えみこママのブログ

こんにちは。お元気してますか?いつもいつもエネルギーを分けてくださってありがとうございます。おかげで元気ですよ~。

11年ぶりだった

2019-08-31 17:15:01 | Weblog
午前中、肛門病院で大腸の内視鏡を受けて来ました。7〜8年ぶりかと思ったら前回から何と11年たっていました。
年月の経つのは早いです。

昨日の夜とけさの食事を抜いて検査に挑みましたが、年数が経っていたためにアンケート形式の問診と診察がありました。

この病院は朝食を抜いて9時半に来れば誰でも検査をしてくれるのです。この辺では有名で、⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️5つの、信頼できる病院として有名なんです。

私はこの世に生まれて、子供時代を過ごし青春時代を過ごし、恋愛して結婚して親との同居もして子供も産み育て、手術の経験もし、生理的な経験はほぼ全部やったので、あとは死のことが未経験だなと思っていたが、まだひとつありました。

アンケートで肛門の筋肉が弱くなっているか、気になることがあると書いたために、診察の時診察台でお尻をみせなければいけなくなった。

ゲッと思った。

しかし先生は目の高さの診察台で、私のそこの状態を触診した。

これは初めてだった。
でも先生というものは何百何千という患者のお尻を見てるのだから…と思うことにして診てもらった。

肛門は大丈夫!と言った。

ホッ。

さあ下剤を1時間飲み続けてが始まった。
なぜか私だけ、下剤の他に紙オムツが渡された。
歳をとってるから?

そしてともかくいよいよ、内視鏡の時間になった。
途中から結構痛かったので大騒ぎした。
看護師さんが身体の力を抜いてとか、優しく手を握ってくれたが、あちこちメスを入れているとそれなりに癒着があるためのようだ。

今度は麻酔でやってくれるところを探そう…なんて考えながら最後まで頑張った。

こんなおばあさんが大騒ぎしたのよ。
でも優しい看護師さんだった。

腸の中は、ポリープもなくきれいでした。

これだと数年は検便で済ませたいな。

午後帰宅してからは、ゆっくり過ごした。
夕方、アンからメールが来たので電話してみたら遊びに行っていい?と聞かれた。

いいよ、おいでよ…になり2人が遊びに来てくれた。夜10時まで好きなことして時々話をした。夕飯は何もなかったのでチャーハンにした。

明日も暇なんだ。

で、明日はゆうちゃんと1日過ごすことにした。

楽しみだな。

今日一日大変だった。

おやすみなさい。


怖がらない

2019-08-28 08:03:04 | Weblog
昨夜テレビで、ある女医の事をみた。
長年女性の更年期、不安症症候群に悩まされてる患者と向き合うドキュメンタリーだ。

途中から見たので始めの頃はよくわからないが、私の通ってきた道だなと思った。
女医さん自体、更年期のような壮絶な経験を持っていた。
それが脳との関係するとのことだった。まだ研究途中ではあるが患者と向き合いながら、この仕事に生きると。

私のあの頃、仕事ものりのりの時期だったが、得体の知れない何かに困っていた頃だ。
あんな時コバちゃんがいたり娘の結婚があったりで、いいことも悩みのタネもあって乗り越えたかなと思う。
ごちゃごちゃと大勢で生活してることがいいことだったのかな。

その女医さんは、目標は100歳まで現役で仕事することと言っていた。その目標の為に、体幹を鍛えたり筋肉をつけている。

そのことに私は共感した。
100歳まで現役、そのつもりで生きればいいのだ。

それで途中で何かの病気になったら、ああそうか、病気なんだなと受け入れられそう。

まだ元気なうちに、自分はいつどうやって、どんな病気になって死ぬのかなと考える必要もないのね。

それだと損だと思うし、もったいない。

やがて娘たちに更年期のようなことが起こる歳になった時、生きていて何か力になれたらいいなと思った。

人の役に立つのが嬉しいな。

まだまだ、生きないとなー。

強く生きるのだ!

胃カメラ

2019-08-26 11:14:01 | Weblog
だいたい毎年している胃カメラをやってきました。
35年ほど前、コバちゃんがかかっているクリニックに送っていくことがあり、それなら私もと、お世話になっている。
その時の先生はもうかなりのお歳で、10年ほど前から娘さんが引き継いでいる。

しかし胃カメラはその時の大先生なのだ。
今年最後かな?大丈夫かな?と思いながら受けてきて問題はなかった。


今日来てみたら、髭の濃い若い先生だった。大丈夫かな、この人…と思った。

上手でした。ていうか、受ける私も上手でしたから。その後血液検査と採尿して帰って来た。

これから仕事なんです。何とか時間通りに終わって良かった。

ここの大先生は、うちのおじいちゃんの病気を見つけた人だ。優しい言い方で、聞いて来たおじいちゃんの説明が曖昧だったので、私が聞きに行った。

身体に腫瘍ができています。癌研か防衛医大かどちらにしますか?と聞かれた。
その時、先生の顔が遠くに小さく見えた。
かなりショックだったことを覚えている。

そのまま夫の上の姉の家に行き、その説明をした。急を要していた。

入院の日レッスンを休みにしておじいちゃんに付き添った。
おじいちゃんは「えみちゃん、レッスン休ませて悪かったね」と言った。
「大丈夫よ」としっかりした声を出していうのが精一杯だった。

あの時から家中がこのクリニックにお世話になっていたな。

この後、大腸検査をするかどうか迷っているが、どうしようかなあ、

あれって、結構大変なんだもんなあ。

親の想い…

2019-08-24 12:09:08 | Weblog
子供に夢を託してたなと、思い出した。
特に長女には期待していた。
初めての子供だから、どうしてもそうなるだろう。

私は長女が3歳になると、うちの教室のピアノの先生にお願いしてレッスンを始めたた。
4歳になると、私のピアノの先生にも習わせた。同時期に街のヤマハの幼児科にも通わせ、親として私も次女を連れて通った。しかしこれは発表会に一度出ただけでやめた。

私が仕事が忙しくなったからである。

私はあの頃長女にひどいことをしたことがあった。なんどもやった覚えがある。
先生のレッスンを受けながら足をブラブラしてるのが気になって、帰りにひどく怒った。
長女はその場で怒られないので、何を怒られてるかわからなかったことだろう。

練習させるために髪を引っ張って、泣かしたりした。

あの頃のことを言われると、まだ親として未熟だったからだと話すが、本当はちょっと違うかもしれない。

私は長女に、ピアニストになって欲しかったのだと気がついた。
長女が夜中に泣いたりしたことをピアノの先生に話したら、先生は「そんなのまだまだよ、もっと泣いてもやるべき」とおっしゃった。

でも私は、それ以上はやめた。
甘い親になった。
何か他の手もあるだろうと思ったのと、自分が得意ではないものは子供も得意ではないだろうと気づいたから。

ピアニストの道は簡単ではない。親も鬼になれなければ無理だ。

子供の頃母親を亡くしたり、結婚してすぐ妹を亡くしたりしていたので、せっかく生まれてくれた子供にひどいことをするのはやめた。

横隔膜が苦しくなるほど、泣かせるなんて。

次女には2歳でバイオリンを習わせた。
姉妹は別の楽器が良いと思ったので、あえてバイオリンにした。

小学四年で、長女と次女は別の楽器と出会った。その時の顧問の先生には、感謝しています。

子供って親だけでは育たないもので、色々な人にお世話になって大きくなる。
うちの中でもコバちゃんやおじいちゃんにも、可愛がってもらった。

子供は下に行くほど親のしばりが緩くなるので、3番目の長男は生きてさえいてくれればいい…と思って育てた。

長男も小学校で、吹奏楽部に入れればよかったかな?と今は思うが、好きなことを見つけたからそれはそれでよかったと思う。

早いもので、孫たちの将来が気になり始めた。何になるにしても、祖母としてとても楽しみだ。

将来、孫と暮らしたいなあ。
そんなこと、あるかな?

ではまたね。
おやすみなさい。

ボランティアは自己満足?

2019-08-21 15:21:41 | Weblog
昨日、本番でした。

たくさんの利用者さんの前で、歌ったりオカリナを吹いたりして来ました。

今日、昔の友人に会いました。
懐かしい人で、楽器店の社員時代の20歳頃からの友人です。
あの頃の友人はほかにあと2人いますが、縁があって会いたいと思えるのが彼女でした。

彼女と話していて、ボランティアのコンサートの形はいろいろあっていいなと思いました。
昔世田谷でやっていた歌声喫茶を思い出しました。

一方的なコンサートももちろんいいですが、共に楽しめる歌声喫茶も素敵なものだなと。その中で、オカリナを吹いたりもできる。

できる楽しいことを増やしていこうと思います。
そして時々、自主コンサートを仲間とやる。


それが心から楽しめるなら、私にとっても目標にしたい生き方と言えます。

昔始めた世田谷での歌声喫茶も、始めはコバちゃんから強い反対があった。
主婦が日曜日に家を開けるだなんて…とか散々言われてね。でも私には必要な反対だったかと思う。
なんの反対もないならもっともっと勝手に自由にしていたと思うから。
少しストップをかける人がいた方が良いからね。

しかし反対されても何のその…という感じだった。

世田谷の歌声喫茶は、ボランティアではなかったが高額の謝礼でもなかった。
コバちゃんはそのことを言いたかったようだったが、私は高額の謝礼をいただいているから手を抜くわけはないと言って説得した。

月に2回、主婦が家を空けて楽しんだ。

ボランティアは自己満足かもしれない。

でもそれで、だから良いのだ。

もともと音楽はお金ばかりかかって、仕事にしても大金を手にするものではない。特に私のように音楽家ではなく、音楽屋の人間にはね。

音楽家ではなく、音楽屋なのが気に入っている。
だからボランティアでいい。

それには楽しくなければダメだ。
気に入った仲間と、気に入った内容で。
一つの妥協もなく、曇りのない状態が必要だ。



お墓参り

2019-08-17 23:31:05 | Weblog
婚家のお盆は、7月に済ましておいたが、実家の墓参りには先日行ってきた。

33歳の母は、心残りのまま逝ってしまったのだと思う。

まだ、たったの33歳だもの。

でも亡くなる時には苦しくて辛くて、もういいやと思ったのだろう。
1番下の妹の名前を何度も呼んだときいている。
私は珠算大会に行かされたので、死に目には会えなかった。行きたくなかったが、父が行ってこいよと言ったので行きました。

珠算大会の間に、映画も観た。あの頃の少年ジェットだった。
私は何をしていても何を見ていても、頭の中は母のことでいっぱいだった。

私の子供達だって、もう33歳は超えてしまった。

33歳とは女性の厄年だ。

私の母が33歳の時、父は42歳で、父も男の厄年だった。不思議な危ない年まわりだった。

私が33歳の時3人目の子を宿したので、夫は33歳で出産ということを心配した。
上の2人は街の産婦人科で産んだが、今度ばかりは国立病院で産むように言った。

3人目だというのになかなか産まれず、看護師たちは「経産婦なのに…」と口々に言った。
これじゃあ促進剤を打たないと…と言われ、注射器を見た途端陣痛が起きた。
しかし注射はされてしまったのだ。


産まれてから、家族がぞろぞろやってきた。
長女はニコニコしていたが、次女は壁から片目だけでこちらを見ていた。次女は6歳まで末っ子として可愛がられていたが、予定外に下に兄妹ができたのでどう思ったかな。

夫は顔を見せたが赤ん坊をちょっと見ただけで、目を真っ赤にしていた。

泣いたようだった。

無事に産まれるか、産んだあと私が無事かどうかかなり心配していたようだった。

そしてみんな、帰って行った。

少ししてまた夫だけが戻ってきた。

「どっちが産まれたの?」と言ったので、私が「あれっ?言わなかったっけ?、男の子よ!」と答えたら、なんだかまた目が潤んだ。


33歳の厄年の、大きな厄落としは無事に終わったのでした。

母親の年をとる姿、見たかったな。
子供も見せてやりたかったな。

もう母の倍もの年月を生きた。

長生きしているな。

づがれだーー!

2019-08-15 22:13:47 | Weblog
「ばあば、トイレの掃除はね、ここのところの汚れが落ちないとダメなんだよ。アンナはね、いつもこの曲がり角をこうやって掃除しているんだよ。だからばあばもこういう風にやってみてね。」5歳の頃のアンナの言葉です。
さも毎日トイレを掃除してるのごとく言い放ったのでした。

今日はゆうりが似たようなことを言いました。

「ばあば、お風呂汚いよ。」

「お風呂はじいじの仕事なんだけど、やけどしたからやってないんだよ」

「なら、ばあばがやれば」

「ゆうりも手伝ってくれる?」

「うん」

ということで、裸んぼのまんま2人でブラシ持って掃除を始めた。とても綺麗になりました。

「疲れたよ。早く洗って出よう。ばあばはおばあさんだから疲れちゃった。」

「ばあばはおばあさんなの?すぐ死んじゃうの?」

「すぐとは言わないけど、まあまあそのうちに死んじゃうと思うよ」


「ダメだよ死んだら、パパが悲しがるよ。パパはばあばが好きなんだから」

「そうなの?」

「パパはばあばが大好きって言ったよ」

「わかった、結構長生きすると思うよ。大丈夫だよ」

「そうだね」

お風呂から出て遊びたかったようだが、遅くなるから送っていこうとしたら、パパが迎えにきた。

孫と過ごすのは面白い。

ゆうちゃんはこの頃、ポテトチップスが気に入ってるようだ。


ライブ、終わりました。

2019-08-12 05:58:47 | Weblog
昨夜ライブが無事終了しました。
め組〜ハリケーンのデュエットはオープニングでした。もう一曲はおしまいの方で、緊張は長く続きました。

同じ門下の方々の演奏を聴きながら、またその方々と談笑しながらお食事しながら、今後私はどうして行ったらいいのかなと考えていました。

9月からやめることを決めながら、ライブで演奏するのは少し複雑な気持ちでした。
やめる原因は、私の側にあるがその理由をさまざまなことにこじつけていた。

この歳で、例えばレッスン代の捻出の問題も当然ある。
昔のように仕事がうまくいっていれば、レッスンのみならず研修やら講座やら、行きたいのだから。

長年のザルのような金銭感覚。
これの改革をする必要があるため、いくつかのことを縮小や削減する中に、私のマイプライベートレッスンも入っていた。

音楽とは、ゆとりの中にあるべきだと思う。楽しい趣味の延長上に見つけたこの仕事だったから。
ゆとり=無駄なことかな?
無駄なことと思えるものの中に、有意義なことがたくさんあるのだよな。
でもこんなカッコいい綺麗事の考え方は、昔のこと。

昨夜はライブの興奮のせいか、疲れているはずなのに眠れなかった。
4時だったが、エイっと起きてしまった。

植木に水やりしたり、ゴミの片付け、洗濯、着るものの整理をした。
忙しくしていて片付いてなかったものを片付けると、無駄なものが見えて、大事なものが分かったりする。

9月の仕事の段取りはこれからだ。

駐車場を一つ返すこと、美味しい水をやめること、牛乳を二箇所から取っていることをやめること、電話をNTTに戻したこと。夫にはできないことだが、電気をよく消すこと。こんな改革でもしないよりはいいのではないか。

年金暮らしであることを、考慮するだけだ。


しかし今日感じたことだが、ダイエットと節約は同じ線上ににあるわね。
ダイエットの必要のない人は節約が出来ている。
あーやらなくちゃダイエット!といつも思っているだけの人は節約も出来ていないなあ。昨夜のライブに出た人たちを観察しながら思った。

職場でも、仕事のやり方で家庭生活の運営がうまくきれいに出来ている人はわかる。

わたしの中のいろいろな不満不安など、昨夜のライブやりながらとことん考えて、今朝いろいろ片付けて少し答えが見えてきました。

毎度言います。

このブログはほんとうに、赤裸々なブログなのでほぼほぼ実話を書いています。
子供たちはそんな私の女気を心配することもあります。

でも、本当のことをここに書くことで心のバランスを取っています。
それに人はいくつになっても、望めば成長する。

成長の過程なので、赤裸々やっています。
読んでいただき、ありがとうございます。


いいなあ…

2019-08-07 23:55:37 | Weblog
仲間の1人が、このところ洋服を習って作っている。着物がたくさんあるから、それを活用したいと始めたのでした。

私は、レッスンするときの服が自分で縫えたらいいなと思う。
コバちゃんが洋裁の達人だったので、うちの子供たちのものは全部作ってくれた。
どこにもないような、ステキな出来のものばかりだった。

コバちゃんの娘たちも洋裁が得意で、子供には手作りのものを着せていた。それがお下がりで我が家に来て、うちの女の子たちも手作りの服を着ていた。どこにも売ってない、手作りです。

私は今日ではないが、できないのではなくやらなかったのだから、簡単なワンパターンのものを覚えたら作れるのではないかなと思う。
そして何枚か作るうちに慣れるかもしれない。

そうだコバちゃんの形見のミシンを使おうかな。

長女も長男もミシンが使える。
私にできないはずがない。

まず直線縫いを練習しようかな。

9月からひとつやめるから、始めてみたい。

この頃は生地やパターン型紙などもうっているみたいだからな。

近くのイオンは9月末で閉めてしまう。その前にそこに習いに行こう。2日ほどで1着縫えるという。

コバちゃんのミシンは、80年も昔のシンガーミシンだ。今から10年ほど前にあるミシンメーカーのセールスマンに散々自慢して、そのメーカーの営業マンに乗せられて新しいのを買わされるかなと思っていたら、何ととてもよくしてもらって調整してもらいご機嫌だった。

その後コバちゃんは、なんだか息子にジーンズを縫わされたりしただけでその後使ってない。

だんだん認知症になり、92歳の時に特養に入所したのだった。

中学生の家庭科以来だな。

ヒェ〜!

蛙の子は蛙…?

2019-08-04 11:01:37 | Weblog
昔発表会になると、どうしても家の中のことがいい加減になった。しかし家族が食べるものの用意はカレーやらシチューなどになるが、用意は最低限やっていたように思う。

夫は楽器の運搬、コバちゃんは1番下の息子の子守り、娘たちは生徒として演奏した。

発表会は、こうやるもの…と娘たちは見ていたと思う。長女などは進んで楽器もはこんだし、細々したことをやってくれた。

今日は長女主催のコンサートの日だ。長女の2人の娘、アンとみーちゃんは裏方を手伝っているのだろうな。

先日アンとみーちゃんの将来の夢を聞かせてもらった。どんな道に進もうが自由だが、いろいろな思いや親の助言も考慮してるようだった。

教師の家には教師が育ち、保育士の家には保育士が育つ。医者の家にも医者が生まれますね。
看護師だった私の母は、子育てが一息ついたらまた復活したかったと思うが、叶わず早く亡くなってしまった。

母が長生きしたら、私も看護師の道だったかなと思うことがある。それでこの歳になって、ヘルパーなどしたのかなと思う。

私は、叔父にあたる人の中にバンドマンがいたので、そちらの影響かわからないが小学校からピアノやオルガンが好きだった気がする。

孫たちには、どんな未来があるのだろう。

少しは見られるかもしれない。

子供は環境で育つ。

楽しみだなと思う。