発注図面の不備、しかも基本的なミスが多く、役所の立ち会いの元、設計会社と勝負します。
現場を受注して当社の土木担当者が付いてから五ヶ月経ちますが、高齢で馴れない土木の担当者なので、未だ基本的な図面の検討の不備が多いのです。
ですから明日は、本来は黒子の筈の僕が役所に出向き、コンサルタントと勝負します。
コンサルタントに一週間の猶予を与え、きちんとした図面を出す様に要求します。
又、訂正した箇所が分かる資料も請求します。
僕が本気を出すと恐いのです。
だけど、普段は優しいのです。
現場を受注して当社の土木担当者が付いてから五ヶ月経ちますが、高齢で馴れない土木の担当者なので、未だ基本的な図面の検討の不備が多いのです。
ですから明日は、本来は黒子の筈の僕が役所に出向き、コンサルタントと勝負します。
コンサルタントに一週間の猶予を与え、きちんとした図面を出す様に要求します。
又、訂正した箇所が分かる資料も請求します。
僕が本気を出すと恐いのです。
だけど、普段は優しいのです。
現役と言っても、仕事の話ではありません。
簡単に言えば ケンカです。
いい年をして大人げないかも知れませんが、やはり売られたケンカは、男たるモノどうしても買わざるを得ない時があります。
其は岩手県内で、道路が片側規制されている場所が原因です。
ガードマンに長い時間規制されて停車している二台前の車が、ガードマンの規制解除されても少しも動こうとしないその車に、早く発信する様に促す警笛を鳴らしたのですが、動き出したのは動き出したのですが、至ってノロノロとしか動かない状態でした。
病院に急いでいた僕はその車を追い越そうとスピードを上げると、その車も同じ様にスピードを上げて嫌がらせをしてきたのです。
僕はアクセルを一杯に踏み込んでその車の前に出ると、今度は後ろからパッシングをしながら、僕の車を追い上げて来たのです。
カチンと来た僕は、一気に急ブレーキをかけました。
その車は20分間程しつこく嫌がらせの動きをするので、僕も同じ様な嫌がらせで応戦しました。
途中からは互いに普通走行となりましたが、その車はずっと後ろをつけて来るので、僕もその対応方法を考えながら病院に着き、ちゃんとバックで駐車しました。
勿論、その車も病院の駐車場ですが、通路に駐車。
僕が聞いていたi-podのイヤホンをゆっくり外し車から降りると、相手も降りて来ましたが、見るところ40才前後の気の短そうなオッサンです。
僕は降りるなり、『何か用かww?』とカマセルと、相手も大声で何故か警察に行こう等と、訳の分からない事を言い始めたのはいいのです(ワザワザつけてきて、何で警察なの?)が、何と僕に向かって『いい年をしたジジイがww』等と、絶対に僕に使ってはいけない言葉を何度も浴びせ始めたのです。
其処で僕は相手のオッサンに、『このガキャァアッチでカタを着けようかww。』と病院の建物の陰に連れて行こうとすると、急に相手は真顔な表情で、『忙しいから帰る。』と言い出すではありませんか。
此方も既にその気になっていたので、『坊や遠慮せんでいいから、もう少しゆっくり遊んでいけ矢ww。』と誘ったのですが、相手は僕の制止を振り切って、何処かに消えてしまいました。
未だ未だ、現役でイケるかも知れません。
その話を空手部時代の同期のN君にすると、彼も未だに現役との事です。
年齢65歳、未だ未だ其処らの素人には負けません。
簡単に言えば ケンカです。
いい年をして大人げないかも知れませんが、やはり売られたケンカは、男たるモノどうしても買わざるを得ない時があります。
其は岩手県内で、道路が片側規制されている場所が原因です。
ガードマンに長い時間規制されて停車している二台前の車が、ガードマンの規制解除されても少しも動こうとしないその車に、早く発信する様に促す警笛を鳴らしたのですが、動き出したのは動き出したのですが、至ってノロノロとしか動かない状態でした。
病院に急いでいた僕はその車を追い越そうとスピードを上げると、その車も同じ様にスピードを上げて嫌がらせをしてきたのです。
僕はアクセルを一杯に踏み込んでその車の前に出ると、今度は後ろからパッシングをしながら、僕の車を追い上げて来たのです。
カチンと来た僕は、一気に急ブレーキをかけました。
その車は20分間程しつこく嫌がらせの動きをするので、僕も同じ様な嫌がらせで応戦しました。
途中からは互いに普通走行となりましたが、その車はずっと後ろをつけて来るので、僕もその対応方法を考えながら病院に着き、ちゃんとバックで駐車しました。
勿論、その車も病院の駐車場ですが、通路に駐車。
僕が聞いていたi-podのイヤホンをゆっくり外し車から降りると、相手も降りて来ましたが、見るところ40才前後の気の短そうなオッサンです。
僕は降りるなり、『何か用かww?』とカマセルと、相手も大声で何故か警察に行こう等と、訳の分からない事を言い始めたのはいいのです(ワザワザつけてきて、何で警察なの?)が、何と僕に向かって『いい年をしたジジイがww』等と、絶対に僕に使ってはいけない言葉を何度も浴びせ始めたのです。
其処で僕は相手のオッサンに、『このガキャァアッチでカタを着けようかww。』と病院の建物の陰に連れて行こうとすると、急に相手は真顔な表情で、『忙しいから帰る。』と言い出すではありませんか。
此方も既にその気になっていたので、『坊や遠慮せんでいいから、もう少しゆっくり遊んでいけ矢ww。』と誘ったのですが、相手は僕の制止を振り切って、何処かに消えてしまいました。
未だ未だ、現役でイケるかも知れません。
その話を空手部時代の同期のN君にすると、彼も未だに現役との事です。
年齢65歳、未だ未だ其処らの素人には負けません。
三人の孫達の内で、二人の孫娘達が僕の相手をしてくれる様になりました。
一人は滑り台で、そしてもう一人はイナイイナイバアで遊んでくれます。
可愛い盛りです。
一人は滑り台で、そしてもう一人はイナイイナイバアで遊んでくれます。
可愛い盛りです。
三月に血圧が上がり薬を変えた結果、徐々に血圧が低下して来て、今朝は119-67迄低下してしまいました。
しかし普代村の美人先生に、その様な時は薬を1錠減らす様に聞いているので、今夜からは1錠減らします。
血管の手術を受けた関根勤が、テレビで孫の成人を見るまでは死ねないと話していましたが、僕も同じ気持ちです。
孫の存在は、そうした面では偉大です。
僕も後二十年、健康に気を付けた生活をします。
しかし普代村の美人先生に、その様な時は薬を1錠減らす様に聞いているので、今夜からは1錠減らします。
血管の手術を受けた関根勤が、テレビで孫の成人を見るまでは死ねないと話していましたが、僕も同じ気持ちです。
孫の存在は、そうした面では偉大です。
僕も後二十年、健康に気を付けた生活をします。
先程の投稿は暗い内容になりましたが、其れをここで素直に書けると言う事は、その事実を克服出来たからだと思います。
では今の僕は、毎日が充実した日々を過ごしています。
子供達は各々独立して、可愛い孫の顔も見せてくれます。
仕事面も充実して、自分なりには満足しているし、其れだけでなく、二年後、三年後の目標を持って働いています。
今の仕事は出来れば70歳迄は続けて、その後は成り行きに任せます。
70歳以降は今の会社に暫く在籍するか、小遣い稼ぎでガードマンの仕事をしていると思います。
75歳で一切の仕事を辞めた後は、孫を相手に過ごします。
其が僕の一生です。
では今の僕は、毎日が充実した日々を過ごしています。
子供達は各々独立して、可愛い孫の顔も見せてくれます。
仕事面も充実して、自分なりには満足しているし、其れだけでなく、二年後、三年後の目標を持って働いています。
今の仕事は出来れば70歳迄は続けて、その後は成り行きに任せます。
70歳以降は今の会社に暫く在籍するか、小遣い稼ぎでガードマンの仕事をしていると思います。
75歳で一切の仕事を辞めた後は、孫を相手に過ごします。
其が僕の一生です。
確か、54歳の初秋頃だったと思いますが、その頃、突然に言葉が出なくなりました。
其は後になって分かったのですが、重症筋無力症の自覚症状の始まりでした。
55歳の四月に重症筋無力症と診断され、6月28日に胸腺摘出術を受けたのですが、当事は地元の建設会社で働いていました。
会社に休暇願いを出した時に、術後何日で職場復帰が出来るのか聞かれました。
地元のワンマン社長の会社ですから、甘えた事を言うと直ぐにクビになると判断した私は、病名の事は言わないで、単に胸腺を取ると治るとだけ伝え、術後1ヶ月で職場復帰が可能だと伝えましたが、その根拠は全く有りませんでした。
言葉通り、私は術後1ヶ月で復帰しましたが、症状は未だ未だで、瞼は下がるし言葉もまともに話せない状態でした。
しかも社長は私をクビにしたがっていたので、周りの社員は私に辛く当たって来ました。
私は其れに対して不自由な言葉で反撃をして、相手にノマレナイ様に頑張っていました。
又、田舎では父が一人暮らしでしたので、そんな体調でも、月に二回は長野に帰省していました。
正に家庭内のゴタゴタが回復途中とは言え、私の生活は公私共に修羅場でした。
外も内も、私には安住の場所は有りませんでした。
孫と遊べる様になった今思えば、当事の事がウソのように思えます。
ブログでは面白おかしく書いているのですが、この様な生活も体験し乗り越えて来た私です。
しかし私の人生の本当の修羅場は、病気になるより前の数年間でした。
その事は、永遠に書くことはないでしょう。
振り返ると、人には強い適度なストレスは良いですが、過度なストレスは、私の様な難病を引き起こす原因になります。
其は後になって分かったのですが、重症筋無力症の自覚症状の始まりでした。
55歳の四月に重症筋無力症と診断され、6月28日に胸腺摘出術を受けたのですが、当事は地元の建設会社で働いていました。
会社に休暇願いを出した時に、術後何日で職場復帰が出来るのか聞かれました。
地元のワンマン社長の会社ですから、甘えた事を言うと直ぐにクビになると判断した私は、病名の事は言わないで、単に胸腺を取ると治るとだけ伝え、術後1ヶ月で職場復帰が可能だと伝えましたが、その根拠は全く有りませんでした。
言葉通り、私は術後1ヶ月で復帰しましたが、症状は未だ未だで、瞼は下がるし言葉もまともに話せない状態でした。
しかも社長は私をクビにしたがっていたので、周りの社員は私に辛く当たって来ました。
私は其れに対して不自由な言葉で反撃をして、相手にノマレナイ様に頑張っていました。
又、田舎では父が一人暮らしでしたので、そんな体調でも、月に二回は長野に帰省していました。
正に家庭内のゴタゴタが回復途中とは言え、私の生活は公私共に修羅場でした。
外も内も、私には安住の場所は有りませんでした。
孫と遊べる様になった今思えば、当事の事がウソのように思えます。
ブログでは面白おかしく書いているのですが、この様な生活も体験し乗り越えて来た私です。
しかし私の人生の本当の修羅場は、病気になるより前の数年間でした。
その事は、永遠に書くことはないでしょう。
振り返ると、人には強い適度なストレスは良いですが、過度なストレスは、私の様な難病を引き起こす原因になります。
あそこまで言われて、舛添要一はよく都知事を続けたいと言えますね。
舛添要一は頭が良いかも知れませんが、真面目過ぎて己の才能に溺れた様に感じます。
アレはもうダメだね。
舛添要一は頭が良いかも知れませんが、真面目過ぎて己の才能に溺れた様に感じます。
アレはもうダメだね。