三寒四温という言葉はつくづくよくできていると思います。三月の気候は気まぐれなもので、時に「春の嵐」によって私たちの身体を凍らせます。三月上旬の暖かい気候から一転して、時に冬に逆戻りします。この感覚が、余計に春が待ち遠しいという心の形成に拍車をかけるのです。「春を待つ」という心、そしてその春が過ぎ去っていくということを知っているがゆえに、その象徴である「桜」に対して「はかなさ」という想いを寄せることができると思うのです。「待つ」ということは、文化を超えて存在するものであり、スウェーデンの友人から送られてきたメールには、冬の日照時間の少なさを嘆くとともに、日照を期待する記述がありました。
時に現代、文明が発達し、人は「待つ」ということに対して、「焦れ」が出てきたように思います。昔の人は何も連絡手段がありませんでした。たとえば、今はやりの龍馬伝から、龍馬を幼馴染の加尾が見送るという場面がありました。このときの加尾の心中はと考えた時、現代のような連絡手段がないとき、ただ単に自分自身がさみしい、つらいというよりは、むしろ、龍馬の安否だけを気遣い、自分が会えないという自己中心的な心ではなく、龍馬に対して身体だけは気をつけてほしい、そして、どこにだれといても無事にいてほしい。という他者を想う気持ちに変化しているのではないかと思うのです。これは戦時中にも同じことが言えるのはないでしょうか。あるいは、子を旅立たせる日など。
携帯電話が普及した今、いつでもどこでも連絡がとれるという行動が、私たちの「待つ」という心を奪っているのではないかと思うのです。だからこそ、待てない、焦るという気持ちに変化し、自分を見失うのではないかと。これは私自身にももちろんあります。今は私自身「ありました」という過去形にしたいと考えているのです。
たとえば、メール依存な若者の習性としてよく取り上げられている恋人と一日連絡とれないだけで「つらい」という気持ちになるのは、実は自分のことしか考えてない自分を露呈してしまっているのですが、それも脳の仕業であることは間違いありません。他者の安否を気遣うという社会的感情よりも、自己の嫌悪感という一般的情動を優先してしまうのも人です。しかし、それは待てないからこそ生まれます。大脳に余裕がないと、反射・反応脳である皮質下や脳幹で人は対応するようにできています。昔の人は、時間的余裕があったからこそ、実は私たちにとって、とても大切な社会的感情を創り、それをよき方向に進化してきたのではないでしょうか。
「待つことができない」現代は、医療においてもその遍歴があります。時間的に区切られ、そして、効率性だけを求めてしまう。医療は人が人を癒すことから生まれたはずなのに、いつしかその手を離れ、どちらかといえば、オートメーション的になり、その効果だけが独り歩きしてしまっています。人の脳は身体プロセスが付加されることで、可塑的に変化を起こしていきます。プロセスを度外視してしまえば、それは機械的な脳を形成するだけにすぎません。いつしか、速度だけが優先されてしまえば、自然的・そして時間のかかる学習的な効果は無視される時代がくるかもしれません。
そういう今こそ、「待つ脳」「待ち続ける脳」を再考してみてはどうでしょうか。脳は原則、前向きにならないとよい方向に作動しません。私自身もいろんなことを「待ち続ける」ことができるからこそ、いろんなものにチャレンジする心がわいてくるのです。しかし、待てなくなると自暴自棄になったり、あるいは砦をつくろうとしてしまいます。その典型が狭い枠組みだけで思考していくというものです。桜を待つ脳のように、人を待つことができたり、よき知らせを待つことができたり、幸せを待つことができたりする脳でありたいと思います。そして、そういう社会が幸福を伝染するものだと思っています。
時に現代、文明が発達し、人は「待つ」ということに対して、「焦れ」が出てきたように思います。昔の人は何も連絡手段がありませんでした。たとえば、今はやりの龍馬伝から、龍馬を幼馴染の加尾が見送るという場面がありました。このときの加尾の心中はと考えた時、現代のような連絡手段がないとき、ただ単に自分自身がさみしい、つらいというよりは、むしろ、龍馬の安否だけを気遣い、自分が会えないという自己中心的な心ではなく、龍馬に対して身体だけは気をつけてほしい、そして、どこにだれといても無事にいてほしい。という他者を想う気持ちに変化しているのではないかと思うのです。これは戦時中にも同じことが言えるのはないでしょうか。あるいは、子を旅立たせる日など。
携帯電話が普及した今、いつでもどこでも連絡がとれるという行動が、私たちの「待つ」という心を奪っているのではないかと思うのです。だからこそ、待てない、焦るという気持ちに変化し、自分を見失うのではないかと。これは私自身にももちろんあります。今は私自身「ありました」という過去形にしたいと考えているのです。
たとえば、メール依存な若者の習性としてよく取り上げられている恋人と一日連絡とれないだけで「つらい」という気持ちになるのは、実は自分のことしか考えてない自分を露呈してしまっているのですが、それも脳の仕業であることは間違いありません。他者の安否を気遣うという社会的感情よりも、自己の嫌悪感という一般的情動を優先してしまうのも人です。しかし、それは待てないからこそ生まれます。大脳に余裕がないと、反射・反応脳である皮質下や脳幹で人は対応するようにできています。昔の人は、時間的余裕があったからこそ、実は私たちにとって、とても大切な社会的感情を創り、それをよき方向に進化してきたのではないでしょうか。
「待つことができない」現代は、医療においてもその遍歴があります。時間的に区切られ、そして、効率性だけを求めてしまう。医療は人が人を癒すことから生まれたはずなのに、いつしかその手を離れ、どちらかといえば、オートメーション的になり、その効果だけが独り歩きしてしまっています。人の脳は身体プロセスが付加されることで、可塑的に変化を起こしていきます。プロセスを度外視してしまえば、それは機械的な脳を形成するだけにすぎません。いつしか、速度だけが優先されてしまえば、自然的・そして時間のかかる学習的な効果は無視される時代がくるかもしれません。
そういう今こそ、「待つ脳」「待ち続ける脳」を再考してみてはどうでしょうか。脳は原則、前向きにならないとよい方向に作動しません。私自身もいろんなことを「待ち続ける」ことができるからこそ、いろんなものにチャレンジする心がわいてくるのです。しかし、待てなくなると自暴自棄になったり、あるいは砦をつくろうとしてしまいます。その典型が狭い枠組みだけで思考していくというものです。桜を待つ脳のように、人を待つことができたり、よき知らせを待つことができたり、幸せを待つことができたりする脳でありたいと思います。そして、そういう社会が幸福を伝染するものだと思っています。