僕の遠い祖先は、座光寺氏について他国より移って来た百姓だと聞いた事がありますが、其は定かではありませんし、そんな事はどうでも良い事です。
しかし僕が先祖の願いの集大成であるとはする考え方であるならば、僕には先祖を知りたいという欲求に駈られるのも事実です。
僕の家は曾祖父の時代に分家した事実と、其より以前は一代庄屋というモノを行ったとも聞いています。
又、僕の曾祖父は大層な働き者で、今の土地では裕福だったらしく、お金も方々に貸したり、元々河原だった土地を水田に開墾したりもしてた様です。
お金を貸していた証文を僕は実際に見た事もありますが、過去の事なの焼却した覚えもあります。
又、曾祖父が地元の開墾に尽力したので、曾祖父名義の土地だった駅の近辺の土地も、今から十数年程前に、父から僕の名義に変更した後に町に寄付した事もありました。
そして狩猟銃の暴発で若くして亡くなった祖父の記憶はありませんが、残された祖母は女手一つで土地を守りながら五人の女の子供を育て上げ、母は愛情に溢れたら優しい人がだったし、昨年亡くなった父は、節目を大切にする植物を愛する頭の良い人でした。
そんな流れの中で僕と言う人間が存在するのですが、僕は自分の子孫にどんな評価を受けるのか興味があります。
あまりおかしな評価を受けない為にも、僕は自分の信じる生き方をします。
こうした考え方は古いかも知れませんが、僕は自分の後世の人間から、自分のあの先祖はこうした人間だったと言われる様に、自分らしく生きて行きます。