先週は久しぶりに身体の痺れ感が持続し、
ブログをうつことができなかった。
このサーカディアンな間隔は、「ストレス」なのかはわからないが、
自分らしく生きることで、それも解消されるのだろう。
私という現象ではなく、
私らしさの思想といったものなのか。
一昨日は学会評議員会と理事会。
表現という場は、
自らを省みる場でもある。
いつものように飲みすぎ、
情動を賦活することで、
シミュレーション脳をネグレクトして、
脳を助ける。
しかし、身体にとっては悪循環になるのかもしれない。
昨日は学会で慶応大学の高幡先生の講演の司会を行う。
彼は1979年徳島県生まれの29歳の精神科医。
まさに、新進気鋭なブレインである。
ノーベル賞を受賞したエーデルマンの著書
「脳は空よりも広いか」の訳者でもある。
意識の諸特性で「意識とは何か」を論じられ、
その後、意識の神経科学についてのエビデンスについて語られた。
とりわけ、システムとしての脳、そして、内~外の神経ダイナミクス、
複雑系の神経ネットワークモデルを用いて、
意識の科学にできるだけの接近を試みたようだ。
まずは、意識とは、注意や記憶、知覚と違って、
コラム-モジュール-フレームという単純な構造処理ではないこと。
そして、普段の意識の用い方は、注意にすぎないこと。
すなわち、僕の解釈としては、
意識と意識するとは違うこと。
意識するとは能動的な注意機構であり、
たちまち立ち上がるといった意識とは別物であるように感じた。
普段用いている「意識」とは、思考するや注意するや想像するにすぎない。
そのような認知システムではないと僕は理解する。
ここに人間の本質の難しさがあり、
それはゾンビシステムなのかもしれない。
ゾンビシステムには、現代の治療的接近では解決できない。
さまざまな意識研究の問題を考えた。
クリック(ノーベル賞受賞者)とコッホの数百万ビットから40ビットへのトップダウン処理も視覚的情報処理であり、
それは視覚に基づく意識システムであり、
目を閉じても、私がそこに存在し続けているという、
私の身体といった視点、
すなわち、それ自体が意識であるということの解明ができない。
体性感覚は自らがアクセスしなくとも、
そこに存在しているのである。
これは、認知を超えるものである。
意識とはある局在が担当しているのではなく、
脳のネットワークのニューロンスパイクの同期化、
あるいは、脳-身体-環境のネットワークで起こるもの、
これ自体は、そうなのかもしれない・・・最近は?をつけることも自らにあるが。
しかしながら、意識がオシレーションにより起こるのであれば、
それは地震のメカニズムのように、表面で現れず、地殻変動というものによる。
つまり、皮質の電気信号の時系列分析のみでは解決できない。
地殻変動を起こす、皮質下、辺縁系などの、神経伝達物質の変化の可能性がある。
人間に意識が生まれるのは、
電気信号を化学物質に変換し、それをまた電気信号に変換する。
この不便なネットワーク構造をもっているからではないかと思う。
電気信号のみで意識が生まれるのであれば、
機械、それ自体がもっているはずだ。
サーモスタッドに意識が宿るかどうかの議論になるが、
この揺らぎが電気信号同時の干渉、同期化(環境との相互作用)によって生まれるのであれば、機械にも意識が宿るはずだ。
情動による皮質のニューロンスパイクに重み付けが起こる、この結びつけ問題を超える脳の機能が、意識であるのか。
そして、その意識を生み出すハブが大脳皮質の重点的番地であるのならば、
そのハブを創っていくプロセスがクラスターによる振り分けに基づく自己組織化なのかもしれない。
この自己組織化は成長・発達に意味を持つのであるが、
脳卒中の脳自体も自己組織化してしまう。
この自己組織化自体が回復を遅らせているのかもしれない。
脳はいきあたりばったりで、ニューロンをシナプス結合するのである。
その整理、清掃社業が環境との相互作用であるが、
自由度を奪われた身体であれば、
その結合は単純なものでしかない。
脳損傷後の活動した活動した!という可塑的変化が
本来の脳活動を失わせる可能性が大いにある。
感じられないまま動かさせるこの介入によって、
脳を賦活させることができるが、
それは適切な組織化でないかもしれない。
この勝手気ままなクラスター的自己組織化に打ち勝つ、
教師としてのセラピストがどこまで立ち向かえるか。
片麻痺が最終的に元に戻らない仮説がそこにもあるかもしれない。
意識のスモールワールドに意識と認知の神経ダイナミクスがある。
いずれにせよ、認知の樹でもあったが、
「それは必ずしも最善であるのか」と反省し続け、
未来に向かわないといけない。
不満、後悔を持つ人間、それは未来な人間だ。
とにかく、人間というものは筋肉の塊ではない、まさに複雑ワールドなのだから、
難解な科学こそが、その真実なのだ。
患者の家族は元に戻らない現実といつも格闘している。
回復とは単に見えるものではない。
関節を曲げられている身体、歩かされている身体、それは自分ではない。
リハビリテーションとは何なのか。
単純な思考でそれ自体を説明することがナンセンスである。
強靭なハートをもった攻撃的なセラピストにあいたい。
今週の「フライデー」に出ています・・・
暇ならみてください。
ブログをうつことができなかった。
このサーカディアンな間隔は、「ストレス」なのかはわからないが、
自分らしく生きることで、それも解消されるのだろう。
私という現象ではなく、
私らしさの思想といったものなのか。
一昨日は学会評議員会と理事会。
表現という場は、
自らを省みる場でもある。
いつものように飲みすぎ、
情動を賦活することで、
シミュレーション脳をネグレクトして、
脳を助ける。
しかし、身体にとっては悪循環になるのかもしれない。
昨日は学会で慶応大学の高幡先生の講演の司会を行う。
彼は1979年徳島県生まれの29歳の精神科医。
まさに、新進気鋭なブレインである。
ノーベル賞を受賞したエーデルマンの著書
「脳は空よりも広いか」の訳者でもある。
意識の諸特性で「意識とは何か」を論じられ、
その後、意識の神経科学についてのエビデンスについて語られた。
とりわけ、システムとしての脳、そして、内~外の神経ダイナミクス、
複雑系の神経ネットワークモデルを用いて、
意識の科学にできるだけの接近を試みたようだ。
まずは、意識とは、注意や記憶、知覚と違って、
コラム-モジュール-フレームという単純な構造処理ではないこと。
そして、普段の意識の用い方は、注意にすぎないこと。
すなわち、僕の解釈としては、
意識と意識するとは違うこと。
意識するとは能動的な注意機構であり、
たちまち立ち上がるといった意識とは別物であるように感じた。
普段用いている「意識」とは、思考するや注意するや想像するにすぎない。
そのような認知システムではないと僕は理解する。
ここに人間の本質の難しさがあり、
それはゾンビシステムなのかもしれない。
ゾンビシステムには、現代の治療的接近では解決できない。
さまざまな意識研究の問題を考えた。
クリック(ノーベル賞受賞者)とコッホの数百万ビットから40ビットへのトップダウン処理も視覚的情報処理であり、
それは視覚に基づく意識システムであり、
目を閉じても、私がそこに存在し続けているという、
私の身体といった視点、
すなわち、それ自体が意識であるということの解明ができない。
体性感覚は自らがアクセスしなくとも、
そこに存在しているのである。
これは、認知を超えるものである。
意識とはある局在が担当しているのではなく、
脳のネットワークのニューロンスパイクの同期化、
あるいは、脳-身体-環境のネットワークで起こるもの、
これ自体は、そうなのかもしれない・・・最近は?をつけることも自らにあるが。
しかしながら、意識がオシレーションにより起こるのであれば、
それは地震のメカニズムのように、表面で現れず、地殻変動というものによる。
つまり、皮質の電気信号の時系列分析のみでは解決できない。
地殻変動を起こす、皮質下、辺縁系などの、神経伝達物質の変化の可能性がある。
人間に意識が生まれるのは、
電気信号を化学物質に変換し、それをまた電気信号に変換する。
この不便なネットワーク構造をもっているからではないかと思う。
電気信号のみで意識が生まれるのであれば、
機械、それ自体がもっているはずだ。
サーモスタッドに意識が宿るかどうかの議論になるが、
この揺らぎが電気信号同時の干渉、同期化(環境との相互作用)によって生まれるのであれば、機械にも意識が宿るはずだ。
情動による皮質のニューロンスパイクに重み付けが起こる、この結びつけ問題を超える脳の機能が、意識であるのか。
そして、その意識を生み出すハブが大脳皮質の重点的番地であるのならば、
そのハブを創っていくプロセスがクラスターによる振り分けに基づく自己組織化なのかもしれない。
この自己組織化は成長・発達に意味を持つのであるが、
脳卒中の脳自体も自己組織化してしまう。
この自己組織化自体が回復を遅らせているのかもしれない。
脳はいきあたりばったりで、ニューロンをシナプス結合するのである。
その整理、清掃社業が環境との相互作用であるが、
自由度を奪われた身体であれば、
その結合は単純なものでしかない。
脳損傷後の活動した活動した!という可塑的変化が
本来の脳活動を失わせる可能性が大いにある。
感じられないまま動かさせるこの介入によって、
脳を賦活させることができるが、
それは適切な組織化でないかもしれない。
この勝手気ままなクラスター的自己組織化に打ち勝つ、
教師としてのセラピストがどこまで立ち向かえるか。
片麻痺が最終的に元に戻らない仮説がそこにもあるかもしれない。
意識のスモールワールドに意識と認知の神経ダイナミクスがある。
いずれにせよ、認知の樹でもあったが、
「それは必ずしも最善であるのか」と反省し続け、
未来に向かわないといけない。
不満、後悔を持つ人間、それは未来な人間だ。
とにかく、人間というものは筋肉の塊ではない、まさに複雑ワールドなのだから、
難解な科学こそが、その真実なのだ。
患者の家族は元に戻らない現実といつも格闘している。
回復とは単に見えるものではない。
関節を曲げられている身体、歩かされている身体、それは自分ではない。
リハビリテーションとは何なのか。
単純な思考でそれ自体を説明することがナンセンスである。
強靭なハートをもった攻撃的なセラピストにあいたい。
今週の「フライデー」に出ています・・・
暇ならみてください。