森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

不満、後悔、そして未来へ

2008年07月06日 07時50分10秒 | 過去ログ
先週は久しぶりに身体の痺れ感が持続し、
ブログをうつことができなかった。
このサーカディアンな間隔は、「ストレス」なのかはわからないが、
自分らしく生きることで、それも解消されるのだろう。

私という現象ではなく、
私らしさの思想といったものなのか。

一昨日は学会評議員会と理事会。
表現という場は、
自らを省みる場でもある。

いつものように飲みすぎ、
情動を賦活することで、
シミュレーション脳をネグレクトして、
脳を助ける。
しかし、身体にとっては悪循環になるのかもしれない。

昨日は学会で慶応大学の高幡先生の講演の司会を行う。
彼は1979年徳島県生まれの29歳の精神科医。
まさに、新進気鋭なブレインである。
ノーベル賞を受賞したエーデルマンの著書
「脳は空よりも広いか」の訳者でもある。

意識の諸特性で「意識とは何か」を論じられ、
その後、意識の神経科学についてのエビデンスについて語られた。
とりわけ、システムとしての脳、そして、内~外の神経ダイナミクス、
複雑系の神経ネットワークモデルを用いて、
意識の科学にできるだけの接近を試みたようだ。

まずは、意識とは、注意や記憶、知覚と違って、
コラム-モジュール-フレームという単純な構造処理ではないこと。
そして、普段の意識の用い方は、注意にすぎないこと。
すなわち、僕の解釈としては、
意識と意識するとは違うこと。
意識するとは能動的な注意機構であり、
たちまち立ち上がるといった意識とは別物であるように感じた。
普段用いている「意識」とは、思考するや注意するや想像するにすぎない。
そのような認知システムではないと僕は理解する。
ここに人間の本質の難しさがあり、
それはゾンビシステムなのかもしれない。
ゾンビシステムには、現代の治療的接近では解決できない。

さまざまな意識研究の問題を考えた。
クリック(ノーベル賞受賞者)とコッホの数百万ビットから40ビットへのトップダウン処理も視覚的情報処理であり、
それは視覚に基づく意識システムであり、
目を閉じても、私がそこに存在し続けているという、
私の身体といった視点、
すなわち、それ自体が意識であるということの解明ができない。
体性感覚は自らがアクセスしなくとも、
そこに存在しているのである。
これは、認知を超えるものである。

意識とはある局在が担当しているのではなく、
脳のネットワークのニューロンスパイクの同期化、
あるいは、脳-身体-環境のネットワークで起こるもの、
これ自体は、そうなのかもしれない・・・最近は?をつけることも自らにあるが。

しかしながら、意識がオシレーションにより起こるのであれば、
それは地震のメカニズムのように、表面で現れず、地殻変動というものによる。
つまり、皮質の電気信号の時系列分析のみでは解決できない。
地殻変動を起こす、皮質下、辺縁系などの、神経伝達物質の変化の可能性がある。
人間に意識が生まれるのは、
電気信号を化学物質に変換し、それをまた電気信号に変換する。
この不便なネットワーク構造をもっているからではないかと思う。
電気信号のみで意識が生まれるのであれば、
機械、それ自体がもっているはずだ。
サーモスタッドに意識が宿るかどうかの議論になるが、
この揺らぎが電気信号同時の干渉、同期化(環境との相互作用)によって生まれるのであれば、機械にも意識が宿るはずだ。
情動による皮質のニューロンスパイクに重み付けが起こる、この結びつけ問題を超える脳の機能が、意識であるのか。
そして、その意識を生み出すハブが大脳皮質の重点的番地であるのならば、
そのハブを創っていくプロセスがクラスターによる振り分けに基づく自己組織化なのかもしれない。

この自己組織化は成長・発達に意味を持つのであるが、
脳卒中の脳自体も自己組織化してしまう。
この自己組織化自体が回復を遅らせているのかもしれない。
脳はいきあたりばったりで、ニューロンをシナプス結合するのである。
その整理、清掃社業が環境との相互作用であるが、
自由度を奪われた身体であれば、
その結合は単純なものでしかない。

脳損傷後の活動した活動した!という可塑的変化が
本来の脳活動を失わせる可能性が大いにある。
感じられないまま動かさせるこの介入によって、
脳を賦活させることができるが、
それは適切な組織化でないかもしれない。
この勝手気ままなクラスター的自己組織化に打ち勝つ、
教師としてのセラピストがどこまで立ち向かえるか。
片麻痺が最終的に元に戻らない仮説がそこにもあるかもしれない。

意識のスモールワールドに意識と認知の神経ダイナミクスがある。

いずれにせよ、認知の樹でもあったが、
「それは必ずしも最善であるのか」と反省し続け、
未来に向かわないといけない。

不満、後悔を持つ人間、それは未来な人間だ。

とにかく、人間というものは筋肉の塊ではない、まさに複雑ワールドなのだから、
難解な科学こそが、その真実なのだ。

患者の家族は元に戻らない現実といつも格闘している。
回復とは単に見えるものではない。
関節を曲げられている身体、歩かされている身体、それは自分ではない。
リハビリテーションとは何なのか。
単純な思考でそれ自体を説明することがナンセンスである。


強靭なハートをもった攻撃的なセラピストにあいたい。



今週の「フライデー」に出ています・・・

暇ならみてください。