18年前に亡くなった父が生きていれば、100歳だ。
昨夜ユーミンがNHKで、お母さんが100歳との話をしていたので、私も父を思い出した。ユーミンのお母さんと私の父は同い年だったのだ。
父が72歳の頃は、まだとても元気だった。
本庄から車を運転してうちに来て、コバちゃんからの頼み事をやっていた。
雨戸の修繕をやってくれたが、その仕事ぶりにコバちゃんは目を細めて喜んだ。
必要な材料をドイトまで一緒に買いに行き、父はまだまだ元気でいてくれると思っていた。
コバちゃんは父より2つ年上だった。
「あたしが片付いたら、お父さんをうちに呼んで一緒に住んで世話したらいいよ」と良く言っていた。
79歳で脳梗塞を起こし、失語症になった時は群馬の病院に週に3回は通い、病院の外に連れ出してタバコを吸うのも許して、2人でコーヒーを飲んだ。
その時コバちゃんは「うちにあたしがいるのに、頻繁にお父さんとこ行くのはどうかと思う。高速代だってかかるだろうに」と言った。
「たった1人の父なんです。そんな嫌なことを言っても、私は行くんですから」と口答えして、さっさと飛んで出かけた。
そしてそのまま、午後からの椿峰のレッスンをこなし、夜家に帰って来た。朝早くに夕飯の支度もしてでかけていたのだった。
その頃はもう子供も24歳、21歳、15歳になっていた。
それから父は3年生きて、長女の結婚式にも列席できました。
3年後、心筋梗塞を起こし入院した。
父が危ないという時、医者はハッキリというべきだと思った。身内のもしものことなど当事者たちは思いもよらないのだ。
看護師はただ「お父さんは寂しいと思いますから顔を見せてあげてください」というだけだった。
「もう危ないのだから、いつ亡くなってもおかしく無い状態です。どんどん来てくださいよ」とでも言ってくれたら、覚悟もできたのに。
妹や弟にはハッキリしたことは言っていたのかもしれないが、私にはまだピンと来てなかった。
ただ「困ったな。今度はだめなのかな」という漠然とした思いはあった。
往復の車の中で、久石譲のサマーとか千と千尋の神隠しの挿入歌を聴きながら通った。
戦争に行き母の亡き後、男手ひとつで私たちを育てた父は小柄な人だったが、母の分も生きたと思う。
82歳だった。
ユーミンのお母さんは100歳でお元気なのだ。
いいなあ…。
昨夜は子供と孫たちが集まった。
私は天ぷらを揚げて待っていた。
「わーい、やったあ!」という孫たちの声を聴くと、こんな幸せいいじゃん!と思う。
夫は便乗して幸せだろうと思うが、食事時以外は自分の部屋でテレビを見ている。
先日私は鍋を真っ黒焦げにした。
「焦げちゃった鍋は捨てるんだ。鍋は安いから買うの」と言った。
「焦がした鍋は捨てるのか?焦げを洗い落とせよ」と、夫。
「コバちゃんがいた時は、そういうのやってたけど今はしないの」
2日ほどしたら鍋の焦げが落ちていた。
「俺が磨いたんだぞ。捨てるっていうから」
「磨かせようとして、そう言ったんだもんね」
「嫌なやつだな、お前って!」
「したたか、でしょう?」
「玄関の外に生協の発泡スチロールの箱の中に、牛乳が入ったまま丸一日置いてあったのも、俺が冷蔵庫にしまったんだ」
「冷蔵庫にしまわせたくて、置いといたんだもんね」
「お前って嫌なやつだな、やっぱり」
毎日寒いですね。
あと1ヶ月半は、我慢ですね。
コロナもまだまだ先が見えません。
気をつけてお過ごし下さいませ。