壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

逆遠近法

2008年01月25日 23時32分12秒 | Weblog
 あたたかいご飯に、寒卵を落として食べる。
 寒中に、鶏が産んだ卵を、寒卵という。寒中は鶏の産卵期にもあたり、栄養分が多い。
 朝の寒さの、張りつめたような空気の中で、卵を割ると、まろやかな黄身が、ポッと灯るように現れて、心が和らぐ。

 仏間から香煙が、かすかにただよってくる。
 毎朝の、祝詞と読経は、集中力のバロメーター。
 祝詞であれ、読経であれ、<心ここにあらず>であげると、必ず間違える。
 つとめて平常心であげるのだが、考え事をして、どこまであげたかわからなくなること、しばしば。もちろん、経本などは手にしているのだが……。
 
 夕方、富士山が見たくて、扇大橋へ行く。ここは、我が家から最も近い、富士山のビューポイント。ビルやマンションに邪魔されず、かなり裾まで、はっきり見える。
 残念ながら今は、ガスっていて見えないが、日が沈めば必ず見える、と確信して待つ。
 4時50分ごろ、シルエットの富士山が見えてきた。人間の存在がいかに小さいかを、思い知らせるように。
 北斎の『富嶽三十六景』に、シルエットの富士があったろうか。
 頭のファイルを探ってみたが、まったく思い出せない。
 すぐに覚えられるのだが、思い出す力が弱いのだ、昔から…。

 北斎はしばしば、逆遠近法で富士山を描く。
 眼で見たまま描けば、近くのものは大きく、遠くのものは小さくなるはず。それを逆に、つまり、遠くにあっても、大きく観じたものは大きく、近くにあっても、小さく観じたものは小さく描く手法を、逆遠近法という。
 これは『源氏物語絵巻』にも見られる古典的手法だが、自分の心がとらえた風景を表現する手法なのであろう。
 富士山の前では、さすがの北斎も、己の存在が米粒のような、頼りないものにしか感じられなかったに違いない。
 逆遠近法には、日本人の生命観、自然観、美意識などといったものが、凝縮されていると言われるが、全くその通りだと思う。


      仏壇の奥の金いろ寒卵     季 己