からないまま生きているのなら、それは死んでいるようなものと言えるだろう。
しかし、イエス様のことを知り、こんなちっぽけな自分のことを命がけで愛して下さり、私のことを「高価で貴い」と言って下さるお方の御声に信頼しつつ歩む人生は、まことに幸いであるし、「ああ、自分も生きていていいんだ」と思えるし。生きること自体が幸いであるということを知る事ができるだろう。
裕福で何不自由ない暮らしを送り、楽しいことで満ちあふれた人生は、確かに幸せなのかもしれない。
けれど、それらは永遠ではないし、その背後には、そのせいで他の人が苦しんでいる事実もあるのだろう。
力のある者、富める者たちが、弱く貧しい人たちから搾取して成り立つ世界に、本当の幸いなど存在しないだろう。
自分に何ができるかわからないが、神が望まれた、誰もが愛されていることを実感でき、一人一人の存在が尊ばれる、そんな世界になることを願いつつ、今日を歩んでいきたいものである。
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