かなざわ風便り

変わり行く季節の中で、あの町この町で出会った風景や人情、イベントを訪ねて行きます。

五箇山麦屋の里(5)

2009年10月28日 | Weblog

<1.眼下に庄川峡「祖山ダム」-国道156号線が右から渡原橋(正面)を渡り、左手前で右に急カーブで折り返し麦屋の里へ続いている。>

五箇山の秋たけなわ、国道156号線大崩島集落から祖山集落へ繋がる民有林道-柳峠線を越えた。大崩島集落外れに「平ふれあい温泉センター」があり25日、日曜とあって行楽者の車で賑わっていた。

林道は直ぐその脇から入り、全線舗装済みであるが、特に道が狭くて急カーブが続き、土石崩落の危険性がある箇所もあり、一般車の通行は控えた方が良い。

この林道は、昭和34年に開通して半世紀に亘り地元の交通手段として主要な役目を果たしてきたことでしょう。林道の上りは、南斜面からの展望が広がり、下りは北斜面に変わり前方に紅葉の連山が広がる。柳峠に歴史の峠としての書き込み板があって「大槻伝蔵が祖山へ流刑された時、ここで槍を投げた峠、ヤリナゲ峠がなまってヤナギ峠になったと伝えられる」と、書き込みがありましたが、この道もキット歴史国道で有ったことでしょう。

<2.正面に杉尾集落-旧平村で庄川の左岸で最も下流に位置して、背後に高清水山(1145m)が迫り、旧城端町と境を隔てており、右肩の杉尾峠を越えて城端町と古人が往来したことでしょう>

<3.林道の柳峠を越えると眼下に祖山集落が見えてきた>

<4.柳峠から下りに入ると、正面に紅葉の連山が広がってきた>

<5.祖山集落に近づく手前で、祖山ダムの堰が見えてきた。「祖山ダム」は日本の電源開発の元祖で、大正15年秋に遡り城端町から平村渡原間に架空索道の輸送が開始されて、ダム建設の資材が投入されるようになり、祖山ダムを筆頭に次々と上流に取水ダムが造られていった。昭和に入り、5年4月ここ祖山ダムから電力が送られるようになった>

<6.祖山集落-平成元年に23戸で住まいをしていたが、現在19戸で更に2戸の空き家へと変わりつつある。手前の水稲も植え付けされたが、収穫されずに雀の餌へと消えるのか>

<7.村社-熊堅社の御神木の脇に「大槻伝蔵」之碑が鎮座していた>

<8.村での広場は、神社脇に旧小学校の分校があった場所で、訪れた時にベンチに一人で長く腰掛けている男性が居て、不思議に思い訪ねたところ、これから此処でゲートボールをするので仲間の来るのを待っているとのことであった。やがて何処からとなく一人二人と時の青年団が集まってきてゲートボルの競技が始まる、のどかな里山風景に出会った

<9.祖山ダム下の発電所から放流された水は、更に下流の庄川ダムへと流れ下っていった>

 

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