森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

分かれ道

2009年12月07日 23時49分35秒 | 過去ログ
日曜は奈良リハの千葉さん、平澤さんとともに摂南総合病院まで向かう。
彼女らは発達障害児と共同注意するPT,OTである。
病院につくやいなや仲間と再会を祝う。
ほぼ8割以上が小児リハに向き合うセラピストであることにうれしさを思う。
小児リハは40年間何も変わっていないのである。
そこに風穴をあけてもらいたい。

「子どもたちは何をみて、何を感じているのだろうか?」という視点にたって。

リハビリテーションは子どもたちにできない経験(動けない経験)を教えてきた。
それはシナプス結合において。
何も知らない脳は、身体から経験をつくりだす。
本来、シナプス過剰形成のためには、意味、無意味を度外視して、
ボトムアップに網を構築する。
しかし、その経験プロセスを経由せずに、
関係する大人の視点で、網の枠組みを狭めてしまう。
援助のつもりが援助になっていなく、
ボトムアップ信号に基づく結び合わせを経由せずに、
いきなり外部援助によりある領域のトップダウン信号をつくりだし、
狭い範囲での神経ネットワークの組織化しか形成できていない。


手足を使ってまずが外界と内界を感じさせ、
それによって身体が意味を与え、
その後、手足は何かを調べようとする器官に変化していく。
そのプロセスを省いて、動け、動かせはどうかと思う。
手は世界と接触する。

手の運動は「何かを調べる」ために生まれるのである。
これは先日のハンドセラピー学会でもいった。
なぜ、女性の乳房を触った際の「運動」は「あのように」なるのかを?
そのやわらかさを調べるための動きなのである。

もし世界が暗闇で何も聞こえず、また身体からは何も感じなければ、
我々は単なる物質でしかない。
世界を感じなければ(感じられなければ)動かない。
感じられるからこそ動き始めるのであるし、
そもそも人間は感じたいのである。

とにかく、急いである領域だけでトップダウン信号を形成するのはよくない。
大人のようにイメージや知覚仮説を要求するのもボトムアップ信号形成にはよくない。
なぜなら、まだシンボルを獲得していなからである。
単純なシンボル形成になったり、
下位の脳の情動反応が出現してしまう。

セラピストは子どもの世界に負けている。
安直に子どもの好きな世界に流されてはならない。
そんなことも症例発表を聞いて感じた。
楽しいだけでこの世界がつくられているのではない。
発達は運動、知覚、言語、感情などが相互に関係しあいないながら起こる。
なぜなら、脳は一つだし、
私は一つなのだから。
セラピストは教育者である。
子どもと一緒に楽しさに負けて遊ぶのではない。
そんな馬鹿な議論が先日の学会でもあった。


午後からは浅野先生の触覚の研究成果を聞き、
彼の学術的思考に感心しつつ、
人見先生の議論の深さ、
彼女のことばから症例がリアルに出現するということに
私の脳は驚き、
唯一無二の議論によって創発できるセラピスト兼学者と思った。
ひとはだれとでも議論はできる生物であるが、
私が相手の能力で、潜在的なものも引き出されるのはそういない。


懇親会ではみなに発破をかけ、
とにかく急ぐことを意識させた。
人生終わりかけで感情論になっている人たちにはまかせてられない。


本日は、S大学のO先生が来て、
社会構造のヒエラルキー問題について話した。
システムという時代であるのに、
いまだ封建社会が大学には存在している。

脳、脊髄、末梢神経、筋はどれが上でどれが下でもない。
それぞれが結合し、関係しあいながら、強めたり弱めたりする。
感受の強度を上げたり下げたりできるのは、それぞれが機能的に連結しているからである。
どれがえらいわけでもない。

社会、会社も機能的に連結し成果を上げているところは、
上も下もない。
垣根がない。
前頭前野(社長)自らが軸索を伸ばしている。

NHKのプロフェッショナルに出てくるなかで、
プロフェッショナルと思う人間は半分程度であるが、
その人たちはその触手が長いし、ミエリンが存在しているために早い。
危機管理のプロフェッショナルである。
些細なことにも耳をかし、ほころびがでないように社長自らが穴を埋め、
ある領域の機能を読み取り、それぞれに見合ったスポットライトを当てる。
それをすべて自分色に染めてしまおうとするのであれば、
それは社会システムではない。
脳がなぜ分業しているか、それは特徴があるからである。
その特徴に状況に応じてスポットライトを浴びせているのが前頭前野である。
これこそが社長の状況に応じた危機管理である。


世の中にはいまだ封建制度がある。
大学という狭くて暗黙な場所では、
そういうヒエラルキーがいまだ存在している。
それに科学エビデンスがないにもかかわらず。


幸い、我が畿央大学は外部評価から「ありえないほどのお褒めの言葉をいただいた」らしい。

若手教員の面接において、
「会議であなたの意見は反映されますか?」と問われると、
「十二分に反映されます」と。
このような大学であるからこそ、
それぞれの仕事が機能する。


だが、問題が起こることはHappyなことである。
問題を感じ取ることができる脳と身体を持っている自分は幸せだ。
まだ成長できるからである。

これこそ最大のチャンス。
自分を高めるためのチャンスである。

こうした社会の問題を解決してこそ、
ホモサピエンスなんだから。

いやなこと、つらいこと、理不尽なこと、不条理なこと、悲しいこと、
これを感じるということは差異を感じていること。
社会と接触していること。
不快を感じることから赤ちゃんは成長する。
それは単なる接近か回避か、だけでなく、
大脳皮質を機能させ始め、どのように生きればよいのかを考え始める。

怒る、泣くだけのネガティブ表出でなく、
表出に多様性を生み出す。


不安を感じられなくなれば、それは、成長を止めてしまう。
不安を感じ、ネガティブになれば、それは嫉妬の感情に変わる。
一方、不安を感じ、ポジティブになれば、それは幸福の感情、すなわち、まだ成長の余地があると思い始める。


そんなときが人生の分かれ道。

まさに勝負のときである。


途中、学部生の質問で、ミラーニューロンは運動イメージか?という質問に、
ある論争からyes、noと答えた。
一般的に無意識に共感することという定義であれば運動イメージではない。
そして、イメージは狭義の言語のみであるならばnoといえる。

しかし、意識でも無意識でもない。
非意識の世界。
それが脳の世界でもある。

メタファーにもならないメタファー予備軍は意識にのぼらないし、
もちろんイメージとしても具体的に想起できない。
赤ちゃんが言語を持たずにメタファー予備を使って模倣する現象は、
抽象的なイメージの世界でもある。
だとすれば、yesだ。
意識として、イメージとして取り出そうとしなくても、
PFとPMvが同期化(長期増強)してしまえば、この現象を説明できる。

イメージは意識として取り出し、言語(内言語)として具体化するものであるならば、ミラーニューロンは運動イメージでない。
しかし、イメージは非意識であり、メタファー予備軍として抽象化されて存在しているのであるならば、ミラーニューロンは運動イメージである。
この両者が研究成果として上がっているのならば、
それを説明するためには時間的な同期化現象を明らかにする必要がある。



今日は大学院の講義では「学習」と取り上げた。
認知、連合、自動の運動スキルの3過程のうち、
なぜ連合が大事かという視点を前頭葉と頭頂葉のネットワーク形成から話しました。
これは運動学習を考える意味でとても大事!
まだ講演では使っていない。



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