えみこママのブログ

こんにちは。お元気してますか?いつもいつもエネルギーを分けてくださってありがとうございます。おかげで元気ですよ~。

久々でした

2020-01-30 00:20:00 | Weblog
仕事に行ったら、店長と私が組んで仕事をする日だったと気がついた。
今日はセールの日で、それがまるでお祭りのようだった。

ここを片付けて置いてねと言われ、やっていたが、だいぶ時間が経ったと思い、いつまでもここにいたら店長は一人でお店番してるのだと気がついて、本来のお店を探すがいったい私は何屋さんのお店だったかがわからなくて、ぐるぐる回るばかりで見つけられなかった。

ふうふう言ってやっと店長を見つけたが、店長は余裕で仕事をしていた。さすが店長!と思ったがその店長の顔は、私のエレクトーンの師匠だった。

師匠は何をやっても抜群だと、感心した。

やっと夕方になり仕事を終えて帰る時間になった。

裏口から帰るのだが、どうやって帰るのかわからなくてまたまた裏のドアを探し回る。

そんな夢をみましたよ。

あー疲れた。

この頃時間があり、仕事に追われなくていいのはなんてありがたいことだろうかと思った。

仕事イコールストレスだったのだな。
音楽の仕事はストレスはないのにな。

疲れた時のいつもの夢ではなく、新しいパターンの夢だったな。

生き方改革したはずなのに、やはりいろいろと無理して生きているな。

少し経ったら、4、5日菊水亭に泊まって過ごしてみたい。上げ膳据え膳で、ゆっくりしてみたいな。
一泊1万円くらいかな?じゃあ5万円で実現できるのか。


でもやはり家がいいかな。

好きなもの作って食べて、テレビ見て、時々ピアノやエレクトーンを弾いて…20年も前の生活と比べたら天国だよな。

うるさいこと言う人間もいないし、かなり自由になったな。

もっともーっと若い時からこれだけの自由がある人もいっぱいいるのだろうな。

不自由な上に姑に仕えた時代があったが、長ーいトンネルみたいだったな。
かなりきつかったけど、それに匹敵するほどの喜びもあったな。
子供を産んで育てたことが、一番良かったこと。
音楽を学び、教室をやったこと。
仲間がたくさんいたこと。

子供ができなかったら、もらうつもりでいたな。
孫も結構子守したな。
これからもできるときはしたいと思っている。

そうだ、今日は生後1ヶ月半の赤ちゃんを子守しましたよ。
うちの先生が産休から復帰して、レッスンの間ちょっと見てただけですが、可愛いなと思いました。

よその子でも同じに可愛いと思えるから、子供ができなかったとして、もらった子を自分の子のように育てることも、きっとできたかもですね。

今日はとても穏やかないい日でした。

明日は実家のお墓まいりを、長女として来ます。

DVさまざま

2020-01-27 19:14:00 | Weblog
綺麗好きの友人の家はお城のように磨き上げ、テレビの後ろも冷蔵庫の下もピカピカである。

もう1人の友人は、片付けられない症候群かと思われる人だが、音楽に関することにはお金は使うが、あとはほとんど百均と業務用スーパーで買い物をする。

どちらも友人であるが、贅沢したいときはこちら、音楽の話ならこちらというふうに私はどちらとも仲良くさせていただいている。

綺麗好きな人から見ると、片付けられない症候群の人の生活ぶりが信じられないようで、やれ仏壇が小さいけど、なんとかもうすこし立派なものを購入したら良いのになどと愚痴ったりするが、聞いていてこちらもあまり良い気分ではない。

年齢は、綺麗好きなひと、私、片付けられない症候群という順番のように、考え方も古い、普通、新人類の順になる。

女性は、そこにいない人の話の時に悪口力を発揮するものだ。
その悪口を本人に絶対言わずに私に言うのはやめてほしい。

人それぞれ、今まで生きてきた中で誰だって悲しい思い、悔しい思い、残念な思いを味わって来たはず。

自分と違うからと言って批判したり、叱咤激励をしたりする権利はない。
友達でも親しくなってからが難しい。
これはこうしたら、そんなことしたらダメなど、姉妹でも言わないことをやる場合がある。

新人類の友は、権利を主張するタイプ。
人と人はどんな場合でも対等だと言い切る。
結構頑固で我が強いが人間も70にも近くなれば、そんなのは私も同じだ。

昨年の秋ごろ、私は大きな間違いをするところだった。
私は長年音楽教室をやってきて、おそらくこの関東では個人の教室としては大きい方だったはずだ。
経営者として、かなりのパワハラをしていたことを思い出した。
もう見る影もない小っぽけな教室なのに、まだ偉そうにしていたのだった。

偉そうにしていると、人のやることが気に入らないことが多い。
自分のおごったものさしで人を図り、気に入らないことがストレスになる。


人は人なんだし、自分とは考え方も生き方も違っていて良いのに、あまりに入り込みすぎて、失礼な考え方を持っていることに昨年秋、気がついた。
これらのこと、結構謙虚に言っている。

小さな親切は大きなお世話だと言うことに気がついたのでした。

このパワハラやモラハラも、立派なDVである。

今日は綺麗好きな人と2時間ほど話ができた。
「ねえぇ、歯の手入れは誰にも負けないほど丁寧にやってると言ってたけど、あのあと何本もの虫歯ができて治療が今も続いているじゃない。自信に満ちた発言はやめた方がいいね」とか「何でも健康のことを考えて食べ物を作って食べていたって、ほら、ガンになっちゃうしね。意外と好き嫌い多くてどうかと思う人がガンにもならず、長生きしたりするのよ。要するに食べ物云々ではなく、神経が強いか弱いかで病気になったりならなかったりするのよね。」などなど、好きなことを喋った2時間だった。

こんな時間も、元気になるためには必要だったりする。

DVいろいろ

2020-01-27 00:05:00 | Weblog
高校時代のもう一人の友人は、保育士であった。
インテリ好きの彼女は有名大学出の画家と結婚した。
クレパスで描く画家である。
しかしそれだけでは食べていけないので、普段はホテルマンのアルバイトをして、お金が貯まるとフランスやイタリアに描きに行くようだった。

20代終わり頃、彼が外国に行っている間に彼女は他の男性と駆け落ちしかけたのだった。
しかし笑いながら、バカなことをしたと思うと言い元の鞘に収まった。

結婚当初からその旦那は夜酒を飲むと、暴力を振るっていた。
だから他の男性と逃げようと思ったのだろうが、DV旦那に引き戻されたようだった。

35歳で男の子を出産するが、夜な夜な繰り広げられるDVのせいで、子供は小学校も中学校も登校拒否で学校には行けなかった。

私たちが55歳くらいの頃か、彼女になかなか連絡が取れなかったので、仕事先をもう一人の友人とたずねた。

その時に長年DVにあっていたことを知った。

彼女を助ける計画を立てた。

その頃息子さんは20歳になるころで、生活保護で独り住まいしていたので、彼女をともかく助けたかった。

私の街所沢にも駆け込み寺は存在していたし、なんなら音楽教室をしている場所に住んでもらってもいいと思っていた。

3人仲間の秘密だった。もちろん私は家族にもそれとなく話していた。

計画を実行する前に、寒い夜雨の中彼女は家から逃げ出した。
酒に酔った旦那の習性によってだった。

「わかった。すぐ私の家においで」と言ったら、町田にある駆け込み寺に話してあるからそこに行くと言う。

その後八王子にかくまってもらえる施設に移動した。

それから5年以上経って、弁護士に相談していよいよ離婚届に印を押してくれる話になった。

私は八王子で彼女と会い、町田の公民館に出向いた。
太い柱の陰に隠れて、彼が何かしたら飛び出して行く役目だった。

10分でその作業は終わり、素直に印を押してくれたようだった。

彼女は「彼は、痩せてとっても小さな人になってた」と言った。

「ふん、女の1人も幸せにできない男なんか、小さくもなるだろうよ」と悪口を言った。

さてその後、かわいそうな息子さんが薬の飲みすぎで亡くなり、彼女も同様に睡眠薬で亡くなったのだった。


DVは大きな罪であり、命までも奪うこともある。

前回のDVの友人も亡くなった例でした。

人は、生きているだけで尊いのだ。

生きるだけで精一杯なのだ。

はあはあと息切れして苦しいのに、DVなどに苦しめられてはたまらない。

DVの種類

2020-01-21 06:09:00 | Weblog
インターネットで検索したわけではなく、私の調査によるものだがDVにはいろいろなケースがある。
多くは親からのそういった環境があったと言える。

だから本人も被害者とも言える。

Yさんの場合は、高校卒業と同時にデキ婚で早い結婚だった。
籍を入れて同居が始まると同時に、DVも始まる。
一二度、実家に逃げた時、その夫は頭を下げて迎えに行ったという。
が、帰るとまたなぜ出て行ったかと攻め続け、今度逃げたらお前の家族をみんなやってやるからなと言い放った。

それ以降家の中で繰り広げられるその夫の習性は30年も続いた。そして子供が大きくなってから、子供の反逆が何度かあり、そのDVはなくなったそうだ。

DVは暴力のほかに、給料を家庭に入れないとか、家族に対するモラハラ、友人をからかう際の暴言などもある。

うちではあのあと、必要最低限の会話しかしていない。特にもご機嫌をとる必要もないし、逆に楽である。

ゆうべ、少ない小遣いの中から夫は、かりんとうと磯辺焼きせんべいと、ゼロコーラを買って来て2つのカップにゼロコーラを注いでいた。

回りくどい、へんなご機嫌の取り方だ。
あの時のあの顔、あの血走った目、あれはなんだったんだ?
よくさらっとして、顔をさらしていられるなあと不思議だ。

またどうせ、やるのでしょう?

大なり小なりあること?

2020-01-20 00:25:00 | Weblog
人からは聞いたことがあるし、友人2人がその環境にあったからわかるし、それは昔から我が家にもあった。

いつもはコバちゃんが夫の気持ちを逆なでする事で、夫に火がつくことだった。

月に2、3回あることもあった。
寺内貫太郎という番組で腹を立てたそこのうちの主人が、御膳をひっくり返す様はまだ可愛さがあるが、うちのは、真っ青になって気が違ったように何かを破壊する夫の姿があった。火をつけておいて、止めに入りながらまだまだいろいろと傷つくようなことを口走るコバちゃんがいた。

同居して直ぐにそれが始まり、私は唖然とした。さっきまで楽しく談笑していた空気が一変し、スイッチが入るのだ。
そんな時は私は子供を抱っこしたりして、その場から離れるようにした。

令和になって初めてのことだ。
それがあった。

ウチの奥さんはテレビつけたまま寝ちゃうんだよな…なんて、他愛もないようなことではなかった。
もっともっと深刻だったのだ。寝るに寝れないでいた夫は隣の部屋で相当頭にきたのだ。

3時ごろだった。
急に大きな声がして、罵声を浴びせている。私は寝ぼけていてなにがどうしたのかがわからないでいた。

テレビの音量を大きくすれば、さらにもっともっと大きくしやがって、張り合ってるのか!とか言われたが、私は眠っていたのだった。

コップの水も布団もばら撒かれ、DVDもへし折られ、六畳があっという間にゴミ屋敷になった。

そして私はつかまれて、私に向かって大声で叫んでいる。
殴るのかと思えばそうでもなく、蹴飛ばすのかと思えばそれでもなくただ私をつかむ手に力がこもったので、つねられている感じで、逃れられなかった。

ひとしきり破壊すると、自分の部屋に戻った。それから大きな音でテレビをつけた。

私は、この出来事を整理しながら、テレビをつけたまま寝たことが何よりの原因だったと反省した。
そして散らかった部屋を片付けながら、濡れたところは拭いたりした。

心臓はドキンドキンとしていた。

もっと若い頃は、父に言ってやるみたいなことを考えたが、この頃は弟に言ってやると思いながらそれもなあと思い直す。

私が悪いのだ。

でもあそこまでやるのか?

あそこまでやられると、そして今は二人暮らしだからそのきっかけが自分だとしたら、誰に相談できるのだ?

あれだと、人格否定されたようだ。とても悲しくて情けないのが本心。
友人にも言えないようなことだ。しかし私は、このブログに書いている。
書けば、誰に相談しなくても聞いてもらわなくても済む。

だがこのブログを読んでいる人にはばればれだ。
このブログは赤裸々ブログが売りだから、いいや。と思う。

このまま朝まで寝なくてもいいやと思い、隣から聞こえるテレビの音を聞いていたが、朝方少し寝たようだった。

夫は今日は仕事はなく、休みと言っていたな。
ずっといるのかな?
ならば私はまた湯楽の里にでも避難しようかなと思った。

朝食を食べた様子もなく、8時少し前、玄関から出て行った。

どこへ?
もう一つの仕事かな?

暴れたことをどう思っているのかな?
あそこまでやらなくても良かったのにと思ったかな?
もっとやれば良かったと思ったかな?

私は息子の家で過去のテレビを見せてもらった。そしておせんべい一枚と牛乳を冷蔵庫から出して、ご馳走になった。

5時間もテレビを見ていましたよ。
3時ごろ息子の家から、かえってきました。

夕飯の支度して、車を息子の家から移動させようともう一度外に出たら、暗がりに知らないおじさんが立っていた。
歩いてきたけど立ち止まった感じだった。

なんの取り柄もなさそうなその男は、夫だった。

小さい声で、お帰り…と言って車の方に向かった。

車の移動をした後家に入ったら、夫が、ただいま…と言ったが、私は返事は返さなかった。

自分の部屋に戻ってからは、夫はテレビをつけているようだった。

ご飯、食べて来たのー!と強い口調で言ったら、食べてないと言った。

食べなー!と言って、用意だけして、私はピアノを弾き始めた。

逃げ場があって良かった。

もし1億円あったら、私は離婚するだろう。だが1億円どころか、健康面でも問題ありだから、離婚は今は無しだ。
離婚した後夫が病気になったら見舞いに行けるのかな?なんても考えている。だから面倒だから今は無しだ。

そのまま口は効かず寝たのだった。

新曲できました

2020-01-16 18:02:00 | Weblog
タイトルは、一日のはじまり…と言うんですよ。おとといの夜、ユキちゃんにファクスして昨日伴奏に合わせて歌ってもらいました。

おばんばルンバなどは、ゆうりが保育園で歌っているらしい。ユーチューブにあげて、聞きたい人ができてきたら、数年先にはミューズでコンサートができたりして。

なんてね。
甘いかも。
でも、そのくらいの夢があっても良いと思います。

そねから、ピアノを指導している生徒には、これからはどんどんグレードを受けてもらおうと思う。

そう、いろいろ思うことはある。
この3月と4月に3人の生徒はグレードを受験することになっている。

私もサックスを長女に習って、サックスのグレードなど取りたいと、今日思った。
そればかりか、生徒の将来のために私自身ピアノのグレードに挑戦というのもアリかもね。
これは非常に勉強になると思う。

なあんだ、まだまだやることやれることあるではないですか?

サックスなどはカビが生えないうちに、ボランティアでどんどん吹けば良いですよね。
あまり上手くなくても、吹いているうちに少しずつ聞けるようになるかもしれません。

吹いたものがち、弾いたものがち、やったものがち。ってかかたなくてもいいけど、積極的に行きたい。

そして歌が出来た時にお披露目すれば楽しいね。

なんだか元気が出てきましたよ。

ヤッホー!

認知症になった認知症専門医

2020-01-13 09:23:00 | Weblog
介護ヘルパーの資格を取ってから15年ほどになる。小さな資格だが、そのおかげで別の世界を知ることになる。
もともとはコバちゃんのために取った資格なのと、何か意地みたいな気分があって取ったと思う。

それが結構役に立ちました。
認知症の人には肯定的に付き合う方が楽だということ。私も楽だし、認知症の人にも心に優しいそうだ。

病気の人にちゃんとしろというのは酷ですね。

コバちゃんはおそらく、85歳には認知症が始まっていた。
90歳になったころ介護認定を受けたのだった。
市の認定する人や町の包括センターから人が来て、問診が始まった。

「なんでこういろんな人がうちに来るんだい」
「90歳になって、お祝いのことと、元気の秘訣をききにきてるんだよ」

「だけどあたしが終わった後、あっちに行ってなさいみたいになって、えみちゃんとヒソヒソ、何話すんだい」
「お母さんのことを言ってるんじゃなくて、ほかの家族も健康かどうか聞かれてるんだよ。一応うちでは私が1番だからね」
「そりゃそうだ」

こんな感じ。

何か女優になった気分で、嘘八百で楽しみながら戦っていた。

今思うと、懐かしい。

テレビで認知症の権威が、認知症になったことをドキュメントタッチでやっていた。

誰でもなりうることだ。

医者でも、教師でも、看護師でもパートの人でも。

生きるのは結構大変だが、先のことをあまり危惧せずに、毎日単位で過ごすのが良いかもしれない。

認知症の権威のテレビの中では、その方の妻と娘が優しくサポートしていた。

2人いたら結構らくでしょう。お互いに相談もできるし、工夫も生まれる。

私は夫の姉2人がいてくれて良かった。姉たちはコバちゃんに関してはいつも2人で行動していた。コバちゃんにしたら、娘2人は心強かったのではないだろうか。

ヘルパーの小さな資格だが、このためにヘルパーの仕事に就いたり、それを生かして介護用品の仕事に携わったりしている。

コバちゃんに、介護などとすごいことは何もできなかったが、あれで良かったのかな?

コバちゃんも家に帰りたかっただろうな。

もうすぐコバちゃんが亡くなって、3年が経つ。早いな。



諦めない生き方推奨委員会

2020-01-09 18:00:00 | Weblog
昨年末から3年にかけて、何十年かぶりでインフルエンザにかかった。職場で予防注射した人が私を含めて2人かかったのでした。
またコンサートしていた仲間の中で私を含む3人がかかり、1人は風邪をひいたのだった。

一年で行く年と来る年が入れ替わる大切な時にインフルエンザで寝込むのは、一生のうちでもそう無いだろう。

声帯のことやそれにまつわる甲状腺のことで、あまり意識してないことを意識することになった。

それはインフルエンザにかかり、それから立ち直るのに少し時間がかかっているからだ。

この歳で熱は辛いものだ。正常な精神状態を保つのは難しい。

今日はそれでも少し元気になり、体調も少しずつ戻りつつある。

友人から相談があると言われた。

えっ?こんなに弱っている私に相談しに来るのか?
やめてよー!と思った。
ストレスのかかる人、ストレスのかかる問題には関わりたく無い私だが、今日は元気になったので、長いものには巻かれて、人の役に立つことをしようという気になっている。

今年は、諦めない年にするんだ。
何でも諦めなければどうにかなってきたもの。
その経験を生かして、カウンセラーにもなるしコンサートもやるし、曲をアレンジもする。

だってそうやって生きてきたじゃないか。

昨日はまだ元気が無くて、息子が来た時ちょっと弱音をはいたな。
私らしくない。
息子だって仕事で疲れているのに、余計なことを言ったな。

今日はっきりさせる。

諦めない生き方推奨委員会を開設する。
だから頼まれれば、カウンセラーにもなるぜよ。

何でもこいっ!
やってやるぜよ!

私は龍馬になった気分だ!

ぜよ!



字が読めるのか?

2020-01-09 08:31:00 | Weblog
久々の休みの日。
となりにゆうりがいるようなので、出がけにピンポンしてみた。
買い物に行くけど行く?と聞くと、行く行くとなった。

寒い雨の中、夫はこんな日に…と言うが、野菜など買いに行くことに。

おつかいの帰りに杏奈や家に寄って、五家宝を渡した。あんなもみーちゃんも外まで出てきて、車の中のゆうちゃんに手を振った。

帰宅して遊びだした。

お家ごっこというのをやっている。
ばあばも遊ぼうよ!
遊んでるよ。よーくみてるから遊んでるのと同じだよ。などと言って時々相手をしていた。

飽きて来て帰りたくなったと言い出した。
そう?、夜までいて良いのよ。

かるたやろうということになって、以前買っておいた世界の国旗のかるたをし始めた。

ひとつひとつ読めば見つけられる。はじめの字が大きく書いてあるから見つけやすそう。
取った国旗を片手に、今度は地図と照らし合わせをした。国旗は私も勉強になるな。

その次に日本地図のかるたをすることになった。
ゆうりが読む役をするという。
一字一字読むのですぐに見つけて取ったら、読み終わるまで待てと言う。それはそうだね。

カタカナは読めないが、ほぼゆっくり待っていると読んでいる。

この世に生まれてもうすぐ五年かあ、すごいな。

お茶漬けと、コロッケを食べてか
お風呂に入ってまた遊んでパパが迎えに来るのを待っていた。

またおいでね。

ばははーい!

杉下右京ならいいな

2020-01-04 00:49:00 | Weblog
暮れにはインフルエンザになって、熱に浮かされて色々な夢をみたり、大人が高熱とはいかに身体に負担かがよくわかった。

大概のそういう時の夢は、来てはいけない帰りが大変なところに来てしまったという夢だ。
帰りの電車の数が極端に少ないとか、乗り換えが何度もあるとかの困難さだ。
それで、あーあ、またか…とがっかりするのだが、その分私にとってはその場所がすごく懐かしい地域でもある。

夢にはコバちゃんも出て来た。いつも子供を見ていてくれて、結局は私の味方になってくれている感じの夢だ。

インフルエンザにならなければ、こんなに休めなかったかもしれない。いくらでも元気に働いていたのかしら?

あの休みは貴重だったかもね。
そして治って今元気になった。
あの熱の真っ最中の苦しさは大変なものだった。熱とか痛みとかにすごく弱い私だ。
さんざん大騒ぎして、格好悪いくらいわめく。
大人でも熱が高くなれば、精神状態は普通では無い、ドキドキもするし血圧も高くなるだろう。

だれにすがったらいいか、誰を頼ったらいいかわからなくなっている。そんな時、杉下右京がいたら助けてくれそうだな。

いつも変わらず冷静に物事を分析して、理論的だ。顔も信頼できる顔だし、服装も人格を表す落ち着いた出で立ちだ。
声も低く、すこしも上ずったところがなく、助けてくれそうな人格者である。

年末年始、私は何度も再放送の相棒を見た。少しずつインフルエンザが治っていく過程で、杉下右京に何度も助けられた。

テレビの力もすごいが、役のキャラクターの力もすごい。

今日などは、けっこうまともな精神状態であり、身体的にも平常になっていた。

ゆうちゃんを誘って夫と3人でD2に買い物に行ってから、山田うどんに寄って夕飯も済ませて来た。
ゆうりと一緒の時は、この流れが楽しくて良い。

お正月は、相棒の新作や再放送をしている。

杉下右京さーん、今年もなにかとお世話になります。笑笑