えみこママのブログ

こんにちは。お元気してますか?いつもいつもエネルギーを分けてくださってありがとうございます。おかげで元気ですよ~。

記憶

2023-07-29 23:57:00 | Weblog
暑中お見舞い申し上げます。

3歳の頃、母と山を歩いたことがありました。
帰りにとても疲れて、歩くのが大変で「Iamtired」と叫びたかったほどだ。
母は竹で編んだカゴを背負っていたが、帰りは何も入ってなかった。その空っぽのカゴに私を乗せてくれないのか…と思った。ほんとに足が疲れていた。今思うと、母は多分お腹に私の妹がいたのだと思う。

私は10月5日生まれ、妹は3つ違いの同じく10月の25日が誕生日だ。そのまた下の弟は同じ10月の15日が誕生日なのである。
4人兄妹のうちの三人が、10月生まれだった。

6歳の頃私の家族は福島から東京に引っ越しして来た。家も畑も、うさぎもみんな売って上京したのだ。

母のすぐ上の姉が、両国で製本業を営んでいた。戦後の貧しい日本の復興の勢いのある時代だったから、その叔母は自分の兄妹に上京してくるように呼びかけていた。
そして叔母は兄妹達に仕事を教え、みんなを独立させた。

うちの父は無口な大工だったが、嫁の兄妹の世話にはなりたくないと思い、自分の従兄弟を頼ったのだった。
その従兄弟は、杉並区で風呂桶屋を営んでいた。
その近くに借家して、私たちの東京の生活が始まった。
父は木工大工として、職を得たのだった。

8歳の小2の最後のこと。
3年になるとクラス替えがあるので、お別れ会があった。
机を並べて舞台を作り、反対側に椅子を並べて客席を作った。
親も呼ぶので、他のクラスからも椅子を借りて来たようだった。
出し物は、オルガン弾くのが3人、バイオリン弾くのが健君だった。
机の上にオルガンを乗せた。
今考えたら机を舞台にして、その上を歩いたのは教育的には良くないことではなかったかな?
机の舞台に上がるまで、椅子を一つ階段がわりにした。
2人の女の子がオルガンを弾いたが、私の知らない曲だった。ブルグミュラーとか、バイエルを弾いていたのかもしれない。楽譜の読めるその2人は時々間違えたのか止まって弾き直しをしていた。楽譜が読めるのだなと羨ましかった。
次が私の番だった。
曲はブラームスの子守唄と、みかんの花咲く丘だ。
私はピアノを習っていなかったので、楽譜は全然読めなかった。あの頃の小学校の音楽はアンプの読み方の授業はなかったから、ちんぷんかんぷんだった。
担任の岡田礼子先生が弾くオルガンをじーっと見て、伴奏のことメロディのことの仕組みを自分なりに理解して弾く二曲だった。
楽譜を読めない人は感で弾くものだから止まらずに最後まで弾いた。私の母は薄ピンクの着物を着て、見に来ていたが、ニコニコしていた。最後に弾いた健君のバイオリンは、圧巻だった。

10歳の頃のこと。
近所の母よりだいぶ年上の知り合いと、母はよく立ち話をすることがあった。その人の若いお嫁さんの話題のようだった。
母はしばらくして街でそのお嫁さんに出会い、おしゃべりをして来たようだった。

さらにだいぶ経ったころ、お嫁さんのお姑さんが遊びに来た。また話を始めたその時だった。
「あなたはお嫁さんのことを悪く言うが、この前偶然会って話をしたけど、あなたの言うような悪い人ではなかったですよ。とても良い人ではないですか。今後お嫁さんの悪口は聞きませんからね。」と母。
そのお姑さんは、鼻を噛んでいた。
泣いているのかもな、と私は思った。

私は子供心に、母は白黒はっきり言う人間なのだなと思った。
何もあそこまで言わなくても、中間にいて2人の話を聞いてあげるだけで良かったのになあと思った。
10歳でも、ここまで覚えているのだ。

まだまだたくさんのことを覚えている。

昔のことを思い出すことが多くなった。
それと亡くなってしまった人を思い出すことも。

話はガラッと変わるが、昨日、夫の介護認定が下りた。
要介護4である。
要介護2くらいかなとおもっていたので驚いた。

でも、リハビリを頑張れば1年後にはもっと良くなるかもしれない。
8日の日に、先生からの説明があるので、ちょっとドキドキする。

入院生活が長くなると、認知機能が落ちてしまう人もいると聞いたことがありますが、夫は何とか大丈夫そうです。

まだまだ暑い日がもっともっと続きます。
涼しくなるまで、ご飯をしっかり食べて生きていきましょう。

キツい仕事も、汗だくになりながらやってみます。

お互いに元気にしていましょう。





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